転生悪役令嬢は面倒がお嫌い
(熱い。悲しい。苦しい。あぁ、どうして――)
ごうごうと燃える炎の中で、悪役令嬢アダルウォルファ・シックザールは非業の死を遂げる。それが、少女漫画『最後の魔女に祝福を』のストーリーなのだ。
(まぁ、その悪役令嬢はおそらく私なわけなのだけれど)
シャンデリアの光に照らされた豪華絢爛なホールでは、王室主催の舞踏会が開かれている。
その参加者である貴族達の視線は美しい銀の髪を結い上げ流行のドレスを着こなす侯爵令嬢アダルウォルファに向いていた。
そして、そのアダルウォルファは死んだ目で眼前の二人を見ている。普段は狼のようだと言われる凛々しい瞳は見る影もなかった。
アダルウォルファがそれを見たのは、十二歳の時であった。高熱がなかなか下がらず、一週間ベッドの上で苦しみ続けた。
夢現で見たそれは、誰かの視点で繰り広げられる日常生活という妙なもので。それは所謂、前世の記憶というものであったのだが……。
熱が下がり目を覚ましたアダルウォルファに残ったのは、『最後の魔女に祝福を』という少女漫画の記憶と『オタク』『原作』『転生もの』等々。かなりの片寄った知識のみだった。
「何なのかしら……」
アダルウォルファはベッドに腰掛け小首を傾げた。確かなことは、その少女漫画に出てきた悪役令嬢は自分によく似ていて、同姓同名であるということ。
(もう少し成長したらあのような容姿になりそうではあるわ)
そして、今現在アダルウォルファが慕っている王太子ラインハート・クランツ・シュトローム殿下はあのヒーローによく似ていた。こちらも同姓同名。
(もしかして、ここはあの漫画の……?)
などと思いはした。しかし、確証はなかったし、心の何処かで馬鹿らしいとも感じた。
ただ、それ以上にアダルウォルファには重要な部分があった。王太子ラインハートはその漫画の中で、最後の魔女だとかいうルチナなる女性と恋をしていたのだ。アダルウォルファではなく。
漫画のアダルウォルファはそれがどうしても許せなかったらしい。ルチナを罵り、虐げていた。それを第三者目線で見ると、侯爵令嬢とは思えない醜態だったのである。
「信じられないわ」
侯爵令嬢として完璧に育てられてきたアダルウォルファにとって、それはあってはならないことで。
恋は盲目とは言うが、何と恐ろしいのか。当時のアダルウォルファはまだ十二歳、恋に恋をしていた時期であった。
しかし、どれだけ想ってもラインハートがアダルウォルファに振り向いてくれることはなく、ルチナという女性とイチャイチャしている絵を延々と見せられたことで、恋心は完全に冷めてしまった。
そうなると、何故あそこまで積極的になれていたのかアダルウォルファには分からなくなった。恋とは何と面倒で体力のいる感情なのであろうか。
相手の言葉や態度一つ一つに心が浮かれたり、落ち込んだり……。自身の行動を鑑みることもなく、周りは見えなくなり……。
(暫くは、御免だわ)
本来の落ち着いた性格に戻ったアダルウォルファは、兎にも角にもラインハートと関わりさえしなければいいと考え、七年の年月を平穏に過ごした。
そして、アダルウォルファが十九歳になった頃のことであった。森で狩りをしていたラインハートが、嵐に見舞われ行方不明になったのは。
国を挙げて捜索が行われ、ラインハートは半月後に無事城へと戻った。隣にルチナを連れて。
ルチナが現れたことによって、アダルウォルファは戸惑った。あの『最後の魔女に祝福を』が現実味を帯びてしまったからだ。
しかし、困ったことに七年前の記憶である。アダルウォルファは既に漫画の半分も覚えてはいなかった。
(ま、まぁ……。これからも関わらなければ面倒なことにはならない筈よ。私が死ぬなんてことにもね)
そう高を括っていたというのに。
アダルウォルファの視線の先、赤ワインがかかってしまったドレスを身に纏った桃花色の髪をショートボブにした少女が、薔薇色の瞳いっぱいに涙を溜めていた。彼女こそが魔女のルチナである。
