(5)
目的を完璧に果たした上、誰にも見咎められる事なく教会の塔から脱出できた。
その時点で普段のユーマならば、くたくたに力を抜いていたに違いない。
だが、今日は無理である。肩を張ったまま、どうにも力が抜けない。とんでもないものを見てしまったという想いが、炎のように胸の内で揺らめいている。〈レーベンワール〉の圧倒的な戦闘風景が、瞳を閉ざせば鮮やかに甦ってくるのだ。
レイティシアもご満悦である。
「ありがとう、お兄ちゃん」
そんな一言で、ユーマはぞっとして現実に引き戻された。
普段は『ユーマ』と呼び捨てにされている。そんな呼ばれ方がいつしか当たり前になってしまったから、昔のように『お兄ちゃん』と猫撫で声で呼ばれるだけで途方もない違和感。なんだか背中に虫でも入れられたように気味が悪い。
レイティシアも、ユーマが動揺する事はちゃんと理解している。
理解した上で、時々、嫌がらせのようにそう呼んでくるのだ。
「ここまでデートに連れて来てくれて、本当にありがとう。もしも、教会に不法侵入したことがバレた時は、お兄ちゃんが一人でやったことにしてくれると信じてるからね。私は無関係だって、ちゃんと云ってくれる? ねえ、お兄ちゃん?」
両手を合わせて、お願いのポーズ。
最後まで余念がないレイティシア。
妹ながら、悪女が板に付いている辺り、ちょっと怖い。
いや、普通に怖い。
もはや何も云う気になれず、ユーマは無言で頷いた。すると、「わーい、お兄ちゃん。大好き」と、わざとらしく声を弾ませたレイティシアから飛び付かれる。
そして、頬にキスされた。
「な、なにするんだよ!」
思いっきり飛び退いた拍子に、ユーマは派手に転んだ。
レイティシアは笑顔から一転し、冷めた目で見下ろしてくる。
「馬鹿じゃない? 兄妹なのに、こんなことで動揺しないでよ。顔、真っ赤よ。わかってると思うけれど、本当に秘密だからね。ユーマと違って、私はまだ人生に躓きたくないの。何よりも、今は大事な時期だから……ねえ、わかるでしょう?」
尻もちを付いたままのユーマの前で、レイティシアは腕を組む。
「私は、ユーマと違う。……お兄ちゃんが失敗してばかりで情けないから、私は、ちゃんとやって来たの。〈杖の儀式〉は、もう一ヶ月後よ」
レイティシアは、サンダルを履いた片足でユーマの肩を蹴ってきた。
ユーマが振り払えば、くすくすと笑いながら今度は腹の辺りを踏んでくる。
力はほとんど入っていない。柔らかく、何度も踏まれる。痛くはないけれど、とても馬鹿にされている。ユーマはさすがに耐えかねて、どうにか起き上がろうとするけれど――。
タイミングをぴたりと合わせるように、レイティシアは顔を寄せてきた。
地面に手を突いたままのユーマと、膝に手を置いて腰を曲げるレイティシア。
コツンと、額がぶつかった。
「私は騎士になる。お兄ちゃんはお兄ちゃんらしく、それを褒めてね」
にっこりと無邪気に――。
無邪気に見える、邪気だらけの微笑みで呟く。
そして、ユーマはレイティシアから思いっきり突き飛ばされた。
後頭部を地面に打ち付けなかったのが、不幸中の幸い。ここが坂道だったならば、勢いあまってゴロゴロと転がってしまったかも知れない。ドンと突き飛ばしたままのポーズで大きな笑い声を上げているレイティシアを、ユーマは大の字に倒れたまま見つめた。
「バイバイ、ユーマ」
ユーマが起き上がる前に、彼女はくるりと背を向ける。
「私、ちょっと遊んで帰るから。アビーやエナに会ってくるわ」
地面に座り込んだまま、ユーマはしばらく放心していた。
去り際の背中に、慌ててこれだけ告げる。
「……レティ。今日のことは、誰にも――」
「云わないわよ。云うわけないじゃない。私が、そんな馬鹿に見える? ああ、それこそ、ユーマの方こそ誰にも云わないように……なんて、そんな心配は必要ないか。ユーマは、話し相手になるような友達なんて一人もいないもんね」
そして、レイティシアは去って行った。
冷静さを取り戻した後も、最初はため息しか出ない。
(やれやれ)
既に、夕暮れである。
このまま第一王壁区画で座り込んでいれば、巡回の衛士に見つかり、あれこれと厳しく尋問されてしまうだろう。そうなっては厄介だ。転んだ拍子にズレた眼鏡をかけ直しながら、ユーマはどうにか立ち上がった。
