(1)
春の朝。
南の山岳地帯を抜けてくる風から、冬の鋭さがようやく完全に抜けていた。温かく柔らかな風に、草原の緑が絶え間なく波を打っている。
第三王壁区画から南の街道に繋がる門を抜ければ、丘陵地帯に見渡す限り広がる果物畑。収穫の時期はもう少し先であるけれど、オレンジとレモンの色付きはもう既に鮮やかである。甘酸っぱい香りに包まれながら、ユーマは足早に街道を下っていた。
王都の門を出た瞬間から、ハーパル川の雄大な流れが見えている。
川の畔に辿り着いた後、ユーマは息を整えながら手頃な大きさの石に腰掛けた。川を抜けていく風が強くて、さらに心地いい。ただし、本を読むには不向きだ。本を開いてみても、バラバラとページが捲れてしまう。
詰めが甘いなと、思わず苦笑する。
それから、首を横に振った。
どちらかと云えば、目の前の物事にしか目が向かないのだろう。待ち合わせの場所に急ぐ事で頭が一杯だったため、家を出る間際に慌てて本を一冊引っ掴んだけれど、これでは暇潰しもできない。
風に吹かれて、ページがまた勢いよく捲れる。
すると、ページの間に挟んでいた手紙が零れ落ちた。
ユーマは拾い上げて、何度も読み返したその文面を見つめる。送り主は、ワイアット・モリ。出会いは〈杖の儀式〉の行われた日であるから、もう二ヶ月近くも会っていない。しかし、赤毛と茶褐色の瞳、よく日焼けした爽やかな風貌は鮮やかに思い出せた。
ワイアットが故郷の村に帰ってからも、手紙による交流を続けていた。ローラには、「彼女ができたの?」と盛大に勘違いされたものだ。ユーマは手紙を本の間に挟み直すと、ハーパル川の上流を改めて見つめる。
何事もなければ、そろそろワイアットの姿が見えても良い頃だ。
「まだ、かな……?」
春風と戦う事は諦めて、ユーマは本を膝の上に置いた。何もする事がないからぼんやりと景色を眺め続けるが、端からはまるで、愛おしい人を待ち続けているように見えてしまう事にユーマは気付かない。
ワイアットの暮らす村は、アルマ王国の辺境であるレンドール地方の中では『まだマシ』な田舎にあるそうだ(ワイアットの云い分を信じるならば、だが)。レンドール地方から王都にやって来るならば、乗合馬車を上手く利用するとしても三日はかかる。村を出立する前に送られてきた手紙には、『せっかくだから、途中の宿場町を見学しながら旅するつもりだ』とあった。それから一週間も経った昨日になって、『そろそろ王都に着きそうだ』と追加の手紙が届いたのだ。
「おーい、ユーマ」
声が聞こえる前から、ユーマも気付いていた。
「ワット! こっちだよ」
手を振る。船上から、ワイアットも手を振っていた。
ハーパル川を下ってくる貨物船。何をどうやったものか、手紙にはそれに乗せてもらえる事になったと書かれていた。ユーマは驚いたものの、すぐに納得したものだ。
ワイアットは人好きのする少年である。気性が荒い者が多いと云われる船乗りともすぐに意気投合してしまったのだろう。実際、船が桟橋に船が止まると、ワイアットは強面の男達と楽しそうに握手を交わしながら降りてきた。
大きなトランクを片手で軽々と持つワイアット。
満面の笑みの彼と、ユーマはハイタッチする。
「ユーマ、久し振りだな」
「手紙でやりとりしていたからそんな気がしないね」
「そうだな。なあ、早く行こうぜ」
「疲れてないの?」
長旅を終えたばかりのはずだが、ワイアットの足取りはユーマよりも軽い。
「全然。家にいる時は手伝いばかりだったから、それに比べれば旅なんて楽勝だ。いや、本当に楽しかったぞ。レンドールを出たばかりの宿場町でカジノに入ってみたら、これがまた大変な事になって――」
手紙には書き切れなかった旅の話を、ワイアットは次から次に披露してくれる。
ニコニコと笑いながら、ユーマはそれを聞いていた。