そのルチナを守るようにして、プラチナブロンドの長い髪を後ろで一つにしている青年が紫紺の瞳を鋭く細めてアダルウォルファを睨んでいた。彼が王太子のラインハートだ。
対峙するような位置取りになってしまっているのは、ルチナのドレスに赤ワインをかけたのはアダルウォルファということになっているから。
「どうして……。どうして、君はいつもルチナに酷いことをするんだい?」
「い、いいんです。ラインハート様」
「良くないだろう」
目の前で繰り広げられている茶番に、アダルウォルファは思わず溜息を吐きそうになって何とか耐える。
何故かは分からないが、ルチナはいつもアダルウォルファに嫌がらせをしてくるのだ。
近くで転んでは、アダルウォルファのせいにする。暴言を吐かれたと泣いて見せては、アダルウォルファのせいにする。
今日だってそうだ。急に近寄ってきたかと思えば、自分で自分のドレスに赤ワインをかけて「きゃあ!? 何をするのですか!?」などと喚きだし……。あっという間にアダルウォルファのせい。
(“どうして”は、こちらの台詞よ。どうして気づかないのかしら。ルチナの演技力が凄すぎるから? 花形役者になれるわね)
もはやお約束となりつつあるやり取りを右から左へ受け流し、アダルウォルファは考える。どうしてルチナはこのような事をするのか、と。
(薄々、そうなのではと思ってはいたけれど……。ルチナにもあの少女漫画とやらの記憶があるのかしら)
しかし、だから何だと言うのだろうか。
(困難がなければ、結ばれないとでも思っているのかしら。寧ろ、それってどうなの?)
扇で口元を隠しながら、アダルウォルファは冷めた瞳でルチナを見遣る。面倒だと言いたげに。
「聞いているのかい?」
「えぇ、勿論でございます。申し訳ありませんでした。そちらのドレス、弁償いたしますわ」
「そういう問題ではない!」
ここで否定をしても聞いては貰えないので、アダルウォルファは謝罪を口にした。特に何もしてはいないのだが……。だというのに、ラインハートは納得してくれなかったようだ。
(じゃあ、どういう問題なのよ)
謝罪をし、弁償するとまで言っているのに。誠意が足りなかったのだろうか。しかし、何も悪くないのにどう気持ちを込めろというのか。
魔女特有の薔薇色の瞳がアダルウォルファをじっと見つめてくる。それをアダルウォルファは、無感情に見つめ返した。
シュトローム王国に、古くからある伝承。魔女とは、不可思議な力を持つとされる特異な存在だという。幸運を授ける魔女もいれば、不幸を招く魔女もいるとか。正確な情報はないに等しかった。
(ルチナは幸運を授ける魔女だと漫画の中では言われていたけれど、私からしたら不幸を招く存在でしかないわね)
早く終わってくれないかと、アダルウォルファが現実逃避しかけた時であった。人が近づいてくる気配がして、視線だけをそちらへと向ける。
短い黒紅色の髪がさらりと揺れたのが見えてアダルウォルファは、またかと今度こそ溜息を吐いた。まるで返り血を浴びたような髪色とは裏腹な綺麗で澄んだ天色の瞳と目が合う。
その瞳が優しげに弧を描くのをアダルウォルファは何処か他人事のように眺めた。それに気づいているのかいないのか。男は視線をラインハートとルチナへと向ける。
「では、どういう問題なのでしょうか」
男の口調も声音も柔らかなのに、その場には凄まじい緊張が走った。何故ならば、その男は先の戦争で武功を立てた鬼神と恐れられる辺境伯ベナット・ヴァイスであったからだ。
彼は婚外子でありながら異母兄と異母弟を押し退け、武功で後継の座を勝ち取った男である。今現在ベナットが国境を守っているため、近隣諸国は攻めてこれないとまで言われていた。
「それは……」
「魔女様はこれ以上何をお望みで?」
「わ、私は大丈夫って」
「あぁ、言っておられましたね。では、この話はお終いにしましょう。よろしいですね」
ベナットの圧に、ラインハートは押し黙る。それを了承と受け取ったのか、ベナットは微笑みを浮かべ感謝を示した。
