2度目の婚約破棄は私から〜同情ならいっそやめにしましょう〜
「婚約破棄だ!」
大きな声が会場に響いた。指をさされたマリアルーは驚いて口を押さえて、後退りする。大きな声に驚いた人たちが、マリアルーとその婚約者メレディスのやり取りを見つめている。
侯爵令嬢で18歳のマリアルーがこの国の王子で同い年のメレディスと婚約して10年になる。政略で決まった話だったけれど、うまくやっていたと、この日この時までマリアルーは思っていた。
得意げに話すメレディスの横には、少女がいる。マリアルーもその少女のことは知っていた。最近、いつもメレディスの近くにいて、親密そうだなと思って見ていた少女、確か名前はネリネだった。
「お前がここにいるネリネをいじめていたことは周知の事実。いじめなど下劣な行為は許されるものではない」
「そんな、私はそんなつもりじゃ…」
マリアルーはネリネとはあいさつくらいしかしたことはない。小心者のマリアルーは、学校にしても、このようなパーティにしても、参加するだけで精一杯で、ほとんど喋ることもなければ、自分から誰かに近づいていくこともできない。いじめなんて思いついたこともなかった。
首を振りながら、一生懸命否定しようとするが、メレディスはそんな様子を嘲笑う。
「嫉妬に狂ったか、愚かな女だ」
ただでさえ人前に出ることが苦手なマリアルーは、たくさんの人の前で貶められ、恥ずかしくて顔を真っ赤にして、目には涙が浮かぶ。でも何も言い返せない。うまく言葉が出てこないことが悔しくて、俯くことしかできなかった。
そんな時に、マリアルーの上に影が落ちた。
「言い過ぎです、殿下」
そこでマリアルーは下を向いていた視線を上げた。背の高い男の人の背中が見えた。マリアルーからわかるのは後ろに流した長い金色の髪の毛と、青い上等な上着、そして頼もしく感じる広い背中だ。
「ジーク叔父様、しかしその女が!」
メレディスが呼んだ名前を聞いて、マリアルーはその人が誰だかわかった。現王の末の弟、王弟ジークだった。公の位としては王子のメレディスの方が上だが、ほとんど差はない。メレディスも他の者であれば、無礼と切り捨てることができたが、同じ王族のジークには強く出られないようだ。
「いかなる理由があろうと、淑女を公の場で辱めるべきではない。かわいそうに」
ジークはふりかえって、マリアルーを見た。その時に、それまで堪えていた涙がポロリとほおを伝って落ちた。
実は、2人がまともに顔を合わせたのはこの時が初めてだった。マリアルーは妃教育の一環で、王族のことは知っていたし、たまたま同じところに居合わせたりしたことはあったと思う。でも、そのくらいでしかない。そのくらいの関係で、間に入ってもらうのも申し訳なく、間に入ってくれようとする姿を頼もしく感じながらも、マリアルーはいいんですと小さく言った。
自分の何が悪かったか今の時点ではわからないが、何かが悪くて、この状況になっているのはまちがいないのだと思う。そんな状況で、無関係のジークを巻き込むことの方が、マリアルーには耐えられなかった。
「もういいんです」
「良いわけがない」
ジークの眉が不快そうに寄った。それを見て、正義感が強い人だなとマリアルーは思った。
「マリアルー嬢、王族として今回のことは見過ごせない。婚約破棄されたなら、いっそ私と婚約しよう。メレディスの代わりに私があなたの夫となる」
そこでマリアルーは驚いて目をしばたかせた。ジークは国王と年が離れた末の王弟なので、メレディスやマリアルーと年齢もそう変わらない。今20歳だったと思う。結婚もまだしていないので、求婚しても問題はなかったが、なぜそうなるのか。マリアルーにはわからなくて、頭を抱えた。
同時に、婚約破棄宣言からずっと静かに見守っていた周囲からは、きゃーと黄色い声が聞こえてきていた。
「さすがジーク様だわ、マリアルー様の名誉のために、求婚されたのね」
「どうなることかと思ったけれど、メレディス様はネリネ様、マリアルー様はジーク様と縁付かれるということなら、両家に遺恨も残らないでしょうし」
