(7)
バーナードは戸惑いを抱えたまま、ライディング家に足を踏み入れていた。
玄関のドアを抜けた瞬間から生薬の匂いが鼻に付く。医者の家とは聞いていたが、かなり繁盛している。まだまだ元気そうな老人と生々しい怪我をした冒険者――どうにも対極的な患者で一杯の診療所はざわざわと騒がしい。
奥からは、さらに威勢の良い声が響いてくる。
「我慢しなさい。B級の冒険者なんでしょう、泣かないの!」
まるで幼子を叱るような調子なのは、ローラである。もちろん、バーナードには面識なんてないから、その声を遠くに聞きつつ、何となく、それなりの年輩の女性なのだろうと勝手な想像を付けていた。
腕が良くて、たくさんの患者に頼られる医者はベテランに多い。ぴしゃりと勇ましい声も相まって、ローラに対して年輩のイメージを抱いたバーナードであるけれど――冷静であったならば、ユーマやレイティシアの年齢から逆算し、彼女がまだまだ若い女性(少なくとも、バーナードが愛でる対象範囲内)である事に気付いたはずだ。
クソエロジジイと魔術師ギルドで陰口を叩かれるバーナード。
己が欲望に忠実な彼ならば、どれどれ、ここは一目だけでも姿を拝んでおこうかと強引に行動しただろう(そして、ローラの美貌に「うひょひょー」と歓喜の雄叫びを上げたに違いない)。
だが、今日の彼は大人しかった。煩悩をエネルギーにして素早く回転する頭脳も、普段と違って錆付いたように動かない。
理由は単純――。
先程、赤の神徒に心を折られたダメージが尾を引いていた。
「母さん、お客様だから!」
家の中は、診療所としてのスペースと住居としてのスペースがきっちり区分けされていた。廊下から待合室の方に顔を突き込んで、レイティシアはそんな風に大きく叫ぶ。しかし、返事はない所か、「はいはい、泣かないの。冒険者でしょう、男の子でしょう」と、今度は甘く優しい声ばかり聞こえてくる。
しばらく経った頃にようやく、「ああ、レティ。こっちは手が離せないから」と返事がある。レイティシアはため息を吐いていた。
「母は忙しいようなので、私が代わりに……こちらへどうぞ」
レイティシアの案内で、バーナードは二階に通される。
残念ながら、ユーマは不在である。
訪問の目的は、〈杖の儀式〉で起こったトラブルについて、当事者であるユーマから改めて事情を聞きたいというもの。もちろん、王剣騎士団や魔術師ギルドはこれまで幾度も、彼に対して話を聞く場を設けていた。様々な質問や確認が為されてきたけれど、ユーマは「わからない」「覚えていない」と云って沈黙することが多かった。
結局、何も解明されないままである。
「それで、筆頭魔術師さま……」
二階の居室に通された所で、バーナードは改めてレイティシアから問いかけられる。
「ユーマの居場所はわかっていますから、すぐに呼んでくる事はできますが……やはり、多少は時間がかかってしまいます。それでも、大丈夫ですか?」
「ああ、もちろん。手間をかけて申し訳ない」
最初の挨拶に絡めて、ユーマが不在の事情はレイティシアから聞いていた。
王剣騎士団への入団が一週間後に控える中で、育った家を離れる――つまり、大人になるための第一歩目。巣立ちというわけだ。〈杖の儀式〉のトラブルに関する報告書にはしっかりと目を通しているバーナードだが、関係者のプライベートには無関心だった。ちゃんと把握していれば、こうして無駄足を踏むこともなかっただろう。ため息と共にソファーに腰かけながら、何気なく視線を巡らして気付く。
「あちらが、ユーマ君の部屋かな?」
レイティシアはちょうど、ユーマを呼びに出て行こうとする所だった。
振り返った彼女は、バーナードが指差している方向を確認して頷く。
「はい、そうです。ユーマの部屋と云っても、これからは空き部屋になるわけですが……今はまだ、ほとんど手付かずのままです。引越しの荷物運びは、これからですから」
レイティシアがもう一度深く礼をして去った後、バーナードはしばらく座って待っていた。
しかし、暇を持て余して立ち上がる。ユーマの部屋のドアを開けてみた。