果物畑の丘を登って行く途中では、農夫のおじいさんにいきなり呼び止められて、「お前さん、〈杖の儀式〉で合格した子だな」と、まるで神像のように拝まれてしまう。「おいおい、ジイさん」と、ワイアットが不敵に笑いながら口を挟んだ。
「俺も〈杖の儀式〉に合格したんだぜ」
「おお、そうか。今年は三人しか合格者が出なかったらしいが、最後の一人がお前さんか。王都の外から来るとは噂で聞いていたものの……。色々と大変だろうが、がんばりなさい」
二人それぞれ、採れ立てのオレンジを頂戴する。
最初は籠一杯に持って行くように勧められたが、さすがに遠慮した。
農家出身のワイアットは心得たもので、「ちゃんと美味そうに食べて宣伝するからな」と、おじいさんをしっかり喜ばせる。見習わなければいけないと、照れたまま何も云えないユーマはそう思っていた。
「……よっと。ジイさん、ありがとうな」
「ありがとうございました」
ワイアットは手に持っていた大きいトランクを、革のベルトを上手く使って背負えるようにしていた。歩き始めると、彼は折り畳み式のナイフをポケットから取り出す。オレンジを器用にナイフで割ると、ユーマに半分を投げてくれる。
「うわ、わ……」
「落とすなよ」
二人で食べ歩きながら、近道で工事中の王壁の隙間を潜り抜けた。
「へー、こんな所から街の中に入れるのか?」
「本当はダメらしいけれど、やっぱり便利だからね」
元々は、第二王壁区画までしかなかった王都である。人口が増えて手狭になったための第三王壁区画であるけれど、現在もまだ外周部の王壁は建造が続いていた。
「魔物とか、大丈夫なのか……」
ワイアットはそう云いかけて、途中で苦笑する。
「こんな都会には出ないか、そうだよな」
街の賑わい。
ユーマにとっては日常の光景であるけれど、ワイアットにはまだまだ珍しいもののようだ。王壁の隙間を抜けた瞬間、「やっぱり凄いな」と小走りに先を行って、ワイアットはあちこちに視線を巡らせる。
「色々と見て回りたいな。あっちの方とか、賑やかで楽しそうだ」
「気持ちはわかるけれど……とりあえず、その荷物を置きに行こうよ。さすがに邪魔でしょう? それに忙しくなる前に、最低限の買い物も済ませないといけない」
歓楽街にふらふらと迷い込んで行きそうなワイアットのシャツの裾を掴みながら、「ダメだからね?」と、ユーマは強引に引っ張りながら進んだ。
何も慌てる必要はない。これから暮らす場所である。
観光でも何でも、時間は幾らでもあるのだから。
何と云っても、二人は見習い騎士――。
ユーマとワイアットは共に〈杖の儀式〉に合格した。来週に控える入団日を迎えれば正式に王剣騎士団の一員となる。見習いと云っても、それは立派な肩書きである。
『人生が変わった』
それは、ワイアットの手紙に何気なく書かれていた一言である。
例えば、彼の生まれ育った故郷の村では盛大な祭りすら開かれてしまったそうだ。そして、年頃の娘がいる家からは次から次に縁談の話が持ち込まれたとか――。
ユーマも似たようなものである。
色々な事が変わった。
こうして、今、初めての友達と一緒にいる事もそうである。
「ちょっと、意外だった」
第二王壁区画に入った所で、ワイアットは不意に独り言を漏らした。
ユーマは「何が?」と尋ねる。
「このオレンジをくれたジイさん、うちの村にいるようなジイさんと何も変わらなかった。街道沿いに幾つかの街に立ち寄ったけれど、何処でも良い人に出会えたよ。村にいる時は、都会は怖い所だから、簡単に人を信用しないように気を付けろなんて云われたけど――」
「そうなんだ。そんな風に云われるんだ?」
田舎の暮らしを知らないユーマは素直に驚く。
ワイアットは恥ずかしそうに、赤毛を荒々しく撫でていた。
「親父も兄貴も、街に出るのは収穫物を売る時ぐらいだからな。ガチガチの田舎者の家系なんだよ、うちは。さんざん脅されたから、不安と云えば不安だった。だから、お前と知り合えて嬉しかったよ」