確かに、メレディスに婚約破棄されてしまっても、代わりに身分の高い人と婚約できれば、マリアルーの両親も文句はないと思う。もちろん他にもっといいこの場を切り抜けるアイディアがあればよかったが、メレディスの意思は固く、婚約破棄を覆すことができないなら、ジークの申し出に乗ることが、一番いいように思えた。
「私でよければ、よろしくお願いします」
大きな声を出したつもりはなかったが、本人が思っていた以上にマリアルーの声は大きく会場に響いた。
「見て、あのメレディス殿下のお顔」
つられてマリアルーもメレディスの方を見ると、自分の思惑が外れたこと、邪魔が入ったことに怒ったらしく、歪んだ顔で奥歯を噛み締めていた。
「さあ、話は終わりだ」
そこで場の空気を変えるようにジークが手を叩くと、固まっていた人々が動き出し、通常のパーティに戻った。
「行こう」
ジークがエスコートのために、マリアルーの前に腕を差し出した。マリアルーはその腕に手を伸ばそうとしたところ、後ろから声がかかる。
「待てよ!」
メレディスの声だ。しかし、マリアルーの耳元に、ジークが囁いた。
「待つ必要はない」
マリアルーはチラリと振り返る。すると、メレディスとネリネが怒った顔でこちらを見ていた。自分1人だったら、2人の怒った様子に怯えて立ち止まっていたかもしれない。しかし今は隣にジークがいて、マリアルーの背に手を回して、出口に向かうように促してくれている。マリアルーはジークに甘えて、そのまま会場から退場した。
そんな形でマリアルーとジークは婚約した。しかしそれから3ヶ月たっても、なにも進展がなかった。いや、何もというのはいいすぎかもしれない。一応マリアルーの両親へ2人で報告した。ジークの両親はすでなくなっているので、あとは国王陛下への報告だが、国王陛下は今外遊に出ているため、報告は手紙でのみしたという形らしい。
そして、ジークは国王不在の間、代わりにまわってくる仕事が忙しく、マリアルーとはあの日以来一度も会っていない。忙しいだろうからと気を使って、「返事はいつでもかまいません」と書いて送った手紙は、2週間遅れで返事が来た。内容も当たり障りのないもので、マリアルーは時々、本当に私はジーク様と婚約したのかしらと、自分でも疑っているくらいだった。
そんな状態で学園に通っている。あの日のことがあるので、みんなマリアルーからは距離をおいているようだ、メレディスとネリネの2人はマリアルーを見ると憎らしそうに睨みつけるが、直接話しかけてこない。
放課後、帰り支度をしていると、机に影が落ちた。
「私は認めないから」
椅子に座るマリアルーを見下ろす形で、彼女は立っていた。
「ジーク様は私と結婚するハズだったのよ。あなたなんて、ふさわしくないわ」
確か侯爵家の令嬢で、シュニカといったと思う、彼女は毎日飽きもせず、マリアルーに文句をつけに来る。マリアルーに求婚するまでジークには婚約者はいなかったが、選ばれるだろうと言われていた令嬢が数名いた。シュニカはそのうちの1人だった。
ジークにふさわしくない、そんなこと、誰より自分が一番そう思ってる、と言いたかったけれど、何をいっても彼女には通じないだろうと思うと、口に出す気持ちにもならなくて、マリアルーは小さく「すみません」と呟いて、立ち去ろうとした。
「ちょっと待ちなさいよ。今日こそ逃さないわ」
シュニカはマリアルーの前に一歩出て、いく手を塞いだ。後ろにいるシュニカの護衛騎士たちも応じるように、マリアルーの前に立つ。
「大体、あの婚約破棄だって眉唾物じゃない。メレディス殿下の関心が薄くなったから、わざとあんなところで婚約破棄させたんじゃないの。じゃなきゃいくら殿下だって陛下の決めた婚約を覆すわけがないし、ジーク様の正義感の強さを利用して、ああいう筋書きで計画してたんじゃないの」
「そんなことありません」
「また! そういう私は何も知りません被害者ですって顔!」
マリアルーは下唇を噛んで俯いた。シュニカはきっとマリアルーが何を言っても気に食わないのだ。そう思うと言い返すのがバカらしくなる。言い返した分、余計に怒って手がつけられなくなるだけだ。だったら、何も言わず、ずっと耐えるしかない。