しかしそれは一瞬のことで、直ぐに顔ごと視線はアダルウォルファへと向く。褒めて欲しそうな瞳に見つめられ、アダルウォルファは再び溜息を吐き出した。
(何故なのかしらね)
だって、漫画の中でベナットはヒロインであるルチナに惚れていた。所謂、当て馬という役どころ。
最後は彼女の記憶に残るために、目の前で自死を選ぶ。「俺を覚えていろ、一生な」そう狂気じみた笑みを浮かべながら。
口調や表情だって、鬼神の二つ名に相応しい冷酷無比なものであった。牙を剥き出した獣のような威圧感を出していたのに。
今のベナットは、まるで別人だ。まぁ、それはそれで恐ろしい雰囲気は出ているが。
「どうか、お手を」
懇願するような声音に、思わずアダルウォルファは差し出されたベナットの手に手を重ねてしまった。瞬間、ベナットの周りに花が舞ったように見えたが、気のせいということにしておく。
この七年間、ベナットとは特に接点などなかったとアダルウォルファは記憶していた。それなのに、ルチナが現れアダルウォルファが困っていると、いつも助け出してくれるようになったのだ。
ベナットに手を引かれ、会場の端へと歩いていく。休憩のために設置された椅子が見えて、アダルウォルファは何とも言えない表情を浮かべた。
(気遣いの出来る人だこと)
貴族達は噂話が大好きだ。下世話であればあるほどに。しかし、ベナットのことは恐ろしいのか控えめにチラチラと見るだけであった。
妙な勘違いをされては、ベナットも困るであろうに。彼は、社交界で注目されている。婚約者の座におさまりたい令嬢が沢山いる筈だ。
(いや、畏怖の方が強いのかしら。令嬢達も遠巻きに見るばかりで話し掛ける子はいないものね)
そんなことを考えていれば、椅子の前まで辿り着いていた。
「さぁ、椅子へ。何か飲み物でも?」
「ありがとうございます。でも、結構ですわ」
「そうですか?」
促されアダルウォルファは遠慮なく椅子へと腰掛け、立ったままのベナットを見上げた。
ベナットはニコニコと嬉しそうに笑うだけで、その場から離れるでもなく、かといって椅子に座る様子もない。
「……よければ、お隣どうぞ?」
そう声を掛ければ、ベナットは目を真ん丸に見開いた。次いで、へにゃりと目尻を下げる。
「失礼します」
漫画の中のベナットであれば、ドカッという効果音がつきそうな勢いで椅子に座っていた。しかし、今目の前にいるベナットは優雅に姿勢よく腰掛けている。
(私は、こちらの方が好感を持てるわね)
思わず不躾にまじまじと眺めてしまったようだ。ベナットがソワソワと落ち着きを失くしていく。ちらりと困ったようにアダルウォルファを見たベナットの瞳と目が合った。
「ごめんなさい」
「いえ、良いのです。その……。緊張、してしまって……」
「緊張? 何故です?」
「そっ……れを聞きますか?」
ベナットは手の甲で口元を隠すと、視線を逸らしてしまう。アダルウォルファは不思議そうに目を瞬いたが、ベナットが耳まで赤くしているのに気づくと慌てて顔を背けた。
「ええと……。やはり、何か飲み物を取ってまいりますわ」
「え? あっ、待って!」
アダルウォルファを引き留めようとしたのだろう。伸ばされたベナットの手は、しかしアダルウォルファに触れる前に止まる。
オロオロと宙をさ迷う手が健気に見えて、結局アダルウォルファは立ち上がれずに椅子に座り直した。
(あぁ、選択を誤った気がするわ)
十二歳のあの日から今日まで、極力面倒事を避けて生きてきたというのに。アダルウォルファは壁を作るように扇を開くと、それで口元を隠した。
「何でしょうか?」
「シックザール侯爵令嬢……」
嬉しくて仕方がない。そんな感極まったような吐息だった。しかし、アダルウォルファは聞かなかったことにして、正面だけを見続ける。
「貴女は、覚えておられますか」
覚えていないと分かっているような問い掛けであった。それに、アダルウォルファは訝し気に眉をひそめると、思わず顔をベナットへと向けてしまう。