こちらこそ、と――。
そう云う代わり、ユーマは照れて下を向く。
ワイアットは真っ直ぐな笑顔でさらにこう云った。
「それに、いきなり一人で暮らすのも不安だったからな」
不安ならば、ユーマにもあるけれど――。
「気の合う奴と一緒なら、まあ、大丈夫だろ?」
「……うん、そうだね」
変化。
王剣騎士団の入団式が一週間後に控えた今日、ユーマは十四年間暮らした家を出る。そして、これからはワイアットと共同生活を送るのだ。
不安がないと云えば、嘘になる。
だが、それ以上に期待の方が大きい。
悲しみや寂しさよりも、嬉しさや楽しさを感じている。
そんな自分を少し、薄情なのかも知れないと思うけれど――。
ズキリ、と。
頭痛が走り、ユーマは額に手を当てた。
「ああ、いつもの奴か。大丈夫か?」
「……うん。大した事ない」
母と思っていた人、妹と思っていた人。
ローラとレイティシアに対する想いは複雑なままである。複雑に絡んで紐解けないままだから、二人との関係を投げ出すように家を飛び出る――というわけでは決してない。
少なくとも、ユーマ自身はそう思っている。
逃げたわけではない。
逃げたくない。
だから、今は時間が欲しかった。
落ち着くための時間と、色々なものを見直すための時間が――。
「今さらだけど、良いのか? ユーマはこっちに家があるのに、わざわざ家賃を折半して俺と共同生活なんて……。俺は助かるけど、お前には何の意味が――」
「いや、これで良いんだ。僕も、家を出て一人で暮らしてみたかった」
「ああ。確かに、一人暮らしって憧れるよな」
ワイアットの笑顔に、ユーマはぎこちなく笑い返した。
ちょうどそのタイミングで、目的地に辿り着く。
この話は一旦、お預けである。
「おー、安い割に立派だな」
ワイアットが嬉しそうにそう云った。
「というか、うちの村の基準だと豪邸だよ、豪邸」
それはさすがに冗談とわかったので、ユーマは苦笑してやる。
第二王壁区画の中では辺鄙な場所にある二階建ての住居。小さなひび割れも目立つ漆喰の壁や黒ずんだ窓の木枠など、それなりの年季が入った家である。ただし、玄関脇の花壇は手入れが行き届いており、開け放たれた二階の窓でそよぐ白いカーテンは、それだけで家庭的な居心地の良さを感じさせる。
「さすが。ユーマ、良い所を見つけてくれたな」
「僕もまだ、建物の中は見た事がないけどね」
旧市街と呼ばれる第二王壁区画には、先祖代々このアルマ王国で暮らしてきた者が多い。古くからの一戸建てが軒を連ねており、第三王壁区画のような集合住宅は数が少なかった。
閑静な住宅街に二人で住める場所が見つかったのは、非常に運が良かったと云える。
「えー、大家さんの名前は何だっけ……?」
呟きながら、ワイアットは首を傾げる。
ユーマも額に手を当てながら、「えっと……」と少し悩んだ。
「そうだ、思い出した。タニア・ターナー……そう、ターナー夫人だよ」
ドアベルを鳴らせば、すぐに勢いよく玄関扉が開いた。
「あら、いらっしゃい」
バン、と。
ドアが勢いよく開いた。加えて、ターナー夫人の声の大きさ。バン、バンと。ユーマとワイアットが挨拶もできない勢いで、彼女は二人を中に引っ張り込んでくれた。
「ユーマ・ライディング君とワイアット・モリ君だったかな? 今日からよろしくね。それから、ありがとう。二人がここに住んでくれるの、とても助かるの。見ての通り、一人で住むにはちょっと広すぎる家だから。ダンナは早々に死んじゃって、あたしにはこの家だけ残されて。子供がいないと云っても、女手ひとつでやっていくのはやっぱり大変なのよ。だから、思い切って二階は人に貸せるように改装したんだけど……こういうのも商売の一種なのよね。あたし、そういうの苦手で。ちょっと前まで、別の騎士さんが住んでくれていたんだけど。ほとんど友達みたいなものだったから、家賃と云っても適当なものでさ。次に入って来る人からはキチンとしないといけないとは思うものの、やっぱりあたし自身が適当だから、あー、面倒だなー、よくわかんないよー、ってね。いやー、新しく入居してくれるのが騎士のたまごさんでよかった。あたしより、絶対にしっかりしてるもんね。本当に助かる。うれしい、うれしい。あたし、これでも料理は上手いから。見習い騎士の訓練は大変だろうけれど、家事は何でも大船に乗ったつもりでドンと任せてくれれば――」