「……帰ろう」
帰路に着きながら、ユーマは考える。
レイティシアは遊んで帰ると云っていたが、別に、ガラの悪い夜遊びではないはずだ。彼女自身も先程云っていた事だが、確かに、今は大事な時期なのだから。
むしろ、口では遊びと云いつつも――。
相変わらずの努力の方かも知れない。
レイティシアが影でこっそり剣術を習っていたりすることを、ユーマは知っている。騎士を目指すならば、剣を学ぶことには意味があると云われていた。自分の身体に白兵戦の動きを覚え込ませることで、ゴーレムを動かす時により滑らかに動かせるというのだ。
ただし、それはあくまで、まことしやかな噂である。
実の所、ゴーレムに関してはわかっていない事柄も非常に多かった。
長年のノウハウの積み重ねで、こうすれば、ああなる――という事象の関連性ならば、それなりに整理されている。だが、なぜそうなるのか、なぜそんな事ができるのかという根本的な理論は、多くが未解明のままであったりする。
例えば、『火』はその昔、世界を構成する元素のひとつであると考えられていた。『火』が温度変化に伴う化学現象に過ぎないとわかったのは、ほんの数十年前の事である。つまり、人類は数十年前まで『火』について何も理解していなかったに等しいけれど、それでも、調理に暖房に、あるいは機械の動力に――様々な形で『火』を活用してきた。
ゴーレムもそれと同じである。
今、真実とされているものが、明日も、同じ真実とは限らない。
(だから、僕だって……)
ほんのかすかな希望。
(もしかすると、万が一の可能性で、騎士に……)
ユーマは日の落ち始めた帰路を一人歩きながら、そんな風に考える。
友達がいないため外で遊ぶ事もなく、書物ばかりを読んで過ごしてきた。ゴーレムに関する知識ならば、同年代の誰にも負けない自信がある。確かに、ユーマの人生は不幸に彩られていたけれど、騎士になるチャンスが必ずしも零だとは限らないと――。
だが――。
ズキリ、と。
その瞬間、頭に痛みが走った。
最新のゴーレム〈レーベンワール〉を見られたことで軽やかだった足取りが、瞬間、ぴたりと止まる。ユーマはしばらく頭を押さえていた。発作としては小さなものだったため、幸いにしてすぐに収まるが、運が悪ければ往来の真ん中で倒れていた可能性もある。
心が、急激に冷えた。
普段からこんな調子なのに、国家の命運すら預かる騎士になりたいなんて――どう考えても、やっぱり無謀だろう。他の誰でもなく、ユーマ自身が馬鹿らしい夢と気付いていた。だから、夢を見れば見る程に虚しくなるのだ。
当たり前の結論に辿り着くのは、何も今が初めてではない。
物心付いた頃からずっと、不幸な運命について考え続けている。
無理だとわかっているのに、騎士への憧れは消えてくれない。無理だ、無理だ、無理だ――と、必死に冷たい水をかけ続けているのに、羨望と希望の火は消えてくれない所か、年月を経る毎にますます盛んに燃え上がる。
諦めたい。そうすれば、楽になれる。
でも、騎士になりたかった。
騎士になれば、そうすれば――。
(騎士になったら……)
日が落ちていた。
夜が訪れて、空には月が見えている。
大通りから繋がる小さな脇道。ガス灯のお陰でそれなりに明るい。脇道の奥には、ユーマの暮らす家が見えていた。いつも通りの風景の中で、何気なく足を止める。
(騎士になったら、僕は何を……)
狂おしく、本当は何を求めているのだろうか。
銀色の月を見つめていると、ふわりと不思議な想いが浮かび上がった。
――騎士になったら、彼女を迎えに……。
ズキリ、と。
頭痛。
いつも以上の痛みに、ユーマは小さな悲鳴を上げた。
(僕は、何を……)
痛みという深い霧の向こう側、ユーマは自分の心に必死に問いかける。
(彼女? 彼女って、誰のことだ……?)
もはや堪え切れずに悲鳴を上げながら地面に蹲っていると、慌ただしく駆け寄ってくる音が聞こえた。石畳を急ぎながらも規則正しく打つ靴の音――足音にも特徴がある。顔を上げる前から、ユーマは自分を助け起こす手が誰のものかを察していた。
だから、安心して痛みに敗北する。
「大丈夫、ユーマ?」
「……母さん、レティは遊んでから帰るって」
それだけ告げて、ユーマは完全に意識を手放した。
深い、深い闇の中に――いつもの、遠き日の夢に落ちていく。