(8)
ユーマは一人で新居の掃除をしていた。
ワイアットと云えば、「ダメだ。夜の街が俺を呼んでいる。止めてくれるな」と叫びながら遊びに出かけてしまった。夜の街と云うけれど、まだ夕方である。ツッコミを入れるのも野暮と思い、友人を生温かく見送ったユーマである。
別に、二人がこれから暮らす場所は散らかってもいないし、汚れてもいない。掃除をするのは、とりあえず他にする事もないのと、新しい生活を前にしてワクワクと落ち着かない心を持て余したためだ。
窓を拭いていると、ターナー夫人が様子を見に来た。
「おー、ユーマ君。一人で偉いね。ワイアット君は遊びに出掛けてしまったというのに……。そういえば、荷物を運んでくるのは明日からだっけ? まあ、その前に掃除をしておくのは賢いね。どれどれ、あたしも手伝うよ。やだやだ、遠慮なんてしないで。そもそも家事は全部、あたしがやるつもりなんだから。ちょうどいい機会だから、普段は手の届かない高い所も拭いておこうか。……おっと。危ない、危ない。あはは。この椅子、ガタガタしてるね。転けそうになっちゃった。ユーマ君、支えてくれてありがとう。……んん。あれ? ユーマ君、細くない? ちょっと痩せすぎだよ。あー、ダメダメ。もっとしっかり食べないと。見習い騎士の間は訓練も大変なんだから。えー、あばらなんてガリガリじゃない。あ、コラ、逃げちゃダメ。ちゃんと見せなさい、脱いで脱いで、ほらほら――」
なんだかんだで押し倒されて、なんだかんだで服を捲られて――。
ドタバタしていたために、玄関扉のドアベルの音にも気付かなかった。
「ユーマ、ちょっと何処にいるの?」
聞き慣れたその声。
「ねえ、こっち? ユーマ、二階にいるのかしら?」
不意打ちのように顔を覗かせたのは、レイティシア。
なお、その時の状況と云えば――。
ユーマは床に倒れたままターナー夫人に馬乗りになられて、「よいではないか、よいではないか」と歌うような声と共に、ガバッと大いにシャツを捲られて、ボタンまで外されて、「うわー、本当に痩せてるね。うらやましい、うらやましい」などと、意外にもテクニシャンな指使いで肌を撫でられている所であり――なんだかもう、なんだかんだの極みである。
果たして、このままどうなってしまうのか。
あるいは、どうされてしまうというのか。
(お願い。今すぐに戻って来て、ワット!)
心の中で、ユーマは必死に叫んでいたものだ。
(た、助けて、誰でも良いから!)
確かに、助けてくれるならば誰でも良いと思っていた。
ターナー夫人の悪ノリにストップを掛けられる者ならば、誰でも――だが、やっぱり誰でも良いわけではなかった。この場に登場する者として、彼女は最悪の救世主である。
レイティシアの、その瞬間の目付き――。
(う、うわあ……)
ユーマは、心の中で最高潮の悲鳴を上げた。
これまでもゴミクズを見るような目を向けられてきたものだが――。
知らなかった。それ以上に蔑んだ視線が存在するということを――。
「……で、何やっているの?」
レイティシアから、そう問われる。
「……はい、僕は何をやっているのでしょうか?」
ユーマは渇いた声で、そう呟いてみた。
「えー、ただのスキンシップだよ」
ターナー夫人は何処までも無邪気な笑顔である。
――閑話休題。
その後、ユーマとレイティシアは会話もなく、視線を合わせる事もなく、ほぼ一定の距離を保ったままで家に戻っていた。レイティシアはやはり何も云わず、無言のままで家の二階を指差す。そして、そのまま首を掻き切る仕草を取ってみせた。死んで欲しいらしい。
「仮にも、筆頭魔術師……早く行きなさい。せっかくの点数稼ぎと思っていたのに、ユーマがモタモタしていると私の印象まで悪くなる」
レイティシアが迎えに来たその理由ぐらいは最初に聞いていた。〈杖の儀式〉におけるトラブルの事情聴取ならば既に幾度も行われている。本来ならば辟易する所だけど、いつも以上に恐ろしい彼女から離れたいその一心で、ユーマは階段を素早く駆け上がった。
途中で一度だけ振り返ると、階下から上目使いに睨んでくるレイティシア。
筆頭魔術師の希望は、ユーマと一対一で話をする事らしい。何事も失敗しないように慎重なレイティシアならば、筆頭魔術師の心証を悪くするような事はしないはずだ。彼女が二階に上がって来る事はないと悟り、ユーマは少しホッとする。
「すみません、お待たせして……」
頭を下げながら二階の居室に入るユーマだが、そこには誰もいなかった。
「……あれ?」
首を傾げたものの、すぐに気付く。
廊下の先、ユーマの部屋のドアが開いている。
「えっと、そちらですか?」
恐る恐る呼びかけながら近付いてみる。
