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第3話 桶狭間の戦いっ!

歴史小説は、簡単だ

年表を広げて書き写し、接続詞を入れるだけでよい

時代小説は、もっと簡単だ

20分にお風呂、45分に印籠を出せばよい

       ラーメン屋店長 コーウ・モントミ

岩塩の生産を軌道に乗せる間に、彼が力を入れた仕事はもう1つある。


甲斐の南にある隣国、今川領の遠江国内。


信玄は、主に天竜川流域における複数の国衆に対し、出来たばかりの甲斐のあか塩みどり塩を贈り物として送り付けたのだ。


戦国初期に遠江国は、駿河今川氏の侵攻を受けた。


今川義元の父親である今川氏親が、遠江守護・斯波氏、浜松荘代官・大河内氏を打ち破ったのだ。


これ以降、遠江国は今川氏の領国に組み込まれ、飯尾氏、天野氏、奥山氏、松井氏、井伊氏などの遠江の国衆は今川氏の傘下に入った。


飯尾連龍、天野景泰、奥山吉兼、松井宗恒、井伊直親・・・


歴史の動きを考えると、今、これらの国衆に手を付けておく必要があったのだ。


遠江国だけではない。


信玄の岩塩は、今川の半領国といえる三河国まで届いていた。


東三河の酒井忠尚屋敷には、数か月で1年間に使用する塩の2倍量もの岩塩が、周辺工作のために届けられたという。



永禄3年3月。


信玄の元に、岩塩を送り誼を通じておいた遠江の飯尾氏より食料物価が上がっていると便りが届いた。


「来たな。」


彼は、籠っていたヤマから飛び出すと、今川家からの使者を待つよう家臣団に伝えた。


果たして、数日もせぬうちに隣国より使者が来る。



 尾張は、元来、今川仲秋の守護任国である


 その末裔、今川那古野の絶えし後、義元が弟・今川氏豊、


 那古野城に在ったものを、織田信秀が道に反しこれを奪う


 織田陣営に囲まれる鳴海城、大高城の救援及び、


 那古野城の奪還のため、兵の援助をお願いする



当時、今川は武田・北条との間で甲相駿三国同盟を結んでおり、今川が軍事行動を起こす場合には、武田は、北条ともに援軍を出す支援が義務となる。


「心得た。後詰めは、武田にまかせよ。」


信玄は、ひざを打ち快諾した。


武田の援軍大将は、穴山信君であった。


穴山信君に伝えられた命令は、1つ。


「彼我の兵力差は大きいが、味方優勢に見えても、武田兵を今川より大きく離して距離を取り、後ろにつけ。戦功をあげようとは、絶対に思うな。」


というもの。



永禄3年5月19日。


合戦の際に、双方にいい顔をするのが、小土豪の知恵。


沓掛の地に住む土豪たちは、田楽ケ窪という窪地で休憩する今川義元らの本隊に酒や食料を献上する一方、織田方の簗田政綱に、義元の位置を知らせた。


どちらが勝ったとしても、土豪が沓掛での地位を維持するためである。


やぶれかぶれとなり、無計画に進軍していた信長の部隊は、偶然手に入れることとなったこの情報に歓喜した。


この時代の戦の通例であれば、早朝や明け方の戦闘開始が普通であるのだが、義元の現在位置が分かったなら話は別だ。


降り出した雨が、兵の足音を消す。


昼を過ぎた午後2時という常識外の時間の信長軍の出現が、影響したのかもしれない。


今川本陣は、この奇襲に対応できず防戦する一方。


信長馬廻衆の苛烈な攻撃を堪え切ることができず、やがて、その一角がボロボロと崩れはじめると、ダムが決壊するかのように一気に崩壊する様相を見せた。


街道一の戦上手といわれた義元は、毛利良勝の指を噛み切るなど奮戦するも、兵数で圧倒する軍の総大将が戦闘に巻き込まれる時点で、戦争として大失敗である。


義元は、その首級を相手に与えることとなった。


これこそが、日本三大奇襲に数えられる「桶狭間の戦い」である。


この戦いで、武田の援軍穴山部隊に損傷は、なかった。


ただし、その評判は、芳しくなかった。


そのためであろう。


桶狭間の戦いから1か月後、6月13日付今川家臣・岡部元信宛てに信玄が送った書状に「侫人の讒言があることを憂慮する」という文言が書かれることとなった。


今川軍に支援を行ったとはいえ、戦いにおける武田援軍の働きぶりが、戦後の今川家中において不満や不信感を抱かれていたのである。


武田家として、抗議をしておく必要があったのだ。


そもそも、「2万5千の兵力をもって2000と対峙した戦に負けたのは、そちらの責任だろ?」というわけである。


ただ、不信を抱いた今川家中の重臣たちは、正しかったと言わざるを得ない。


桶狭間の後、三河で松平元康が自立を図り、織田・今川双方と争い始めた。


今川の家督は子の氏真が継いでいる。


氏真は、家中の混乱の中よく家を治めたが、まずは、謙信の関東侵攻を受け同盟国・北条氏への援軍派遣の必要に迫られることとなった。


そして、松平元康の三河牛久保城攻撃による今川氏からの離反により、情勢は不安定化した。


三河は今川に味方する国衆と松平方のそれに分かれ、国を二分する紛争状態となったのだ。将軍・足利義輝や隣国・北条氏康による今川・松平の和睦斡旋の動きも虚しく、両者は、争いを継続させた。


この三河の不安定化は、遠江に波及する。


遠江国内、天竜川流域を中心に国衆が離反し、駿河今川氏への大規模な叛乱が起こったのだ。


井伊谷の国衆・井伊氏、引間城の国衆・飯尾氏、山香荘に割拠する国人・天野氏、奥山郷の国衆・奥山氏、二俣城の松井氏、附端城の堀越氏。


そう、信玄が岩塩を贈り誼を通じた国人たちが多くいる地域で騒乱がはじまったのである。


今川家中・・・駿河本国において、武田家への不信は増幅し、みるみるうちに高まることとなるのであった。


次話は、2月22日21時予定です

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