「兄の生誕パーティーに、一度だけ来てくださいましたね」
「……そう、でしたね」
「庭園の隅で踞る傷だらけの小汚ない子ども」
「……?」
「覚えて、おられますか?」
ベナットの笑みに自嘲が混じった。しかしそれは瞬きの間に消える。
「いえ、分かっています。そのような些末なこと、覚えてなどおられませんよね」
この話はお終いとばかりに、ベナットは顔をアダルウォルファから背け正面へと向けた。それに、アダルウォルファは深々と溜息を吐く。
「答えも聞かずに勝手ですこと。覚えておりますわ。子どもと言っても私よりも年上に見えましたけれど」
「えっ」
「それが、何ですの?」
ヴァイス辺境伯の長兄の生誕パーティーに行ったのは、アダルウォルファが十三歳の頃だった。辺境伯の夫人ご自慢の庭園を開放していたから、一人で散策したのだ。
確かにその時に、十五か十六か。そのくらいの歳の子を見つけた記憶がある。ベナットの言う通り、転んだのか傷だらけで砂まみれになりながら踞っていたような気はする。
「俺です」
「はい?」
「その子どもが、俺です」
アダルウォルファの目が点になる。そうだっただろうか。
夕日が庭園を自分を少年を全てを橙色に染め上げていた。それに、少年の長い前髪から覗く瞳はもっと濁っていたし、表情も全くと言っていいほどになかったのだ。
しかし同一人物と言われれば、確かに似ている気もしてきた。人の記憶とは頼りにならないものだと、アダルウォルファは眉尻を下げる。
「そうだったのですか。それは、気づきませんでした」
「良いのです。覚えていてくれただけで、嬉しい。それに、それはあの時の俺から変われたということでしょう? それもまた、嬉しい」
ベナットがゆるゆると頬を緩めた。心の底から喜んでいるのが伝わってきて、アダルウォルファは渋い顔をする。
(これは、何だか嫌な感じだわ。確かにベナットは何度も助けてくれたし、そこは感謝もしている。けれど! 面倒は御免なの)
フワフワとする空気感を醸し出しているベナットに、昔アダルウォルファが蓋をした感情が擽られる。それを敏感に察知した彼女は、思わず頬を引き攣らせた。
黙り込んだアダルウォルファに何を思ったのか、ベナットは慌てて口を開く。話には続きがあるらしい。
「貴女は医務室に行くのを嫌がった俺を特に責めるでもなく、不馴れなのに態々俺みたいなのに手当てをしてくださった」
「そういえば、そのようなことをしたような……」
「当時の俺は婚外子ということで、あの家に居場所などなかった。何もかもがどうでもよかった。自分の命だって……」
ベナットの瞳がほの暗く翳る。目を伏せた彼は、当時を思い出しているのか口元に自嘲を浮かべた。
アダルウォルファはベナットの話を聞きながら、記憶を探る。そこまで感謝をされるような事はしていない。彼女にとっては、貴族たるもの当然の行いでしかなかった。
「貴女にとっては何でもないことであったのかもしれません。でも、俺にとってそれは忘れられない出来事になりました」
「そうですか」
アダルウォルファは、出来るだけ冷たくあしらうという選択をした。だって、ルチナが凄い目でこちらを見ていたから。
(もはや、恐怖でしかないのだけれど。あの女は、何がしたいのよ)
扇を持つ手が震えそうになるのをアダルウォルファは意地で耐える。早く解放して欲しかったが、ベナットは浮かれたように話を続けた。
「『泣いて暮らすも一生、笑って暮らすも一生』」
「あら? それを貴方に言いまして?」
「えぇ、教えてくださいました。『泣くのが悪いとは思わない。ただ、流した涙以上に笑って生きたいものよね』、と」
それは、アダルウォルファの前世の人物が信条としていたものだった。あの夢の後、心に深く残ったそれをアダルウォルファも素晴らしい考え方だと思った。
「俺は、そんな貴女に、相応しい人間に……な、なりたいと」
急にベナットの言葉が途切れ途切れの辿々しいものへと変わる。真っ赤に染まった頬が、それを愛の告白のように錯覚させた。
(……は?)
