smoking boy
幼い頃、プリキュアの返信道具に憧れたのはなぜでしょう?
幼い頃、母親の化粧道具のコンパクトに憧れたのはなぜでしょう?
道端に落ちている煙草の吸殻には辟易するものですが…、それがアルセーヌ・ルパンの口元にあったとき、どうしようも無く胸が疼くのはなぜでしょう?
何かを身に着けること。例えば、長髪のかつらをかぶってみたり、有名アニメの格好をしてみたり、「自分ではない何か」に姿を変えることに対して、人は嫌悪感の裏側に「憧れ」を抱きます。
これは、煙草に憧れを抱いた少年の物語。
お楽しみください。
Smoking Boy
僕の好きな食べ物はカレーライスで、好きな色は赤。ペットなら猫派だし、朝は白ご飯に味噌汁でないと始まらない。高校の成績も悪くないし、劣等感を抱くような顔もしていない。僕と言う人間を車で例えるとしたら、少し値段の張る乗用車だろう。ブランド性は高くなく、安全機能だとか乗り心地とかが少し良いやつだ。
じゃあ、僕の父さんはどうだっただろうか。僕が父さんの血を継いでいるのだから、一〇〇パーセントまではいかないにしても、六〇、いや七〇パーセントくらいは僕と共通している部分があるのだと思う。
そう、信じていたい。
1
隣接するビルの間にできた、幅二メートルくらいの空間は、換気扇から出る臭いや、エアコンから出る熱い風で淀んでいた。
そんな中、僕は、中学時の友人であり今は髪を金色に染め上げて非行に走る倉本から、煙草の箱を受け取りながら「とんでもない奴に成長してしまったな」と思った。
語弊の無いように言うが、「とんでもない奴」は僕のことだ。
僕は箱のロゴがセブンスターであることを確認して、手間賃を含んだ千円札を倉本に渡した。
「美味しい仕事だな」倉本は腕に着けたアクセサリーをジャラジャラ鳴らしながら受け取り、着崩した学ランの内ポケットに入れた。「四〇〇円で調達した煙草が一〇〇〇円になるんだからな」
「嫌なら正規の値段を請求するぞ」僕は早速ナイロンの封を切り、一本抜いた。白い紙に詰まった葉っぱやフィルターの重みが手に吸い付くようだ。
倉本は首を横に振った。「いやいや、美味しすぎて、妙な見返りを疑ったんだ」
僕は煙草を咥えた。「お前は僕に頼まれた分の煙草を調達すればいいんだよ」
「はいはい。お前の高校だと世間体を気にするのもわかるよ」
倉本は内ポケットからライターを取り出すと、僕の煙草に着火した。
僕はゆっくりと息を吸い、空気を与えることで火をつける。ちりちりと赤い閃光がはじけ、煙がふわりと立った。
ここからだぞ。
僕は煙草を咥え直すと、ゆっくり、慎重に吸った。
「ぶっ!」その瞬間、喉から鼻にかけて吐き気がするような渋みが走った。「げほっ、げほっ、げほっ」
思わずむせる。煙草が口からすっぽ抜けて、コンクリートの上に落ちた。
「おいおい」倉本が拍子抜けする。「お前、吸えないのか?」
「吸えるさ」僕は学ランの袖でせき込みながら、涙目を倉本に向けた。「これから吸えるようになるんだ」
しまったな。倉本の前で煙草を吸うのは初めてだ。出来ると思ったのだが、練習が足りなかったようだ。
倉本の表情がどんどん呆れ顔になって行く。「俺は、今まで三回、お前に頼まれて煙草を調達したぞ。全部で六〇本だ。まさか、その全部を」
「ああ、吸った」
一口目だけ。
「お前、もう煙草辞めろ」倉本はコンクリートの上でまだ煙を上げている煙草をスニーカーの底で踏み消した。「もったいないから」
「ああ!」僕は思わず声を上げた。「まだ吸えるだろ!」
「吸えねえよ。今の見る限り。俺だってお前と関節キスなんて嫌さ。ボヤ起こす前に消しとけ」
取引を終え、さらには僕に幻滅した倉本は、「じゃあ、俺はこれで」と言い、俺に背を向けると、ひゅらひゅらと手を振りながら立ち去ってしまった。
ビルの裏という事もあって、一本の煙草から出た煙はまだ僕の周りに立ち込めていた。それをぱたぱたと手で払った。
