第1話 勇者の憂鬱と邪悪な計画
崩れ落ちた天井から埃混じりの陽光が差し込んでいる。
かつて世界を恐怖に陥れた魔王城の最奥「玉座の間」には、赤黒い血のような残滓となって霧散していく魔王の亡骸と、それを踏みしめて立つ一人の少女の姿があった。
透き通るような金色の髪に宝石のアメジストを溶かしたような紫の瞳、白銀の聖鎧に身を包んだその少女こそ人類の希望、勇者ミナである。
彼女は剣をゆっくりと鞘に収めると深い溜息をついた。
仲間たちが見れば、それは戦いの重圧から解放された安堵の吐息に見えたことだろう。
しかし彼女の脳内を埋め尽くしていたのは、あまりにも場違いな本音だった。
(あーあ終わった終わった。マジでヌルゲーだったなー、この世界)
ミナの正体は日本から転生した元男のゲーマー「勇者として異世界を救え」と言われて転生してみれば、与えられたチート能力は規格外、魔王の行動パターンは前世でやり込んだRPGのテンプレ通り。
正直、あくびを噛み殺しながらでもクリアできる難易度だった。
(魔王討伐? そんなの最初から決まってた既定路線だよ。私が欲しかったのは、こんな予定調和のハッピーエンドじゃない)
ミナは美しい顔を伏せて憂いを帯びた表情を作るがその内面では、歪んだ欲望が鎌首をもたげていた。
彼は――いや、彼女は「愉悦部員」だ。
平穏無事な大団円よりも悲劇的な展開で美少女たちが顔を歪め、絶望し、心を掻きむしる姿を見ることに何よりの興奮を覚える、真正のゲスだった。
(もっとこう⋯⋯心をえぐるような劇薬が欲しいよね。特に、私を慕って思考停止してるこの可愛いヒロインたちの曇りきった顔が見たい⋯⋯)
ミナの視界の端には満身創痍になりながらも勝利を喜び合う三人の仲間たちが映っている。
聖女エレナ、魔導師ルナ、騎士ヴァネッサ。
ときに助けあい、ときに笑いあい、ここまで一緒に絆を育んできた麗しき仲間たち。
(さて⋯⋯仕込みの時間だ。舞台装置は揃ってる)
ミナは瓦礫の山に視線を落とす――そこには魔王が消滅した後に残った高濃度の瘴気が黒い霧となって漂っていた。
本来なら浄化魔法で消し去るべき危険なもの、触れれば精神を蝕まれる猛毒だが勇者であるミナの「状態異常無効」スキルがあれば、ただの魔力リソースに過ぎない。
(これをこうして⋯⋯過剰摂取!)
ミナは人知れずスキルを発動し周囲の瘴気を一気に自身の身体へと引き寄せた。
黒い霧が渦を巻き、華奢な勇者の身体へと吸い込まれていく。
システムのログ的には『MPが全回復しました』というだけの話だが、ミナは即座に「名女優」のスイッチを入れた。
「がっ⋯⋯あぁぁぁっ!?」
悲鳴と共にミナはその場に膝をつく――喉をかきむしり、わざと呼吸を荒げた。
美しい金髪を泥と脂汗で汚し、幻影魔法を使って白磁のような肌にどす黒い「痣」を浮かび上がらせる。
血管が黒く侵食されていくような、見るもおぞましい演出。
「ま、魔王の⋯⋯呪いが⋯⋯体の中に⋯⋯ッ! ぐ、あぁっ!」
その絶叫は勝利の喜びに浸っていた仲間たちの空気を一瞬で凍りつかせた。
(さぁ開幕だ。「勇者は魔王の呪いを受けてしまった!」「もう助からない、放っておけば新しい魔王になってしまうだろう」「だから愛する仲間たちの手で殺してくれ」⋯⋯これだよ、この悲劇のシナリオ!)