いや、錯覚ではないのだろう。そんなことはアダルウォルファにだって分かっている。しかし、ここで? そんなことがあるのか。
「笑顔の練習もしましたし、マナーや剣術も……。戦場を生き抜けたのだって、全ては――」
「駄目よ!!」
思わずベナットの言葉を遮ってしまった。大きな声を出したアダルウォルファに、彼は目を丸めて黙る。
「貴方はご存じないのですね。それは、恋とは、恐ろしいものなのですよ」
「……はい?」
至極真面目なトーンでそのようなことを言ったアダルウォルファに、ベナットは間の抜けた声を出した。それに、彼女はムッと口を結ぶ。
「へぇ……。あの噂は本当のことだったんだ」
「なに? 何ですの?」
「いえ、失礼。こちらの話です」
ベナットはニコッと柔和な笑みを浮かべると、膝に肘を乗せアダルウォルファを下から覗き込むような体勢になった。上目遣いに見上げられ、アダルウォルファは目を瞬く。
「俺にとって恋とは、喜びです」
「よろこび?」
「そうです。あの地獄のような日々の中、正気を保てたのも。こうして、生きているのも。全てはそれのお陰だ」
「…………」
「まぁ、あの女の恋に巻き込まれ迷惑している現状が貴女にとって面倒そのものというのもあるのでしょうが」
「そうですわ」
「俺にとっては、僥倖でした。いや、そんなことを言ったら嫌われてしまうか……」
ベナットは失言だったというように、眉尻を下げる。許しを乞うようなそれに、アダルウォルファは目を逸らした。
「爵位も手に入れ、貴女の隣に立つための準備は十分に整った筈でした。けれど、貴女に話し掛ける勇気が俺にはなかったのですよ」
「……なるほど」
「こうして貴女と隣り合って座れる日がくるなんて。しかも、俺なんかとお喋りまでしてくれている。これを喜びと呼ばずして、何と呼べばいいのか俺には分かりません」
愛しい。そう囁かれているような心地になったのは、ベナットの声音に滲む得も言われぬ感情のせいであった。
アダルウォルファの頬がじわじわと熱を持つ。このように真っ直ぐな好意を向けられたのは、産まれて初めてのことだった。
どう反応するのが正解なのか分からずに、広げた扇にアダルウォルファは隠れる。ベナットの嬉しそうな笑い声が耳朶に触れた。それが更に落ち着かない心地にさせる。
ちらりとベナットへと視線を向ける。目が合って、ベナットはゆったりと目を細めた。まるで獲物を前にした猛獣のような。歓喜に満ちた瞳がアダルウォルファを射抜く。
「い、一度持ち帰って検討いたします」
「検討してくださるのですか?」
気を抜くと、喉から悲鳴が漏れ出そうだった。それは、恐怖というよりは、戸惑いや羞恥といった方が正しい。
だってベナットのそれは、アダルウォルファが知っている恋とは何かが違っているように見えたからである。
小さな少女が夢見るような甘ったるいだけの恋ではない。もっと得体の知れない何かがベナットには確かにあった。
(うぅっ、どうしてこのようなことに。やはり、恋なんて面倒極まりない!!)
