7月7日、七夕の夜。~夫婦喧嘩は牛も食わぬし、いつものことよ~
ここはとある街にある繁華街、そこにある一軒のクラブ。
そのお店で紡がれる、とある夜の御話です。
店内では会話の邪魔にならぬぐらいの小さめの音量でしっとりとしたBGMが流れ、今日もたくさんのお客様を素敵な天女たちが笑顔でおもてなししています。
「百合ちゃ~ん、もう1本スパークリング入れちゃうから~今度デートして~♡」
百合と呼ばれた若い天女は酔っ払いの中年客に手を握られ、ニヤニヤとした赤ら顔で迫られていました。
ですがまだまだ新人であった百合はドギマギし、先輩天女がするように楽しい雰囲気を壊さないように上手にかわすという客のあしらい方は難しく……。
なので笑顔のまま「えぇ~」と言って困った反応をしてしまったのです。
「彦星さん、今夜はもうそれぐらいにしときなさいよ? だいぶもう飲んじゃってるでしょ~?」
そんな百合の様子を見かねたこのお店の経営者であるママは助け舟を出そうと、百合が接客をしている卓へとやってきて自然と会話に混ざりました。
「ママ! いや~ぁ、ついね。若い娘と飲める酒は美味しくって♡」
「あら? じゃあ年寄りの私とはもう一緒に飲んでくださらないって事かしら。私なんてお邪魔かしらね~」
「そんなっ! 勿論ママと飲める酒だって美味いさ! 意地悪言わないでよ~」
「フフッ」
ママと呼ばれた年増の天女は百合の対面にある椅子に座り、酔っ払い中年客の彦星と可愛くジャレる様に会話をして更に酒を頼もうとしていた彦星を止めました。
その流れで彦星の手は百合の手から外れ、百合がホッとしているとママは百合だけに向かって目で合図をしてきたのです。
「明日は7月7日よ~? 彦星さんにとって年に一度の大切な日なんだから今夜ぐらいはお酒、少し控えた方が良いんじゃないかしら」
「あ~~~! そういえばもうそんな日か~。もう何百回、何千回と繰り返してる年1行事だからさ~、飽きたというか慣れたというか……」
彦星は頭をポリポリと掻きながら大きく溜め息を吐きました。
「楽しみじゃ――ないんですか?」
横で話を聞いていた百合は彦星にそう尋ねてみました。
「もう新鮮味もないし、会えていない間に浮気をしていないかって問い詰められる事もあってよぉ。正直ちょっと微妙な時もあるかな~。それでも長年夫婦やってるし、会いたくないわけでも嫌いってわけでもないけどよ~」
「何言ってるのよ。毎年毎年この日を楽しみにしてプレゼントを用意してるの前に話してたじゃない。今年もまた、用意してるんでしょ?」
「バッ――!!」
ママからの言葉に彦星はドキリと驚き、酔いのものとは違う赤い色で頬は染まり、照れくさそうに両手で顔を覆うのです。
「それ、言わないで~。ちょっと恥ずかしいんだからさ~ぁ」
「織姫さんだって毎年、自分の代わりに彦星さんの傍に居られるようにって服を仕立てて渡してくれるんでしょ~? 愛よね~♡」
彦星はいつも7月中旬頃に貰った服を店に着て来ては自慢してるのもこの店の年中行事となっている程なので皆ご承知のとおりであり、ママとのこの掛け合いも毎年のこと。
「いつもは何も言わないけど、さすがに明日はお酒臭いのもカッコつかないんじゃない?」
「うっ……そうだね。今夜はここらでもう帰るとするよ」
彦星の「帰る」という言葉を聞いたママはニコリと微笑みました。
「じゃあ会計してくるわね。百合ちゃん、お願いね」
ママはそう告げてスッと立ち上がり、卓ごとの伝票の置いてあるバーカウンターの裏の方へと歩いて行きました。
「彦星さん、顔がすごい真っ赤ですけど大丈夫ですか?」
「大丈夫、大丈夫。ちょっと暑いだけさ」
「冷たいお水入れたので……どうぞ! 酔い覚ましに」
「ありがとう。百合ちゃんは良い子だねぇ。うちの娘もそうだといいが……今頃どこで何をしているんだか――」
彦星は渡された水をグイッと飲むとそうポツリと溢しました。
妻とは年に1回しか会えない中で生まれた子供とも年に1回しか会えず、成人して巣立ってからは子供から便りも無くて彦星は寂しかったのです。
そんなちょっとしんみりとしてしまった空間に割って入るようにしてママが領収書を持って帰ってきました。
「はい、今夜のお代金」