ユーマは躊躇いながら部屋の中を覗き込んでみた。
すると、筆頭魔術師であるバーナードはやはりそこにいた。
「……あ。あの、お待たせしました」
ユーマはそう云いながら、部屋の中にそっと入り込む。
大きな部屋ではない。むしろ、狭いぐらいだ。ベッドと机がかなりのスペースを取っているから余計に窮屈に感じる。バーナードは床に座り込んでいた。深く下を向いているため、その顔色を見て取ることはできない。
「あの……」
明らかに、雰囲気がおかしい。
何を云って良いかわからず、ユーマは中途半端に呼びかける。
「その、だ、大丈夫ですか……?」
体調でも悪いのだろうかと思った。
だが――。
「頼む。ひとつだけ、教えてくれ」
ようやく口を開いたバーナードの声色は、非常にしっかりとしたものだ。
だが、その身体は震えていた。ゆっくりと持ち上げられた片手――そして、その手に掴まれているノートは、あまりに震えが酷くて今にも落としてしまいそうである。
ユーマは、「そ、それは……」と、思わず悲鳴を上げていた。
誰にも見せないようにしていた、秘密のノート。
今朝は慌てて出掛けたから、片付けるのを忘れていたのだ。
「教えてくれ。ここに書かれているものは、君が……?」
バーナードは顔を上げた。
ぐしゃぐしゃに乱れた髪、憔悴したようにも見える表情。目が赤いのは、もしかすると泣いていたのだろうか。だが、どうして――ユーマには想像も付かない。バーナードはとても疲れ切ったような様子ながら、その一方、鬼気迫る雰囲気を漲らせている。
威圧感。
それと共に、慈悲を請うような声で繰り返すのだ。
「教えてくれ。これは、君が書いたのか?」
秘密のノート。
ユーマがそれを秘密にしていた理由ならば、単純である。
説明できないからだ。
あの日、〈杖の儀式〉を境にして、ユーマは色々な事を不意に思い出すようになっていた。特に顕著なのは知識である。部屋には図書館から借りてきた難しい本が幾つも積み上がっているけれど――それらを適当に読み進めていると、何気なく、「ああ、これは間違っている」と、自分では意識せずに呟く瞬間があるのだ。
そんな時は、ノートにペンを走らせてみる。
何かを考えているわけではない。思い付いたわけではない。ユーマは知っていた。ただ単に、自分の記憶から湧き上がってくるものを吐き出すだけなのだ。『原子構造』『クォーク』『グノーシス粒子』『神様のサイコロ』『相対性理論』『プランク定数』『虚数解』『プレローマ超量子場』『EVE』『シュレディンガーの猫』――思い出すままに書き連ねた項目は順番も滅茶苦茶にたくさん並んでいる。
どうして、こんな事を思い出すのだろうか。
ユーマは誰にも説明できない。
自分にも、である。
だから、バーナードに正しく答える事もできないのだ。
熱心に見つめられていた。凝視されていた。まるで神に救いを求める人のようである。バーナードは片手でノートを握り締めながら、もう片方の手をユーマに伸ばしてくる。「教えてくれ」と、もはや懇願だ。助けてくれと悲鳴を上げているようにも思えた。
ユーマは俯きながら、仕方なく小さな声で呟いた。
「……わかりました」
説明できない。
だが、見られてしまったからには説明を求められる。
こんな状況になったならば、もはやこう答えるしかないのだ。
「それは、僕が書きました」
嘘ではないだろう。ノートにびっしりと書かれた公式や定理、それらの説明文は何もかも、ユーマの手によるものだ。ただし、自分で考えたわけではない。最初から頭に入っていた知識である。でも、ユーマはそれらを何処で知ったのだろうか――どうして、こんなにもたくさんの大切な事を忘れているのだろうか。
わからない。
最大の疑問は解決しないままである。
だから、それ以上は何も云えなかった。
ユーマは黙り込むが、バーナードにはそのたった一言で十分だったらしい。
「ああ、何ということだ……」
嗚咽。
「神よ。神よ、ありがとうございます。私は、救われました」
祈りの言葉を必死に唱え始めるバーナード。
ユーマはギョッとした。
なぜならば、彼が大粒の涙を流し始めたからだ。そして、這いずるような動きで近づいて来る。思わず、後ろに退がろうとするユーマだったが――バーナードの方が速い。あまりの勢いに、でっぷりと太ったその身体に押し潰されるのかと思ったぐらいだ。もちろん、そんな馬鹿な事はない。バーナードはユーマの目の前で止まると、そのまま片膝を着いた。そして、神に祈りを捧げるように自らの胸に手を当てる。
「ユーマ・ライディング……いや、ユーマ様」
再び、ギョッとする。
ユーマは驚きのあまり、何も云えない。
(……ユーマ様? な、なんで!)
