(11)
記憶の蓋がゆっくりと開いていく。
ここは、養成所の教室――十四歳のあの日まで、ユーマが多くの時間を過ごした場所である。思い出した瞬間、懐かしさが込み上げた。不思議だ。歓迎すべき良い思い出なんて、数える程もなかったと云うのに――。それでもホッとしている自分が不思議だった。
四十人ぐらいが講義を受けられる普通の教室。
最終的には、級友は十人にも満たなくなってしまったけれど――。
資源不足という事で、古めかしい木製の机と椅子ばかりが並んでいる。電子コンソールの普及した時代に、レトロな黒板とチョーク。それはさすがに、養成所を管轄するお偉いさんの趣味だとか云われていた。
窓の外には、桜の樹。
春のようだ。
咲き乱れている。
夕闇に散る桜吹雪が、美しいけれど物悲しい。
誰の声も聞こえず、静か。
ユーマはしばらく、窓の外を眺めていた。
桜を植えたのは、遥か昔の日本人であるそうだ。国を滅ぼされて、土地を奪われて――恐るべき侵略者であるADAMからどうにか逃れ、ユーラシア大陸方面に新たな拠点を築き上げた人々は、そこで少しでも自分達の文化を失わないように努めたのだ。
いつか、祖国の土地に戻るのだと――。
その想いが、生きるための支えだったから。
「叶わない願いと知りながら……」
懐かしい声。
「それでも、何かに縋らなければ生きられない。それはたぶん、存在しない神を信じるようなものだったのかも知れませんが――私は、それを愚かさや弱さとは呼びたくありません。絶望の中に希望を見出すその行為はきっと、強くなろうとする意思の表れですから」
ユーマは振り返った。
「久し振りですね。何年振りでしょうか?」
彼女はそう云った。
「……フィオナ?」
「はい、ユーマ」
そこで、気付く。
彼女の恰好は、養成所の制服だったけれど――ユーマが身に着けているものと云えば、王剣騎士団の制服である。彼女はあの頃のままであるのに、ユーマはこの場にはとても似合っていなかった。
居心地の悪さを感じて、ユーマは苦笑いする。
「ここは何処?」
「変な事を訊くのですね。ここは養成所です」
「君は誰?」
「私の名前すらも忘れてしまったのですか?」
「……僕は、どうなった?」
「それはどういう意味でしょうか?」
彼女はため息を吐いた。
「質問は、クリアに。意思の疎通は、パーフェクトに。私達はパートナーで、運命と生命の共同体です。戦場における意思の不一致は死に直結します。それではもう一度、チャンスをあげましょう。さあ、私を怒らせないように云ってみてください」
ああ、と――。
その瞬間、ユーマは顔を伏せた。
「どうしました、ユーマ?」
「……な、何でも、ない」
何でもない、なんて事はない。
泣きそうだった。
ああ。
ああ、ああ――。
全てが懐かしい。
全てが愛おしい。
叱られる事すら嬉しく感じるなんて変かも知れないけれど。小さな頃は、嫌で嫌で堪らなかったけれど。見下されて、馬鹿にされて――『ユーマは本当にダメですね』と口癖のように云われたものだ。
家族はいない。友達はいない。恋人はいない。
大事なものなんて、ひとつもなかった。
ただ、ひとつ――。
彼女だけが、いつしか離れられない存在になった。
「フィオナ」
ユーマは顔を上げた。
涙を手の甲で拭いながら、真っ直ぐ見つめる。
――はい、ユーマ。
いつもの返事が耳に心地いい。
ユーマは静かに尋ねる。
「フィオナ、その……」
記憶の蓋は、大きく開いており――忘れていた〈最期〉を取り戻しかけていた。
だが、まだ全てではない。わからない事はたくさんある。例えば、西暦2099年に最後の戦いに挑んだはずの星野悠馬が、どうして、今、アルマ王国でユーマ・ライディングとして生きているのか。
その間に――。
何が、あったのか。
「最後の戦いで僕らはどうなった? 〈怪物の目〉に果たして辿り着けたのかな。勝ったのか、負けたのか? アダムはどうなった、人類はどうなった? それに、僕は……」
「ストップ」
「……フィオナ?」
「質問が多過ぎる。スマートではありません」
彼女はため息を吐いた。
「それに、私に尋ねてどうするのですか? それらの答えは、あなたの中にあるはずです……ゆっくり思い出してください、自分自身で。自分の力で。私に頼るばかりなんて情けない。でも、少しだけ褒めてあげます。ユーマがそこまで思い出した事を――。覚えていますか? あの時の言葉を――。だから、待っています。何年でも、何百年でも、何万年でも……私は、あなたを待っていますから」
「フィオナ、その……」
「何も云わないでください」
「でも、云うよ。ありがとう」
「……何の事ですか?」
「剣を、投げてくれた。助けてと云ったら、ちゃんと答えてくれた」
「さあ……何の事でしょうか? 全然、わかりません」
「ああ。フィオナは、昔から嘘が下手だね」
