(6)
「名乗りたまえ」
「はい、ユーマ・ライディングです」
「王剣騎士団、騎士クレート。汝は、〈杖の儀式〉を――」
クレートと名乗った若い騎士は、定められた文言を淡々と述べていく。
クレートの声が若干擦れているのは、それだけ沢山の参加者を相手に同じ台詞を繰り返してきたからだろう。ユーマは初めそんな風に思っていたが、途中から、クレートの言葉は遥か遠くの場所で響いているもののように、曖昧で聞き取れないものになった。
ズキリ、と。
頭が、激しく痛んだ。
意識が飛びそうになるぐらいに――。
クレートの説明を聞き続けるのも無理だった。
朝から体調は悪かったけれど、ここに来て今日一番の酷さである。世界が揺れていた。周囲の喧騒も、夕闇の空気も、ユーマからどんどん遠ざかって行く。「さあ、前に――」と、クレートの一際大きな声でどうにかハッと我に返った。
クレートが三歩、歩み寄って来る。
ユーマの方からは五歩歩み寄るのが〈杖の儀式〉における正しい形だが、最初の一歩を踏み出した瞬間にふらふらとよろめいてしまう。「おいおい、大丈夫か?」と、クレートは慌てたように駆け寄って、ユーマの身体を支えてくれた。
「す、すみません」
「風邪でも引いているのか。せっかくの日に、可哀想に……」
こうなっては、形式も何もない。
「やれるか?」
「はい、やってみます」
自分でも意外なぐらい、力強い言葉が出た。
いつものユーマならば、情けなく弱音を吐いていたかも知れない。こんなにも頭痛が酷い中で〈杖の儀式〉に挑むなんて無理に決まっているのだから。諦めるという選択肢を選んでいても、何も不思議ではなかったはずなのに――。
頭は痛い。
だが、心は晴れている。
クレートに礼を述べて、ユーマは一人で立った。
「やらせてください、お願いします」
騎士に憧れていた。
それなのに、憧れるばかりで諦めていた。
不幸である。そんな風に言い訳するものがたくさんあったから、ユーマは矛盾する心を見つめ直さないままやって来られた。でも、それももう終わりだ。レイティシアは才能豊かで、さらに努力を怠らなかった。成功するのは当然である。むしろ、彼女が成功しないならば、この世界はちょっと理不尽過ぎるだろう。
彼女はきっと、騎士になる。
だから、何も心配はいらなかった。
終わりである。
ユーマはこれから〈杖の儀式〉に挑む。そして、失敗する。せめて、笑い――晴れ晴れとした気持ちで幕を引こう。虚しい憧れはここで断ち切って、ユーマはこれから一人で生きていくのだ。
終わりにしよう、と――。
ユーマのそんな決意を見て取った訳ではないだろうが、クレートは頷き、「わかった、ユーマ・ライディング。君に一時、俺の杖を託そう。さあ、〈杖の儀式〉を行いなさい」と告げた。そして、彼は腰元に提げていた一本の杖を手渡してくる。
黒檀の杖。武骨な見た目の重い杖である。受け取った瞬間から〈杖の儀式〉は始まり、運命がたった一分間で決するのだ。覚悟を決めたはずなのに、それでも緊張する事がユーマには不思議だった。頭はズキズキと相変わらず痛み続けており、胸はドキドキと高鳴る。
(さあ、これで……)
ユーマは両手を伸ばした。
騎士の証たる杖、ゴーレムを操るための欠片〈デバイス〉を――。
(これで、終わりだ)
力強く握りしめた、その瞬間――。
――……、ユーマ。
声が。
――ちゃんと覚えて……。コン……フィアの、使い方に……ルは……いますか。グノーシス粒子の扱い……経験に……ですが、それでも基本は……。暴走……、させないように。サポートは任せて……。だから、……私の声だけはしっかり聞いてください。
涙が。
――……、ユーマ。
頭の痛みは消えていた。
痛いのは、心。
忘れていた何かが溢れて止まらなくて、ユーマは心の奥から爆発してしまいそうになる。何か、途方もなく大きなもの。大切なもの。ユーマの全てと云っても過言ではない何かを忘れている事に、ようやく、今、気付いてしまった。
涙が溢れる。止まらない。
(僕は、何を忘れていた?)
杖を両手で握り締めながら、ユーマは自分の心に問いかける。
(誰を忘れている……?)
わからない。
わからない、わからない。
わからない、わからない、わからない。
(僕は、誰を……?)
世界の果てまで意識が飛んで行ってしまったように、ユーマは呆然と虚空を見つめ続けていた。十秒、二十秒、三十秒――。〈杖の儀式〉の持ち時間が減っていく。そして、何もできないままに太陽がゆっくりと沈んだ。
星のない夜空には、唯一、とても綺麗な三日月が浮かんでいる。
月が、銀色の――。
銀の――。
「フィオナ」
閃きと、無意識の呟き。世界が鮮やかに変わっていく。
痛みは消えた。
もう何も、苦しいものはなかった。
自分が何を云ったのか、ユーマはまだわからない。
「……フィオナ?」
だから、繰り返した。
四十秒――。
五十秒――。
何度でも、繰り返した。
「フィオナ」
そして――。
――はい、ユーマ。
聞こえた。
だから、涙はようやく止まる。
叫んだ。
何か、言葉にならない想いを――。
吠えた。絶叫した。
五十二秒――。
五十三秒――。
五十四秒――。
「終わりじゃない」
五十五秒――。
「終わりじゃなかったよ、フィオナ。さあ、始めよう。ここからだ、ここから――」
ここから、本当の始まりだ。
ユーマは赤くなってしまった目を見開いていきながら、左手で杖の柄を握り締め、右手でエーテルフレームの欠片である〈デバイス〉を直接掴んだ。騎士の常道ではない構え方だが、これで良いと――これこそが正しいと、ユーマは知っていた。
そう、知っていたのだ。
思い出したものは、彼女の名前だけではない。
五十九秒――。
「起動開始」
六十秒ジャスト。
爆ぜた。
それは、まるで太陽――。
黄金の輝きに染まったゴーレムが、産声の代わりに片腕を天に突き上げる。
そして、世界を吹き飛ばしてしまいそうな光が溢れ出した。