筆頭魔術師である。
アルマ王国の魔術師ギルドのトップであり、大陸中を見渡しても最高クラスの知識の保有者。時と場合によっては、国王だろうと無視できないぐらいの影響力を有する人物なのだ。
そんな人に、敬意を込めて呼ばれるなんて――。
逆に、不気味である。
「ユーマ様」
繰り返しそう呼ばれて、ユーマは背筋を震わせる。
「な、なんで、そんな風に……」
意味がわからない。混乱の極みである。
反射的に、バーナードを立たせようとするユーマだったが――。
「おお。やめてください。そんな勿体ない。私のような卑しい豚はこの体勢で十分でございます。むしろ、この方が落ち着くのです。私のような凡夫と、ユーマ様のような神の子が同じ目線に立つなど、それこそ恐れ多い。どうか、このままで……」
バーナードは片膝を着いたまま、涙の溢れ続ける瞳できらきらと見上げてくる。
「神の子。ユーマ様を云い表すのに、天才などという言葉では生温い。神の子よ。あなた様は、知識の奴隷たる私の光でございます。ああ、ありがたい。わずか、十四歳――そのような若さで、私が……いや、世界中の魔術師が一生を費やしても届かない地平の果てに、あなた様は辿り着かれている。なんという事でしょうか。私は筆頭魔術師という地位を得てから、自惚れていたに違いありません。誰よりも、賢く、誰よりも、知識を溜め込んでいると。大きな間違いでした。ここに書かれている事柄の一割も、私には理解できないのです。理解できなくとも、その凄まじさ、その途方もなさ、その偉大さ――それぐらいならばわかった。たった一割だろうと、わかって良かった。あなた様をほんの少しでも理解できて良かった。――ああ、しかし。なんという恐るべき事。ユーマ様の億千の星々の輝きよりも尊い叡智を、果たして教会は許すでしょうか。この私から研究材料を奪ってしまったように、あなた様もまた奴らの卑しい手で――。ああ、なんという。そんな事は許してなるものか。神の子、私の光。あなた様のために、この筆頭魔術師バーナード――いえ、一人の欲深き人間であるバーナード・ファイルマンという男は全てを捧げたいと思うのです」
何を云われているのか、まったくわからない。
呆然と立ち尽くすユーマの手を、バーナードがそっと掴んで来る。
さながら愛の告白のように万感を込めた口調で、彼はこんな風に告げた。
「私を、あなた様の奴隷にしてください」
ドゴン、と。
瞬間、部屋の入口から凄まじい音――。
ユーマが振り返ると、壁に頭をぶつけたらしいレイティシアが涙目になっていた。どうやら、今の瞬間の台詞を聞いたらしい。おそらく、これまでのバーナードのすすり泣く声でも聞こえたのか、それで不審に思って階下から上がって来たのだろうが――。
最悪のタイミングで、最悪の台詞だけ聞いて、驚きなのか気持ち悪さなのか、とにかくふらりと血の気を失ったあげく、彼女はドゴンと勢いよく壁に頭をぶつけてしまったらしい。
何はともあれ――。
ユーマはレイティシアから、なんかもう凄まじい視線を向けられてしまった。