ミナの計画は完璧だった。
仲間たちに「愛する勇者を殺すか、殺さずに世界を危険に晒すか」という究極の二者択一を迫る。
彼女たちが悩み、苦しみ、涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにして慟哭する様を特等席で味わい尽くし――最後は仮死魔法で死んだふりをして高飛びする。
完璧な「曇らせ愉悦」計画だった。
「ミナ様ッ!?」
最初に駆け寄ってきたのは聖女エレナ、彼女はミナの体を抱き起こそうとして、その肌に浮かぶどす黒い紋様に息を呑んだ。
「嘘⋯⋯そんな、嘘ですわミナ様! 魔王は倒したはず⋯⋯神よ、なぜこのような試練を与えるのです⋯⋯!」
エレナの碧眼から大粒の涙が溢れ出し地面に染みを作る。
信仰一筋だった彼女が理不尽な現実に直面して神を恨む顔。
(いいぞエレナ! その絶望顔! 常に余裕ぶってた聖女様が信仰心すら揺らいでパニックになってる瞬間、たまんないですねぇ~!)
ミナが苦悶の表情を崩さずに内心で喝采を叫んでいると続いて、天才と名高い魔導師ルナが杖を構えた。
「どいてエレナ! 私が解析する⋯⋯!」
ルナは高速で解析魔法を展開する⋯⋯がそこにはミナがあらかじめ仕込んでおいた最高ランクの隠蔽スキルによる偽装情報が表示されるだけだ。
『解析不能:深淵の呪い』『侵食率:50%以上』
その絶望的な結果を見た瞬間、ルナの手から杖がカランと滑り落ちた。
「解けない⋯⋯嘘⋯⋯私の知識じゃ、ミナを助けられない⋯⋯ッ!」
常にクールで論理的だったルナが、ガタガタと震えながら髪をかきむしる。自分の無力さを突きつけられ、プライドが粉砕されていく音が聞こえるよう。
(天才魔導師が自分の無力を悟って壊れる顔、ごちそうさまです! あー、ゾクゾクする! 可愛い~!)
最後に騎士ヴァネッサが動いた。
彼女はミナに駆け寄ろうとするが物理防御に特化した騎士の魔力耐性では、ミナが放出する(演技の)瘴気に阻まれて近づけない。
そのもどかしさに、ヴァネッサは拳を硬い石畳に叩きつけた。
「クソッ! クソッ! 私は⋯⋯お前を守ると誓ったのに! こんな⋯⋯こんな結末のために戦ってきたというのか⋯⋯! 畜生ォォォ!」
拳から血が流れるのも構わずヴァネッサは吼える、堅物で頼れる姉御肌の騎士が子供のように泣きじゃくる姿。
(堅物騎士の慟哭! 破壊力抜群! あー、これだよこれ、この『曇り』が見たかったんだよ! 最高のデザートだ!)
三者三様の絶望、その中心で勇者ミナは苦痛に顔を歪めながら脳内麻薬ドバドバの快楽に浸っていた。
今の自分は世界で一番「可哀想で美しい」ヒロインだ。
(よしよし、十分に温まったな。そろそろメインディッシュと行こうか)
ミナは震える手でエレナの服の裾を掴んだ。
いよいよ、あの一言を告げる時だ。
ミナは震える瞼をゆっくりと開け、潤んだ瞳で三人の仲間を見渡した。
それは計算し尽くされた角度、涙の量、そして消え入りそうな儚い声色、すべてはこの瞬間のためにあった。
「お願い⋯⋯私が『私』でいられるうちに、みんなの手で⋯⋯殺して」
その言葉は崩壊した玉座の間に重く響いた。
ミナはあえて苦痛に耐えながら無理やり作ったような、慈愛に満ちた聖母の微笑みを浮かべる。
「魔王になんてなりたくない。私は⋯⋯みんなの大好きな、勇者のままで死にたいの」
瘴気の演出を少し強め、ゴホッとわざとらしい咳をして黒い血(幻影)を吐き出す。
その手でエレナの手を弱々しくぎゅっと握る。
「⋯⋯ねぇ、お願い。他でもないあなたたちだから頼めるの。最後は⋯⋯大好きなあなたたちに看取られたい」
(決まった⋯⋯!)