どれだけ話し続けるのか。
ユーマは人見知りの気があるため、初対面の相手に何も云えなくなるのはよくある事だけど、社交性豊かなワイアットまでポカンと呆けているのだから相当である。
いや、確かに――。
二人を絶句させる要因は他にもあったのだけど――。
「お、おい。ユーマ、き、聞いてないぞ」
「……ごめん。僕も知らなかった」
ユーマとワイアットはこれから、王剣騎士団の見習い騎士となる。残念ながら、見習いの給金は微々たるものだ。王都は何かと入り用な場所であるから、節約は大事――二人が共に暮らす事を選んだのは、少ない給金でやりくりしていくための苦肉の策でもあった。
手紙をやりとりする中でそう決まったものの、ワイアットはその時田舎の村にいたため、実際に王都の物件を探すのはユーマの役目となった。『生まれ育った場所だから、なんか当てがあるだろ? 頼んだぞ、相棒』という手紙を見た時、ユーマは額から冷や汗を流したものである。
友達がいない。頼れる知り合いもいない。人伝に探すのはまったく不可能であり――つまり、ユーマには当てなんてひとつも無かったのである。
でも、ワイアットの期待を裏切るわけにはいかない。
初めての友達にガッカリされるなんて――。
そんなのは許されない。
やるしかない。やってやる。
そう、どんな手を使っても――。
そんな風に、ユーマは激しく決意に燃えたのだ。
孤軍奮闘。あらゆる手段を尽くし――その中には若干、非合法なアレも含まれていたけれど――何はともあれ、家賃、間取り、周辺環境や騎士団本部までの距離などなど、二人が求める条件にぴったり合致する物件を見つけたのだ。
先程のターナー夫人の長い長い長い言葉にもあったけれど、数ヶ月前までは、とある騎士が入居していたそうだ。その人が退去する際に置いていった家具をそのまま使えるという事で、資金に乏しい二人にはさらに魅力的な物件だったわけである。
なお、身元を立てるため、大家であるターナー夫人には騎士団の事務方を介して申込みを行った。騎士はもちろん、万人に敬愛されるヒーローである。まだ入団も済ませていない見習いだろうと、世間体は抜群に良かった。騎士団を通して申し込めば、絶対に断られるような事はないと考えたユーマである。
実際、契約はトントン拍子に進んだ。
最善を尽くしたはずである――だが、唯一の見落とし。物件自体はこっそりと幾度か観察に来ていたユーマだが、大家であるターナー夫人に接触してみようとは思わなかった。ユーマの人見知りな部分が、そこは無意識にパスしてしまったのだ。
だから、ターナー夫人とはこれがまったくの初対面――。
さすがに、予想外である。
「あの、すみません……」
ワイアットが間抜けな声で尋ねた。
「ターナーさん、年はいくつですか?」
第二王壁区画の一軒家、その大家。
数年前に夫を亡くしている未亡人。
ユーマとワイアットはそのような情報から勝手に判断し、一緒に暮らす大家はかなりの年輩――それこそ、老婆と云っても間違いではないような歳と想像していたのだ。
「あたしの年齢?」
一階と二階で線引きはするものの、結局はひとつ屋根の下で暮らす相手である。
ターナー夫人は二人の動揺に気付く様子もなく、とても気さくな笑みで答えてくれた。
「十八歳よ。年齢も近いし、これからよろしくね」