煩く鳴る心臓に、散らかる思考。体力を根こそぎ持っていかれたアダルウォルファは、帰りの馬車の中でぐったりと放心するのだった。
舞踏会から一ヶ月。アダルウォルファは舞踏会だけではなく、晩餐会やサロンなどでも度々ルチナとラインハートに絡まれ、その度にベナットに助けられる日々を過ごしていた。
ベナットはあれ以来、あからさまに口説いてくるのでアダルウォルファは困り果てていた。のらりくらりと受け流して逃げてはいるが……。
「はぁ~……」
アダルウォルファが淑女らしからぬ息と一緒に魂まで抜けていきそうな深々とした溜息を吐き出したのは、ここが馬車の中だったからだ。
今現在、懇意にしている伯爵令嬢主催のお茶会からの帰り道である。お茶会自体はご令嬢達だけの招待であったため、ルチナもいなかったし久方ぶりに平穏であった。
しかし、王太子には目の敵にされ、ベナットには口説かれ、アダルウォルファは様々な意味で注目を集めてしまっている。何処かぎこちない態度で接されたのは気のせいではないだろう。
「疲れたわ……」
この面倒はいつまで続くのやらと、再びアダルウォルファが溜息を吐いた時だった。異様なほどの眠気に襲われ、視界が揺れる。
(なに?)
浮かび上がった疑問を考える間もなく、アダルウォルファは深い眠りに落ちていった。
「んんっ……?」
ふわりと意識が浮上する感覚に、アダルウォルファは疑問符を飛ばす。いつの間に寝たのだったか。寝惚けた頭では、状況がよく分からない。
アダルウォルファは重い瞼を開けると、緩慢な動きで上半身を起き上がらせた。どうやら、床に敷かれたラグの上に寝転んでいたらしい。
(どうなっているの? ここはどこ?)
何処か見覚えのある部屋に、アダルウォルファは記憶を懸命に探る。そして、ここがシックザール侯爵所有の別荘であることを思い出した。部屋を飾る調度品等からも確実であろう。
「なんで?」
よくは分からないが、アダルウォルファは部屋の外へ出ようと立ち上がる。少しふらつきながらも歩を進め、ドアノブに手を掛ける。
何がどうなっているのか、扉は開かなかった。一瞬、鍵がかかっているのかと思ったが、残念ながらこの部屋にそのようなものは取り付けられてはいない。
その事実に、アダルウォルファの肌が恐怖に粟立つ。咄嗟にドアノブから手を離し、扉から距離を取った。
「まさか……。ルチナなの?」
声も足も震えて、アダルウォルファは腰が抜けたようにその場にへたり込む。ふと、焦げ臭い匂いが鼻を突いた。
扉の隙間から黒煙が部屋へと入ってくるのが見えて、彼女の喉から引き攣った悲鳴が漏れた。煙を吸ってしまい、派手に噎せる。
出来るだけ距離を取ろうと、床を這うように後退さった。ハンカチで口を塞ぎ、何とか呼吸を落ち着けようと試みる。
(あの女、頭がおかしいわよ!!)
この状況にアダルウォルファは一つだけ心当たりがあった。忘れたくても忘れられない。悪役令嬢がヒロインを監禁しようと企み、因果応報で焼け死ぬ。その全てが起こる場所がここなのだ。
(火が出てしまった原因は、争っている内に燭台を倒してしまったせいだった筈だけれど……)
しかしこれは、明らかな放火であろう。
外に出たくても、扉は開かない。そして、ここは三階の部屋だ。窓から飛び降りて助かるなど人間離れした芸当、アダルウォルファには不可能であった。
――――何かあれば、いつでも俺を頼ってください。必ず、貴女の力になってみせます。
不意に、ベナットの顔が脳裏に浮かんだ。それに、アダルウォルファは自嘲気味に笑む。
「こんな時ばかり、貴方を思い出すなんてね。流石に狡い女だと、呆れてしまうでしょう? ねぇ、ベナット……」
頬を涙が伝っていく。諦めたくない気持ちはあるが、どうにも出来ないと頭が結論を出してしまった。アダルウォルファはどうしたものかと目を伏せる。
そういえば、漫画でヒロインの元へ駆けつけたのは誰だっただろうか。魔法の力で屋敷の外へ出たものの、呆然と立ち尽くすルチナの傍へ駆け寄ってきたのは確か……。
「アダルウォルファ!!」
もはや絶叫と言って差し支えない程のそれが、自分の名を呼んだのにアダルウォルファは目を見開く。そして何故か扉ではなく、隣の部屋とを仕切る壁が爆音を上げてふっ飛んだ。
あまりの衝撃にアダルウォルファは声もなく縮こまる。瓦礫を踏みつけ部屋へと入ってきた黒紅色の男は、アダルウォルファを見つけ泣きそうに顔を歪めた。
「……っ!!」
「ヴァイス辺境伯?」
「間に合った」