別に、何か意図する所があったわけではない。そもそも、この訪問自体が思いつきのようなものである。バーナードにしては珍しい。とにかく、焦りや悔しさに責め立てられる形で動いていた。ジッとしていられなかったのだ。神徒に、貴重な研究対象を「破壊しろ」と命じられた。命令に背くわけにはいかない。神徒の言葉は絶対服従――そうしなければ、筆頭魔術師の地位は失われ、バーナードの生きる意味でもある知の探求そのものができなくなるのだから。
だが、バーナードは可能性を感じていた。
黄金色の輝き、魔力の奔流、変形したエーテルフレーム――さながら、未知なるものが詰まった宝箱である。魔術師の世界は、日進月歩の世界。新たな発見が、これまでの常識を根底から覆す事もあるのだ。
世界がぐるりとひっくり返るような驚き。そして、興奮。バーナードの太った身体にぶよぶよと張り付くエゴは数知れないけれど――それを徐々に削ぎ落としていけば、最後に残るものは唯一、未知なるものに対するワクワクとした好奇心なのだ。
知りたい。
シンプルな欲望に突き動かされて、バーナードは今、ここにいる。
「……別に、ただの子供部屋だな」
結局は、悪足掻きのようなものである。
大事な研究材料が失われていく中で、何か、別の可能性が見つかれば心を落ち着けられるのに――ユーマ・ライディングという原点に立ち返る事で、万に一つの再発見があるのではないかと期待した。これまでの調査では何もわからなかったのに、そんな都合の良い事はないだろうと思いつつ、それでも――。
ユーマの部屋をぐるりと見渡しながら、やれやれと首を横に振る。大きくため息を吐いた。何を期待していたのかもわからない。絨毯の敷かれた床、ベッドに机、図書館で借りてきたものと思しき本が積み上げられている。特に、目立つものはない。
諦念に包まれて、バーナードは部屋を出ようとするものの――。
「ほう、勉強熱心だな」
乱雑な机。ページを開いたままになっている幾つかの本は、どうやら科学関係の専門書である。何気なくタイトルを確認してみたバーナードは、ここで初めて首を傾げる。
「これを、子供が読むのか……?」
思わず、疑問が口から零れた。それもそのはず、部屋に散らばる本はどれを取ってみても、魔術師を目指すような学徒――すなわち、高等教育を受けるエリートが勉強に使うようなものばかりである。
もしも、十四歳という年齢でこれらを読破しているならば――。
「まさかな。騎士の才能だけでなく、魔術師の才能にも溢れているなど……」
馬鹿らしいと思ったバーナード。
だが、笑えなかった。
まさかのまさか、という思い。
机には一冊のノートが置かれていた。どのような勉強をしているのか確認すれば、天才か、そうでないか――筆頭魔術師として、大陸で最高の知識を有する者の一人であるバーナードには簡単に見抜けるはずだ。
ゆっくりと手を伸ばしてみる。
バーナードは気付いていなかった。
高鳴る胸。未知なるもの、大いなる可能性を予感する事で狂おしくリズムを刻む心臓。
無意識に気付いていたのかも知れない。
この瞬間が、人生の分岐点であることに――。
「……これは?」
ノートを開いたその瞬間、最初に訪れた感情は静かなもの。
雨が降り出す際の最初の一滴のように、ぽつりと小さな疑問がバーナードの頭に湧いた。何だろうか、これは――。ノートは、ユーマのものと思しき手書きの文字でびっしりと埋まっていた。説明文、それに公式。ページを捲っていけば、延々と続いている。
科学である。
科学について書かれている。
それはわかるのだけど、バーナードは思わず――。
「な、なんだこれは!」
ぶわりと冷や汗が浮かんだ。
心には、嵐のような大雨。疑問が、好奇心が、次々に溢れ出した。「なんだこれは、なんだこれは、なんだこれは……」と、これ以上なく激しく叫び続ける。「ば、馬鹿者!」と、罵る相手は自分自身。何が書かれているのか、すぐには理解できない自分の愚かしさに対する怒りだ。身体が震えた、膝を着いた。バーナードは遂に、涙すら流し始める。
なんだこれは――。
なんだこれは、なんだこれは――。
なんだこれは、なんだこれは、なんだこれは――。
祈りのように繰り返されるその言葉は、これ以上ない賛美の声でもある。
「ああ。神よ」
ノートに書かれているもの。
例えば、そこに記されている公式のひとつはこんなものだった。
『E = mc^2』