その様子を見たシュニカはさらに声を大きくして畳み掛けた。
「もう言い返さないの? その程度の気概でジーク様の横に並ぼうなんて、おこがましいのよ。やっぱり、私確信したわ。ジーク様があなたと婚約したのは、同情だけ。きっとほとぼりが冷める頃に、新しい相手でもあてがわれるわ、だってどう考えたって貧乏くじじゃない。王子殿下に捨てられた婚約者なんてね」
言うだけ言って気が済んだようで、シュニカは高笑いしながら護衛を引き連れて去っていった。
1人残ったマリアルーは、やっと終わったと、ほっと息を吐いた。ほっとすると同時に、ブワッと両目から涙が溢れてくる。いつもこうだ。何を言われても言い返せないくせに、悔しい気持ちだけは一人前で、こうやって強く言われるとあとにすぐに泣いてしまう。
(ふさわしくないなんて、私が一番わかってるわ)
さっきシュニカが言ったことは、全部マリアルーがずっと思っていることだった。だから言い返せないし、尚更くやしい。
(そもそも、ふさわしくないって分かってるんだから私が引くべきなのよね)
ジークから断るとマリアルーには実質二つのバツがつく。せっかく助けたはずなのに、そんなことになっては本末転倒だった。むしろ身分の差があっても、断るとすればマリアルー側からが自然だ。
(むしろ、私が断るのを待ってるのかも)
そう考え始めると、それが正しいように思えてくる。そっけない態度は、マリアルーに暗に示しているのかもしれない。一緒の時間を過ごすどころか、手紙すら遅れる様子は、身の程をわきまえて、さっさと辞退しろ、そう言っているようだ。
それなら、望む通りにしてしまおう。そのほうがジークは新しい本当に愛する相手を見つけられるし、マリアルーへのシュニカを始めとする周囲からの不愉快を買わずに済む。そう思うのに、どこか気が進まなかった。
婚約破棄の時、絶望的だったマリアルーの視界を遮ったジークの広い背中を思い出してしまう。なぜか懐かしく感じる少しぶっきらぼうな声も。
(少しでも、断られない可能性があるなら、このままでいたい)
どれくらいそのままでいたかわからない。太陽が傾いて、オレンジ色になってきた。流れるままにしていた涙だけど、そのまま学校を出るわけにはいかないから、ハンカチを探す、入れたと思っていたカバンのポケットになく、あれ、どこに入れたかと探していると、スッと目の前にハンカチが差し出された。マリアルーはその手が誰の手か確認するために顔を上げ、驚いて、声が掠れた。
「ジーク様、どうして」
「仕事場がここの近くなんだ、たまには婚約者を迎えに来てもいいかと思ってね」
差し出されたハンカチを受け取って、目元をさっと拭う。せっかく会えたのに、あまり情けない姿を見られたくなかった。
「何かあったか? まさかメレディスがまた?」
「いいえ、殿下は違うのです。これも、私が勝手に泣いてしまっただけで、子どもっぽくて嫌ですね。貴族らしく、何ごとにも動じないように早くなりたいです」
「いや、いいんじゃないか。君はそれで」
優しい。そう思って、また一粒涙が溢れた。こんなに優しく正義感のある人を、これ以上自分のわがままで、煩わせてはいけないとマリアルーは思った。
「ジーク様、この婚約がご迷惑なら、私すぐに両親に言います。お忙しいのに、こんな面倒な婚約者は煩わしいでしょう。もう世の中の何もかもが嫌になったから、出家するといえば、言い訳は十分です」
「なぜそうなるのか理解できないな」
ジークは眉間の皺を深く眉を寄せた。その様子を見てマリアルーは怒らせたかと思い、怯えてびくりと肩を震わせた。
「婚約してくれと言ったのは私の方だ。迷惑だったら最初から婚約を申し出たりはしないよ」
「でも、私はふさわしくありません」
「どういうところが、ふさわしくないと思う」
ジークの口調は怒っていなかった。冷静に事実を確かめるために言っているとマリアルーにもよく分かった。マリアルーは指折り自分の欠点を並べる。
