第26話 獲物の確保。味付けの末路
スラム街の夜空をリリスは軽やかに駆け抜ける。
黒鎧の容姿からは考えられない鼻歌を奏でながら、ボロ屋の前に着地する。
「おかりただいま~♪ ここがアンタの墓場だよっ♪」
扉を勢いよく蹴り開け、暗がりの中へフィリップが放り込まれる。
体が床に叩きつけられ転がると、腐った木が砕け音を鳴らす。
「あはっ♡ いい音ならすじゃ~ん♪ なになに? アタシを誘ってんの?」
壁に這い逃げるフィリップを追う足音は軽く、尻尾が嬉しそうにパタパタと動く。
「そっちに出口はないですよ~っと♪」
追い詰められたフィリップが、懇願の瞳をこちらへ向けた。
「お願いだ、助けてくれ! ボクは本当に何もしていない!」
「ふ~ん。だそうよ? ノア」
『コイツは俺を奈落に2回も送って、麻薬を王都に広めた張本人だ』
「だってさ。本当のところはどうなの?」
「な、なんの話しだ?」
「ノアを奈落に送ったの、アンタなんでしょ?」
「なっ、なんで黒鎧の闇喰いがそれを知っている!」
『リリス、余計なことを言うな』
「えぇ~。せっかくアンタの憂さ晴らししてあげようと思ったのに」
ぶーたれるリリス。
まさかリリスがそんな気遣いをしてくれるとは思っていなかった。
『気持ちは嬉しいけど、リリスがコイツを喰ってくれればそれでいいよ』
「そう? じゃあもうちょっとだけ、美味しくしてから食べよっかな~♪」
「さっきなら何を言っているだ、お前は。お前はいったいなんなんだ!」
「えっ? アタシ? アタシはねぇ……」
クスクス笑いながら、リリスはフィリップを上げに手を添え顔を持ち上げる。
鼻が付くほど顔を近づけ。
「教えて。あ・げ・な・い♡」
唇の端がにぃっと上がった瞬間、リリスは頭突きを叩き込んだ。
鈍い音が響き、フィリップは思わず小さな悲鳴を漏らして後ろへのけぞる。
「いたたっ、だね〜♡ どう? もう一発いっとく?」
フィリップが呻き声を漏らしながら倒れ込むと、それを気にせずリリスは迫る。
軽い平手打ちを何度か交え、肘で胸元を突くと、息を詰めてうずくまる。
「憎い? ねえ、アタシのことに憎い? もっと、もっと憎んでよ! 善よりも悪! 恐怖よりも憎しみの方が絶対的に美味しいんだから! ねえねえ、もっと焦って恨んで♪ もっとアタシのことを憎しみなさいよ、ほらほら♪」
リリスはにやにやと笑みを浮かべて、フィリップの肩を掴むと、手に力を込めた。
「アタシを見ろ! ほら、早くしないともう1本の腕もアタシが引きちぎっちゃうぞ~♪ ほらほら、アタシの眼を見て、思いっきり憎め! アタシを憎め!」
リリスの狙いとは裏腹に、フィリップはただ震えるだけだった。
目は白く見開かれ、唇は嗚咽に震えている。
恐怖が顔を埋め尽くし、声は途切れ途切れにしか出ない。
「なによ。これじゃアタシが弱い者いじめしてるみたいじゃ〜ん? やめてよね。そうやって被害者ぶるの。悪いのはア~ンタなんだから。弁えなさいよ?」
ぷいっと横を向いてふざけた調子で言うと、フィリップはさらに小さく震えた。
そのとき、床に布が落ちた。
めくれると、それは青紫色の粉、麻薬だ。
それを見て、リリスはにやりと悪い笑みを浮かべる。
「最後に少しあそぼっか♡」
身体から黒い手が幾つも伸びる。
それはフィリップの腕、胸、足首、全身を押さえつけ、身動きを取れなくする。
無理やり立ち上がらされ、抗おうと身体を振るが微動だにしない。
リリスは身をかがめて落ちていた布包み拾い上げた。