ベナットの声が覚束なく揺れる。しかし、アダルウォルファが噎せたのを見て、弾かれたように駆け寄ってきた。
「抱えますよ」
「え、えぇ、ありがとうございます」
「いえ、当然のことです」
丁寧に横抱きに抱えられ、アダルウォルファは無事に屋敷から脱出することが出来たのだった。
その日の夜、アダルウォルファの寝室。
バルコニーへ通じる両開きの窓がゆっくりと開く。そこから侵入してきた女が、アダルウォルファの眠るベッドの直ぐ傍に立った。
手には短剣が握られている。緩慢な動きでその短剣を振り上げた女は、一変して勢いよくそれをベッドの膨らみへと突き刺した。
「やはり、来たのね」
「えっ!?」
扉からランプを持って入ってきたアダルウォルファを見て、女は焦ったように狼狽する。蝋燭の明かりに照らされた女は、ルチナであった。
「動くな。殺すぞ」
アダルウォルファの後ろから剣を持ったベナットが入ってくる。剣と殺気を向けられたルチナの顔色が真っ青に変化した。
「な、なんで」
「それは、こちらの台詞よ。どうして、このようなことをするの」
ルチナはアダルウォルファに死んで欲しいようであった。一度失敗したくらいで諦めるような女だったら、彼女も苦労はしない。必ず殺しにやって来ると思っていた。
「どうして……」
「なに?」
「どうして!! 原作と違うことするのよ!!」
急に激昂したルチナに、アダルウォルファは息を詰める。ベナットは即座に彼女を守ろうと、自身の方へと引き寄せた。
「許せない!! 原作改変なんて!! 絶対に! ぜっったいに許さない!!」
「げんさ、く?? 何を言ってるんだ?」
「貴方もよ!! ベナットはヒロインが好きなの!! ヒロインのために死ぬのよ!!」
「……? シックザール侯爵令嬢のためになら喜んで」
「違う!! 違う違う違う違う!! ルチナが皆に愛されて幸せになるストーリーなのに!! 原作通りにしなさいよ!!」
話にならない。そう判断したアダルウォルファは、何事かを延々と喚き散らすルチナを兵士に捕らえさせる。
ルチナは魔法を使おうとしたようだが、それは不自然に止まった。呆然とした顔で現れたラインハートを見て固まってしまったからだ。
「ルチ、ナ……?」
「あっ、どうしてラインハート様が」
「嘘だろう。夢、夢だと言ってくれ……」
その隙に、兵士が魔法を封じる首輪をルチナへとつけた。国王陛下に両親が懇願して、手に入れてくれた代物だ。
「何よこれ!? こんなの知らない! 原作になかったじゃない!!」
「悪夢だ」
現実を受け入れられないラインハートを置き去りにして、ルチナは王城へと連行されていった。
ふらふらとルチナとは別の馬車に乗るラインハートの後ろ姿を哀れに思いつつ、アダルウォルファは彼を見送ったのだった。
アダルウォルファとベナットの婚約話が持ち上がったのは、事件から半月も経たない内のことだった。
本日は、そのベナットと二人きりのお茶会。アダルウォルファは、ニコニコと心底幸せそうに笑む目の前の男を呆れ気味に眺めていた。
「嬉しそうですね」
「それはそれは、もう……。天にも昇る心地です」
「そうですか」
両親も賛成しているし、国王陛下のお許しも出ている。この婚約が正式に決まるのも時間の問題であろう。
「これで、焦らずじっくりと貴方を口説くことが出来ます」
「もう婚約するのに?」
「えぇ、好きになって欲しいので」
アダルウォルファは考える。夫婦になるということは、これは恋ではなくなるのだろうかと。
「俺は王太子殿下とは違います」
「……?」
「全て受け止めます。どうか、狂うほどの愛を俺に」
ベナットの瞳に分かりやすく嫉妬が滲む。それに、アダルウォルファは目を瞬いた。
(昔話を知っているのね。まぁ、確かに殿下に恋をしていた時の私は凄まじかったと自分でも思うけれど……)
当時の自分を見ているようだと、アダルウォルファはベナットを見つめ返す。真っ直ぐなそれに、ベナットの方が耐えきれずに頬を赤に染めた。
「好きです!」
「知っております」
「ベナットと呼んでください」
「急ですね。まぁ、いいですけれど」
「良いのですか!?」
「えぇ、勿論。ベナット様」
自分で強請っておいて、ベナットは動揺したのか膝の上に置いていた手を結構な音を立てて机にぶつけていた。痛がる素振りを見せないのは、流石としかいえない。
「大丈夫ですか?」
「何のことでしょう」
ベナットが澄ました顔でそんなことを言う。
――――キャラ崩壊なんて認めない!!
