(13)
エンノイアは、長らく馬車に揺られていた。
何処に行くのだろうか――。
そう思っていたけれど、そろそろ気付き始める。
そうか、何処にも行き着きはしないのだ――。
馬車の外に見える景色は、深い闇ばかりである。何も見えない。手足を縛る枷を見つめながら、エンノイアは座り込んだまま動けない。膝を抱えて、いつしか顔を伏せていた。
御者台に座る、もう一人の自分が何かを云っている。
『エノアには、刹那的な望みしかない』
そうだ。
『遠い未来に求めるものは何もない』
そうだ。
『六歳の奴隷の頃と、何が変わっただろうか。何も変わっていない。エノアは何も持っていない。このままではたぶん、十年後も、二十年後も……年老いて死ぬその時まで、エノアは何も変わらないまま過ごしていくのだろうね。そんな人生に意味があるのかな?』
わからない。
エンノイアは、アルマ王国で最強の騎士である。存在する価値があるのかと問われたならば、迷いなく頷いただろう。何処かの誰かにとっては、エンノイアはきっと意味のある人物に違いない。自分自身で気付かないまま、多くの人々に影響を与えているのだ。
その程度ならば想像できた。
だが、自分には意味のない事である。
最強の騎士――そう云われて悪い気はしないけれど、称号だけで腹が膨れるかと云えばそんな事はない。飢えは満たされないまま、果たして何を食べれば満足できるのか――エンノイアはたぶん、このままでは一生それを知らずに終わるのだ。
変わらない人生は退屈だろうと思った。
十九歳になるまでの、これまでの人生――。
それをまた繰り返すだけの日々ならば――。
いらない。
だから、顔を伏せていた。
『諦める?』
そんな風に問われた。
何を、諦めるのか――おそらく、全てを。エンノイアはそれも良いかも知れないと思い始めていた。何も欲しくないから、命も欲しくない。ここで死ぬと云うならば、それもあっさり受け入れてしまおうか。
ズシン、と――。
諦めかけたその時、何かが落ちてきた。
「……ん?」
顔を上げると、ユーマがそこにいた。
痛みに呻いている、腰を打ったらしい。
「死にそう……」
痛々しく弱々しい声で、そんな事を云っている。
「……ん、どうしてここに?」
「あ。エンノイアさん」
視線が合った瞬間、ユーマはパッと笑顔になったけれど――エンノイアの手足にある枷を見た瞬間、その表情を曇らせた。「ああ、これ?」と、エンノイアは敢えて自分から云ってやる。「昔、子供の頃に奴隷だった。その時の……」などと云っている内に、改めて当然の疑問に首を傾げていく。
「そう云えば、ここは何処だろうか?」
「それは、エンノイアさんが……」
ユーマは云いかけて、途中で言葉に迷うように口を閉ざした。
完璧に説明は難しい、と前置きしながら――。
「ここは、セフィロトの……俗に、精神世界と呼ばれる場所で……」
「うん。つまり、ボクの心の中だと?」
「……え。あ、はい。滅茶苦茶、理解が早いですね」
「なるほど。ユーマは何かしらの不思議パワーで、ボクの心の中にまで入り込み――そして、ヒーローみたいに助けに来てくれたと? ああ、そうか。やはりこのままぼんやりしていると、ボクは死ぬのか。おそらく、ユーマにも危険が及ぶ行為なのだろうね。うん、それぐらいの想像は付く。ごめん。そして、ありがとう」
「り、理解が早過ぎます。いや、良いんですけれど、でも、でも――」
ユーマは逆に混乱した様子だったけれど、「ま、まあ、エンノイアさんが落ち着いているのは良い事です。僕も、説明の手間が省けました」と自らを納得させるように呟き、それから真面目な表情を取り戻した。
「それでは、外に出ましょうか」
「簡単に云うけれど、出られるの?」
「簡単かどうかは、エンノイアさん次第ですよ」
心を、強く――。
ユーマはそう云った。
鍵はもう外してある、と――ゴーレム〈レーベンワール〉に巣食っていたものは倒された。だから、牢獄のようなこの場所の鍵は外れたも同然であり、後は、エンノイアが自分の手で扉を押し開けるだけなのだ。
そんな風に云われて――。
エンノイアは、「でも……」と弱気に答える。
「なんだか、もう、面倒で……」
思えば、初めてかも知れない。
こんな表情を、こんな心を――。
誰かに見せてしまうなんて。エンノイアはいつでも孤高だったから。孤独だったから。そう在らなければいけないなんてプライドがあった訳ではないけれど。
ただ単に――。
求める相手に出会えなかっただけではあるけれど――。
「エンノイアさん、そんな事を云わないで……」
ユーマが手を伸ばしてきた。
エンノイアの手を封じる枷に偶然、その手が触れた途端――「あれ?」と、互いに間の抜けた声を漏らす。なぜならば、枷があっさりと外れていたからだ。「どうして……?」と不思議そうな表情になりながら、ユーマはさらに足の方の枷にも触れていた。
やはり、あっさりと外れる。
エンノイアは自由になった。
「あ。なるほど――」
「エンノイアさん。何か、気付いた事が?」
「うん、ボクは、わかったよ。なるほど、ね」
エンノイアは、ユーマをまっすぐ見つめる。
「ボクは、ユーマが欲しい」
「……はい?」
「初めての気持ち」
「……えっと」
「好きです」
「……」
そうして、世界は晴れ晴れと――。
意外に、あっさりと――。
エンノイアはようやく見つけられた。
気が付いたのだ。
大きく背伸びしながら見渡せば、馬車の外には見慣れた王都の街並みが広がる。緩やかに、のんびりと馬車は進んで行く。柔らかな日差しが心地よい。やがて行き着いた馬車は王城の区画であり、闘技場の中である。ボロボロになって倒れるゴーレム〈レーベンワール〉が見えて、エンノイアは思わず馬車の荷台で立ち上がっていた。
「……そ、それでは、現実に戻りましょうか?」
ユーマはそんな風に告げた。
言葉の内容は冷静であるけれど――気恥ずかしそうに視線は逸らしたままだ。なんだか必死に黒髪を撫でている。暑いらしい。顔が赤い。エンノイアは頷いたものの、「そうだ」と思い付き、指をパチンと鳴らした。
ラストシーン。
やはり、こうあるべきだ。
「目覚めのキスをお願いします、王子様」
エンノイアはそう云って、ユーマを思いっきり抱き寄せた。