「……バカ」
「えっと、ごめん」
「気を使う事を覚えてください。過保護な私なんて、その、その……」
彼女は、目を逸らしながら呟いた。
「……恥ずかしいですから」
そして、長い沈黙。
静寂の中で、ユーマは歩み寄った。
また泣きそうになりながら、彼女の手を取ろうとするが――。
「ストップ、ダメ……」
三度目の制止。
ユーマの伸ばした手から逃げるように、彼女は一歩後ろに退がった。
「待っています。私は、ユーマを待っています。だから、自分の手と足で、力で、ユーマは私を見つけなければいけない。思い出して、しっかりと全てを――それから、私を迎えに来てくださいね」
泣き笑いのような顔で――。
「剣は貸します。だから、この程度のピンチはどうにかしてください」
「でも、フィオナ……」
「ダメ。今はまだ、あなたが頼るべきは私ではないのですから」
彼女は断言した。
「さあ、こっちに来てください」
教室の前の方に導かれる。
教壇に隠れた、その場所に――。
誰かが、いた。
小さな人影、少女である。教壇に隠れてしまうぐらいに幼い。真っ白の髪が少しだけ見えていた。不釣り合いな厳めしい兜を頭に乗せているけれど、サイズがまったく合っていないようだ。重そうに、時折、両手で兜の位置を正している。
幼い少女は、チョークで黒板に落書きをしていた。
二人の近付く気配に気付いたのか、彼女は少し驚いた顔で振り返る。
「……だれ、ですか?」
首を傾げるその仕草で、兜も重量感たっぷりに揺れる。
彼女はユーマを見つめると、すぐに晴れやかな笑顔に変わった。
「ご主人さま!」
「……え?」
沈黙。
ユーマは静寂を痛々しく感じた。
もう一度、「え……」と呟いてみる。
「ご主人さま!」
聞き間違いではない。再び、そう云われた。
思わず、フィオナの方を振り返ってしまう。
ドキドキしたけれど――。
良かった。
彼女は笑っている。
「御主人様と、私もそう呼んだ方が良いですか?」
そんな冗談すら云われた。
「いや、その……」
「はい、ユーマ。嫌です。私は、あなたをそんな風には呼びません。なぜならば、私達はパートナーですから。そこに上下の関係はないのですから。それでもユーマが望むならば、『このクズ』とか『クソ虫が』とか、そんな風には罵ってあげても良いんですよ?」
「ねえ、昔から云っているけれど、僕にそんな趣味はないからね?」
「知っています。実は、私が云いたいだけです」
「……怖い。そっちの方が問題だよ」
戯れ合いは終わり、心を落ち着けた後――。
ユーマは浅く息を吸って、向き合うべき相手と向き合った。
「君は、その……」
兜を両手で支えながら、キラキラとした視線で見上げてくる幼い少女。
物心ついて間もないぐらいの年齢だろうか。純白の髪は、セミロング。瞳は、ゴールド。特徴的なのは兜だけであり、服装は至って普通のワンピース。疑う事を知らないような視線と相対して、ユーマは思わず苦笑してしまった。
「初めまして、で良いかな? イストアイ」
「あい! はじめまして」
兜の少女、アイはニッコリ笑いながら敬礼のポーズ。
微笑ましい仕草である。ユーマも思わず笑顔になるけれど――。
「浮気者」
冷たい声に、ユーマは振り返る。
「……あの、フィオナさん?」
「冗談です。気にしないでください」
「この前は冗談と思えなかったけれど……」
「……バカ」
「ご、ごめんなさい」
「私の事を忘れたまま……完全に思い出さないまま、それなのに他の娘とイチャイチャし始めるとか――いえ、何でもありません。気にしないでください。ご自由にどうぞ、ユーマ。これから新しいパートナーと頑張ってくださいね」
「滅茶苦茶、気にしている!」
ユーマは思いっきり叫んだけれど、彼女はそれを完全に無視した。
「約束です。浮気なんて許しません。でも、この娘はきっとユーマの力になってくれる。信頼してください、助け合ってください――それでも、浮気は許しませんからね」
「はい、わかっています。フィオナさん」
「……どうして、敬語なんですか?」
「何となく……」
互いに、ため息。
それから、小さく笑った。
徐々に、笑い声が重なる。
昔も、こんな感じだったから――馬鹿馬鹿しい日常が懐かしい。少しだけ、である。楽しい思い出よりもやっぱり、辛くて悲しい思い出の方が多いのだから。
「待っています」
「うん、迎えに行くよ」
宣言して、ユーマはちっぽけな自分の人生に目標ができた事にふと気付いた。
振り返れば、二人の空気に当てられたのか、無垢な少女はふわふわと笑っていた。目が合うと、途端に「あい!」と元気の良い一言を上げる。「これからよろしくね」と、ユーマとアイは手を握り合った。
「浮気はダメですからね」
「最後まで、それ……?」
笑い合ったその瞬間、停止していた時間が現実に引き戻されて――。