不意に、先日会いに行った魔女の言葉が脳裏を過った。
地下牢に入れられても尚、彼女の主張は変わってはいなかった。「原作改変なんて信じられない!」「ちゃんとキャラ設定通りに動きなさいよ!!」これ一辺倒。
彼女にとっては、それこそが、それだけが、正義で理だったようだ。「ストーリー通りにルチナは、私は幸せになるのよ」と、まるで舞台上でスポットライトを浴びる花形役者を夢見るように瞳をうっとりと細めていた。
「どうかしましたか?」
ベナットの心配そうな声に、アダルウォルファはハッと我に返る。取り繕うように、笑みを浮かべた。
「ベナット様は、可愛らしいなと思っておりました」
「かわっ……!? 格好いいになるには、どうすればいいでしょうか」
「ふふっ、どうすればいいのでしょうね?」
ベナットが困ったように眉尻を下げる。
(彼を選ぶ気なんて最初からなかったのなら、別に拘る必要なんてなかったじゃない。殿下はルチナ一筋だったのに)
アダルウォルファは、あの夢に感謝していた。今現在、楽しい時を過ごせているのはあれのお陰であるのだから。
そして、ルチナを汚したあの女を許すことは生涯ないと思っている。
『今更! もう遅いのよ、何もかも!!』
『そんなことない!! やり直せる! 何度でも、その気さえあれば! やり直せるから……っ!!』
炎に囲まれた部屋の中で、それでもルチナはそう言った。綺麗事だったとしても、アダルウォルファにとってそれは、紛れもなく救いだったのだ。
漫画の中でアダルウォルファは倒れてきた柱からルチナを庇って下敷きになる。逃げろという言葉に従って、涙ながらに走っていくルチナの後ろ姿を見ながら彼女は(どうして、いつも気付くのが遅いのかしらね)と自嘲するのだ。
ルチナのやり直せるという言葉は、アダルウォルファに勇気をくれた。あの夢を見ても冷静でいられたのは、それが大きい。
アダルウォルファは紅茶のカップを持ち上げると、優雅に口をつけた。「ふざけないで。貴女が一番、ルチナを汚していると気付かないの?」そうあの女に言ってやった時の衝撃を受けた顔を思い出し、漏れそうになった嗤い声を紅茶と共に流し込んだ。
(後悔すればいいわ)
ベナットと目が合って、アダルウォルファは小首を傾げる。
「ご機嫌ですね」
「そうですか? 貴方ほどではないかと」
「では、俺と同じ気持ちになって頂けるように頑張りますね」
「どうかお手柔らかに」
降参だと眉尻を下げたアダルウォルファに、ベナットは嬉しそうに目尻を下げた。
「善処はしましょう。愛しています、アダルウォルファ」
ベナットとならばもう一度、恋に溺れるのも面倒ではないのかもしれない。アダルウォルファは早鐘を打つ心臓に、困ったような笑みを浮かべたのだった。
お読み頂き、ありがとうございました!
少しでも楽しんで頂けてると喜びます。