「あぁ……代金ね。これで――いいかな?」
「えぇ、ちょうどね。ありがとう」
料金を払った彦星はスックと立ち上がり、百合に付き添われてママと3人で出口の方へ。
「今夜もありがとう。また来るわ。おやすみ」
「えぇ。寂しくなったらまたいらっしゃいな。皆で待っているわ。おやすみなさい」
帰っていく彦星に向かってママは挨拶を交わし、百合は何も言わずに少し恥ずかしそうに小さく手を振って見送るのでした。
「さ~、帰って寝るか~」
その翌日、彦星が目を覚ますともうすぐ昼餉の時間で若干二日酔いになっていました。
「あぁ、夕方には織ちゃんくるのに~!」
うっかりと遅くに目を覚ましてしまった彦星は急いで布団を片付け、軽く家の掃除をしてから風呂に入る事にしました。
掃除の途中にも何度も履きそうになりながら――。
「さすがに昨日は飲み過ぎたか……」
織姫と会えるのは毎年の事ですが、これが毎年の事です。
毎年反省をせずに同じことの繰り返しの彦星なのです。
ざぶりとお湯を被って頭から体から隅々まで洗い、サッパリとした状態で綺麗な服を着て気合を入れ直します。
「よしっ!」
全ての準備が整ったのは時間ギリギリ。
そこへ丁度ドアをコンコンと鳴らす音が聞こえてきました。
ドアを開けると――。
「いらっしゃい、織ちゃん!」
「久しぶり。彦星さ――ん?」
織姫は何かに気付いたように動きをピタリと止め、鼻をクンクンとひくつかせます。
「また――また深酒したわね? 何で毎年毎年、前日にお酒飲むのよー! お酒臭いっ!」
「えっ!?」
思い出したかのようにぶり返してくる二日酔いによる吐き気を彦星は必死で我慢して誤魔化していましたが無駄でした。
お風呂に入っても消えなかった口臭からの酒臭さに、今年もまたかと織姫は怒りだします。
「去年会った時、彦星さんはなんて言った? 来年は飲まないからって言ったよね? もうお酒臭い彦星さんになんて会いたくないんだけどっ!」
「だって――」
久しぶりに会ったというのにそこからは口喧嘩。
なかなか収拾のつかない所へ不意に彦星の育てている牛の大きな鳴き声が聞こえて2人はハッとします。
「もう……止めましょ。せっかく会えた時間を無駄にしたくないわ」
「そうだね……ごめん。ごめんよ。とりあえずお茶でも入れるね。座って待ってて」
「えぇ」
そこからはなんのかんのと、まるで喧嘩なんてして無かったかのように仲睦まじくこの一年あった事などをお互いに話したりしました。
「それから――織ちゃん。これ」
そう言って彦星が織姫に手渡した箱から出てきたのは星の形をしたキラキラと光を反射して光る簪。
「私からも――」
一方、織姫から彦星へと渡されたのは深い藍色で染められていて白くて小さな星が無数に描かれた天の川の流れる夜空を模した小袖。
「どうかしら?」
「勿論、世界一可愛いさっ!」
早速貰った簪を頭に付けた織姫は嬉しそうに微笑みました。
彦星も小袖を羽織り「どうかな?」と織姫に感想を求めます。
「やっぱり彦星さんには藍色が一番似合うわね~。より一層男前に見えるわ~♡」
和気あいあいとした雰囲気でそのまま一緒に料理を作り、夕食を食べて床の中へ。
織姫にとって普段は侍女に作らせる食事作りも、ここでは2人きりなので協力して作りました。
天才と謳われるほどに素晴らしい腕前を持つ機織り以外はちょっとポンコツな織姫ですがこの時ばかりはと一生懸命です。
「今年も来てくれてありがとう」
「夫婦ですもの♡ でも……もう会って早々お酒臭いのは嫌よ」
「――努力します」
なかなか寝付けない2人は布団の中で長々と話をし、気が付けば夜が明けそうです。
「あぁ、もう帰らなければいけない時間……寂しいわ」
「僕もだよ。でも織ちゃんにもらったこの小袖を着て、また1年仕事を頑張るよ」
「私も……この簪をつけて仕事を頑張るわ。またね」
夜が完全に明け、太陽が姿を現しきってしまえば天の川にかかったカササギの橋は消えてしまいます。
消える前に渡りきり、織姫が帰っていなければこの2人は年に1回どころかもう二度と会うことができなくなります。
今年も織姫が渡った所でちょうど橋は数十話羽のカササギへと姿を戻し、間に合ったと胸を撫で下ろしているとカササギは朝焼けの空へと羽ばたいていくのでした。