ミナの内心はスタンディングオベーションだった。
完璧だ。これ以上ない悲劇のヒロインの完成だ。
これで彼女たちは愛する者を自らの手で殺めたという十字架を一生背負うことになる。
「私が殺した」「いや私が」と生涯悔やみ続け、その傷跡を抱えて生きていくのだ。
そしてミナ自身は仲間たちの慟哭をBGMに仮死状態へ移行し、悲劇の英雄として伝説になり、ほとぼりが冷めた頃に別人で第二の人生を謳歌する。
(さぁ、絶望しろ! 泣き叫べ! そして震える手で私の心臓を貫くがいい! 最高の『曇らせ愉悦』エンドを私に捧げてくれ!)
ミナは目を閉じて、その時を待った。
肌を突き刺す殺意や躊躇いの気配、それらが来るのを今か今かと待ちわびて――。
だがしかし⋯⋯いつまで経っても悲鳴も、嗚咽も聞こえてこなかった。
(⋯⋯あれ?)
それどころか先ほどまで響いていた激しい慟哭が、まるで録音テープを停止したかのようにピタリと止んでいた。
周囲を包むのは耳が痛くなるほどの静寂、それとともに急速に低下していくかのような、肌寒くねっとりとした空気感。
(⋯⋯お? なんだ、なんだ。あまりのショックで声も出ないとか? それとも覚悟を決めるのに集中してるのか?)
ミナは恐る恐る、閉じていた薄目をわずかに開けた。
そして、見てしまった。
「⋯⋯殺す?」
ポツリと誰かが呟いた。
目の前にいる聖女エレナは顔を上げていたが涙で濡れていたはずのその顔には、一切の表情がなかった。
碧色の瞳からはハイライトが消え失せ、深海の底のような暗い光だけが宿っている。
「いいえ。殺させません。絶対に」
エレナの声は今まで聞いたこともないほど低く平坦だった。
彼女の指がミナの手首に食い込むほどの強さで握りしめられる。痛い。演技ではなく、普通に痛い。
「⋯⋯え、エレナ?」
ミナが戸惑いの声を漏らした瞬間、背後で空気が爆ぜる音がした。
「――《空間固定》《四肢凍結》《永続拘束》」
詠唱破棄――魔導師ルナが音もなく立ち上がり、無機質な瞳で杖を振るっていた。
それは治療魔法でも解呪魔法でもなく対象を徹底的に無力化し、自由を奪うための対人制圧用の高等魔術。
「うぐっ!?」
ミナの手足が見えない力で地面に縫い付けられる。演技で動けないふりをしていたのではない。本当に、指一本動かせなくなったのだ。
「解析できないなら解けるまで閉じ込めればいい。百年でも、千年でも」
(はッ!? いやいやいや、解析とかいらないから! 早く殺してくれればいいから! なんだこの拘束力⋯⋯! レジストが通りにくいし本気すぎる!)
ルナの瞳は焦点が合っているようで合っていなかった。ブツブツと何かを呟きながら、さらに幾重もの魔法陣をミナの周囲に展開していく。
そして、トドメとばかりに金属音が鳴り響いた。
カランと騎士ヴァネッサが愛剣である聖剣を地面に捨てた音だった。
「安心しろ、ミナ」
ヴァネッサが懐から取り出したのは短剣ではない。
鈍い光沢を放つ、分厚く頑丈そうな「鎖」と「首輪」だった。
彼女は、まるで迷子の子供を見つけた母親のような、歪んだ慈愛の笑みを浮かべてミナを見下ろしていた。
「私たちが一生、お前が守ってやるからな。一秒たりとも目を離さない」
ジャラリ、と鎖が鳴る。その響きは美しい愛の言葉に聞こえたが、ミナには「自害できないように監視してやるからな」としか聞こえなかった。
(⋯⋯え? 待って。違う。そうじゃない。というかなんでそんなもの持ち歩いてるの?)
ミナの背筋を本物の悪寒が駆け抜けた。
これは「悲劇」ではない。
仲間たちが向けているのは死にゆく友への哀悼ではなく――壊れかけた玩具を絶対に手放そうとしない所有者の狂気。
勇者の「完璧な計画」が音を立てて崩れ去り、代わりに「終わらない悪夢」が幕を開けた瞬間だった。




