(9)
エンノイア・サーシャーシャの最も古い記憶は、六歳の時のものだ。
ボロを纏った幼子が小さな掌に握っていたものは、自分の名前と年齢、奴隷商人を怒らせない最低限の口の利き方――その三つだけである。親の名前も顔も、何処で生まれたのか、それまでどんな暮らしを送っていたのか、今では何も覚えていなかった。
たぶん、捨ててしまったのだ。
六歳のその時、エンノイアは馬車に揺られていた。
大きい子供も、小さい子供も――とにかく似たような境遇なのだろう、不幸な子供ばかりで一杯になった荷台には話し声のひとつ響かない。
笑顔もなければ、夢も希望もなかった。
そう。何もなかった。
エンノイアの人生は、そんな風に何もない所から始まったのだ。
何処から来たのか。
何処へ行くのか。
わかっている事と云えば、売られるという末路ぐらい。
だけど、まあ――。
『色々とあったね』
十歳の頃には、エンノイアはアルマ王国の孤児院で暮らすようになっていた。
平穏な日常というものを、一応は手に入れたわけである。
『でも、エノアの性根は奴隷の頃から何も変わらない』
何も持たない。
何も求めない。
孤児院にはやはり色々な境遇の子供がいたけれど、傷の舐め合いも、弱者の中での上下関係も、結局は奴隷の頃と変わらないではないか、と――エンノイアはそんな風に残念に思ったものだ。もしかすると、そうした弱さや脆さこそが人間の本質なのだろうか。そんな疑問を感じた時、エンノイアは人生で初めてゾッとした。
それならば、自分は人間でなくても良い。
弱さや脆さは捨ててしまおう。
奴隷にされた時、色々なものを捨てたように――。
何もいらない。
人間でなくて良い。
獣になりたい。
一匹の――。
貪欲で、飢えに飢えた――。
何かを求めて、日々を生きるために生きたかった。
もしかすると、実は、生意気な子供だったのかも知れない。周囲の大人達からはおそらく、無口で静かな、とても物分りの良い子と思われていたけれど。優秀だったから。天才だったのだ。何でも一番になれた。運動も勉強も、そして騎士としての才能ですらも――。
『その事実が、エノアの絶望をより深くした』
そうなのかも知れない。
誰でも憧れるヒーローとしての騎士――それもまた、エンノイアには退屈なものにしかならなかった。それならば、何を求めれば良いのかと――。
迷いにもならない迷いと共に、十九歳になっていた。
もう、いい。
死んでもいい。
退屈に殺される。
虚無に殺される。
「……そうなのか、ボクは死にたいのか?」
エンノイアは今、馬車に揺られていた。
恰好は、アルマ王国の騎士としての正装である。胸に留めた勲章の一つは、最初にゴーレム〈リル・ラパ〉を仕留めた時のものだった。全て、〈拝杖の儀〉を行っていた時のままである。唯一の違いと云えば、手枷と足枷であり――。エンノイアは馬車の床に座ったまま、しばらく、不思議な気持ちで自分の手足を縛るものを見つめていた。
覚えている。
いや、思い出したと云うべきか。
ここは確かに、エンノイアの出発点である。
六歳の頃――。
心の中、一番深い所にある思い出だった。
「さて……」
意識がはっきりして来た所で、エンノイアは尋ねてみる。
「ボクは、どうしてこんな所にいる?」
首を傾げながら、ゆっくりと思い出していく。
エンノイアの網膜に焼き付いているその光景――〈イストアイ〉の一撃によって、〈レーベンワール〉が片腕を斬り飛ばされたその一瞬である。
痛みが走ったのだ。
まるで自分の腕を失ったように感じた。これまでも騎士として数年間、ゴーレム〈サーラス〉を操ってきたし、戦いの中で愛機が傷付く事もあったけれど――こんなに鋭く痛みを感じるなんて事も、その中に悲しみを感じるなんて事も初めてだった。
エンノイアはその瞬間、咄嗟に杖の先端〈デバイス〉を握り込んだ。
なぜ、そんな事をしたのか――。
危険を犯したのか――。
杖の持ち方という基本中の基本は、見習い騎士の最初の頃に習うものだ。習うと云っても、杖の持ち方なんて本来間違いようがない。要は〈デバイス〉に触れるなと、危険だからと、それだけを口を酸っぱく教えられるのだ。
エンノイアの知る限り、ユーマだけである。
ユーマだけは〈デバイス〉を握り込むという、騎士としては外道とも思える構え方を取っていた。もちろん、訓練が始まった時には注意されただろうけれど――残念ながら、ユーマ以上に上手くゴーレムを操れる者がいないのだから、注意しても虚しいばかりである。
エンノイアは咄嗟の時、ユーマの構え方を真似たのだ。
どうして、そうしたのか――。
わからない。
なぜか、そうしなければいけないと思ったのだ。
そう。〈レーベンワール〉を助けるには、それしか――。
『正しい行動とも、愚かな行動とも云える』
エンノイアの視線は、馬車の御者台に向けられる。
声の主は、そこにいた。
誰か――。
誰、なのか。
影である。エンノイアは確かに、そこに誰かがいると気付いてた。視線もまっすぐ向けている。それなのに、見えない。不思議だった。「お前は誰だ?」と問いかけるけれど、問い掛ける程に影は深まっていくように思えた。
それでも、もう一度尋ねてみる。
「お前は、誰?」
『ボクだよ、君だよ』
影は、エンノイアの声でそう答えた。