「だって、臆病で、これと言って成し遂げたことは何もないし」
「それで」
「機転が効くわけでも、器用でも、華やかで明るくもありません」
「そうか」
「それにメレディス殿下にも捨てられました」
「だから、ふさわしくないと?」
「ええ」
ふむとジークは顎に手を当てて考え込む様子だった。
自分がこんなにはっきり自分の意見を言えることに驚いていた。こんなこと、思っていてもメレディスの前ではとてもじゃないけど言うことができなかった。いつも鋭い目で不機嫌そうに睨まれて、その顔を見るだけでマリアルーは萎縮して声が出なくなっていたのだ。それとは反対に、ジークの前では、なんでも言える自分がいる。まともに話したのは、たったの二度目なのに、マリアルーは不思議に思いながら、目元を押さえたままにしていたハンカチから、伺うようにジークを見る。
「そうか、分かった」
何かを考えていたジークが顔を上げて、じっとマリアルーを見つめた。
急に恥ずかしくなる。多分耳まで赤くなって涙でぐしゃぐしゃになった顔を見られたくない、そう思って俯いた。
「マリアルー嬢、結婚しようか」
驚いて、反射的に顔を上げる。
「なんでそうなるんですか!?」
「だって君が不安になるのは婚約者という立場が不安定だからだろう。結婚してしまえば、ふさわしいふさわしくないなどという以前に、神に君ひとりだと誓うのだから、君以外あり得ない。そうすれば少しは安心できるのではないかと思ったのだが」
違ったか? と首を傾げている。
マリアルーは、ジークのように魅力的な人がいつまでも婚約者すらいないのはおかしいと思っていたが、この時、謎が解けた思いだった。世間とは違う物差しを持って生きているから、きっと婚約者というものにも頓着していなかったのだろう。
どう説明すれば分かってもらえるかわからないし、なんならそう言われてみれば、結婚すればこの不安は消えるのかも?と思う自分と、いやいや、そういうことじゃないのよ。はっきりさせておかないとと思う自分が対立している。何度か気持ちが行ったり来たりして、最終的に、はっきりさせる方が勝った。
「わたしがふさわしいかどうかって言っているのは、ジーク様がなぜ私と結婚しようと思っているのかが全くわからないからです。どうして私なんですか。哀れだからですか? 同情心なら、ここで終わらせた方がいいと思っているから、そういうふうに言ったのです」
「同情が少しもないと言えば嘘になるが、同情からだけではない。あの場の勢いでもない。と言っても信用してもらえないかな」
ジークの声は緊張しているように聞こえた。珍しい。
「最初、君の相手は私だったこと、多分幼すぎて覚えていないか」
言われて、記憶をたぐると、まず思い出したのは、緑の香りだ。
次に小馬を連れて広い草原に行った時、転んで泣いたマリアルーの頭にそっと花で作った冠を載せてくれた年上の少年のことを思い出す。
もらった綺麗な冠が嬉しくて、いい匂いがして、泣いていたことを忘れてにっこりと笑う自分。
『ありがとう、ジークにいさま』
「ジーク…にいさま?」
「しばらく会わなかったから忘れていても無理もないよ。その後、当時のメレディスの婚約者が事故で亡くなって、君の婚約が繰り上がった。しかし、私はあまり器用な方ではなくてね。あの頃から泣き虫の君だけが唯一の婚約者だった」
言葉が出ない。すっかり忘れていた、大好きだった婚約者のこと。思い出してみれば、どうして忘れていられたのか、不思議なくらいだ。あの頃は婚約がなくなったことが悲しくて、いっそ忘れてしまいたいと思っていた。だから忘れてしまったのかしら。
ジークを見るたびに胸に湧く、締め付けるような懐かしさや、たのもしさは昔の記憶が教えてくれていたのかもしれない。ずっと昔、大切にしてもらった記憶が、次々によみがえってくる。
ジークがもう一度確かめるように、ゆっくりと口にする。
「結婚しよう、マリアルー」
もうマリアルーは迷わなかった。
「はい」
泣きたくないと思うのに、また涙が溢れる。それをジークが指先で優しくぬぐった。