布をめくり青紫色の粉を広げて、フィリップの顔のすぐ前にそっと寄せる。
「ほら。吸い込みなさいよ」
「嫌だ、頼む、やめてくれ……」
「アンタが人間に吸わせて喜んでたブツよ? なんでアンタが吸えないわけ?」
「頼む。なんでもする。なんでもするから。これだけは」
「……はぁ? なに舐めたこと言ってんの? じゃあなんでアンタはこれをばら撒いてたの? なんでこんなモンで金稼ぎしてたの? どういう気持ちだったの?」
「これだけは。ダメなんだ……」
必死に顔を背けるフィリップに、黒い手が頬を掴む。
無理やり粉へと顔を向けるが、呼吸を止めて吸引を拒む。
その態度に、リリスが明らかに怒りを抱いた。
「答えになってないこと、喋んじゃないわよ!」
拳が腹部に深々と突き刺さる。
嗚咽し、息を吐き出すフィリップは、それでも呼吸を止めて麻薬を拒む。
「……あはっ♡ いい度胸ね。でも、これで。お・わ・り♡」
フィリップの腕を抑えていた黒手が、肩から先を握りつぶした。
筋肉と骨が潰れる音が部屋中に響き渡り、激痛に顔が引きつる。
そして、悲鳴を上げるため、息を大きく吸い込んだ。
リリスの掌に載せられていた青紫色の麻薬が、さらさらと流れていく。
「さっ。アンタがバラまいた味を、存分に楽しみなさいよね」
黒手が霧散し開放されるフィリップは、身体がだらりと緩み、床にへたり込んだ。
目は天井に向けられたまま泳ぎ、瞳孔は大きく開いたまま、瞬きはない。
呼吸は浅く、断続的に「あへ、あへ……」と漏れる音が小屋の中に流れる。
もはや彼に自我はない。
『こんなにも簡単に、壊れるのか』
「恐ろしいよねぇ。こんなのを人間が作って、ばら撒いてたんだから。アタシよりもよ~っぽど悪魔って言葉が似あうんじゃない?」
『……あながち否定はできねえな』
「あはっ! そんな簡単に認めちゃって。ま、確かにこれは胸糞悪いけどねっ!」
中毒者は何人も見てきたが、いつも時計塔で遠目で眺めていただけだ。
まさか、こんな風に人間が壊れるとは思っていなかった。
「じゃ。かなり痛めつけたし、そろそろ食べちゃおっかな〜♪」
リリスは大きく身を乗り出して、床のフィリップを見下ろした。
薄笑いが浮かべられ、目が細くなる。
が、次の瞬間、リリスの顔から表情が二段階で崩れた。
鼻をひくつかせ、眉をきゅっと寄せ、最後に大声で叫ぶ。
「あー! 嘘でしょ! マジであり得ないんですけど!?」
その声は子供じみた驚きと、本気の落胆が混ざったもの。
『ど、どうしたんだ急に』
「味が落ちてる! さいっっっあく! 思考が壊れてんじゃん! マジでありえない!? 嘘でしょ!? あんなにも美味しそうだったのにっ!」
『食べられないほどなのか?』
「食べられるけど味が落ちたご飯なんて認められるわけないでしょ! アタシは美食家よ! なんで不味くなったモノを食べなきゃいけないのよ! あ~もう……。こんなことになるならもったいぶらずにカプッといっとけばよかった!」
悔しそうに騒いだ後、本気で肩を落とすリリス。
「もういいや、コイツ。いらない」
『ちょ、ちょっと待て! じゃあどうすんだよ!』
「殺すだけでいいんじゃない? 生かしておく意味はないっしょ?」
尻尾がフィリップへと狙いを定め、今まさに突き刺そうとした瞬間。
扉が吹き飛び人影が部屋に突入してきた。
「フィリップを放しなさい!」
叫びと同時に剣を構えたのは、こちらを睨みつけるノエル。
「あはっ♪ 見つかっちゃったね〜♡」
それをリリスは嬉しそうに見つめ返した。