身体がニコチンだとかタールだとか、有害物質を全力で拒否しているらしい。まだ口の中に苦みが残り、食べたものが胃からせりあがってきそうだ。
それでも僕は諦めきれなくて、二本目に自分のライターで火を点けた。だが、どうしても咥える気になれない。
結局、煙草が燃え尽きるまで僕は吸う事が出来なかった。
唾を吐きながらビルの裏から出ると西日が差しこんで思わず目を細めた。
僕は煙草を内ポケットに大切にしまうと、帰路についた。
2
「ただいま」
マンションの砂埃で汚れた扉を開けると、すぐに母さんの疲弊しきった声で「おかえり」と返ってきた。換気をしていないらしく、生暖かく、生ごみと柔軟剤を混ぜたような臭いが漂っていた。
すぐに窓を開けようとリビングに続く廊下を歩いていると、その空気の中を泳ぐようにして、母さんがリビングから這い出てきた。
「おかえり」
「ただいま」僕はもう一度言った。
昨日も遅くまで仕事をしていたのだろう。母さんの目は充血し、顔は崩れたメイクと脂で鈍くてかり、頬が少しこけていた。唯一部屋着に着替える気力はあったようだが、それは下のジャージだけで、上はワイシャツと随分奇妙な格好だ。
母さんは荒い息を立てながら立ち上がろうとした。「ごめんね、ずっと寝ていたのよ。すぐに夕飯作るわね」
「いいよ」僕は母さんを手で制した。「折角の休みの日だろ。僕が作るから。母さんはシャワーでも浴びて、着替えてよ」
「そう…、悪いわね」母さんはすぐに引き下がった。しかし、何かに気付いたのか、僕の学ランの臭いをスンスンと嗅ぎ、訝しげな顔をした。「煙草の臭いがするわ」
僕の心臓がバクンとはねた。
「ああ、中学の友達に会ったんだよ。そいつが吸う奴でさ」
僕は表情を変えずに言った。嘘は言っていない。
「煙草は嫌いよ」母さんは俺の学ランから顔を離すと、リビングに戻って行った。「そんな友達とは縁を切りなさい。面倒に巻き込まれてもいけない」と言い残して。
僕は誰にも聞こえない声で「はい」と頷いた。学ランのポケットに入った煙草の箱の感触を確かめる。その煙草越しに、心臓がバクバクと脈を打っているのがわかった。
ジャージとTシャツに着替えた僕は、フライパンに火を通し、
油を敷いて卵を割った。透明な白身が徐々に変色していくのを眺めながら、空気の煙草を吸ってみる。
こうやって軽く吸い込んで着火して、熱々のスープを飲むように、そっと、口の中を煙で満たす。燻された葉の甘みだとか香りだとかを味わって、ゆっくりと煙を吐くのだ。
そこまで想像でやった時、自分は何て馬鹿なことをしているのだろうと、情けない気持ちになった。
小学校の保健の授業からずっと「煙草は毒の缶詰である」、「煙草を吸うと寿命が十年縮まる」、「煙は絶対に吸ってはいけない」と言われた。黒ずんだ肺や黄ばんだ歯茎の写真を見せられ、それなのにあの自販機で販売されているものの矛盾については説明されず、ただ教育を受けてきた。
それでも尚、僕がこうやって煙草に憧れを持っている。いつからだろうか? それは多分、もっと前。義務教育が始まるよりももっと前に植え付けられた、抜きがたい強靱な記憶だ。
いや、僕は、煙草よりもあの人に憧れている。
3
僕が作れるのは卵を使った簡単な料理だ。冷凍のから揚げを丼ごはんの上に乗せ、その上に半熟の目玉焼きを乗せた。そして、マヨネーズと胡椒をまぶした。味は保証しない。ただ腹を太らせるための料理だ。
それをリビングのテーブルに座る母さんの前に差し出すと、母さんは寝ぼけ眼のまま、スプーンで黄身を崩し、黙々と食べた。
母さんはスプーンを持つ手を止めた。「簡単な作り方ね」
「不味かった?」僕は首をかしげる。
「美味しいわ」母さんは首を横に振った。「ただ、あの人を思い出しただけ」
そりゃそうだ。あの人を思い出しながら作ったのだから。
「血は争えないわね。私は怖いわ。あなたが、あの人と同じになってしまいそうで」
僕はちらっと部屋の隅の仏壇を見た。口角を上げて微笑む。「大丈夫だよ。僕はそんな風にはならないよ」
母さんも笑って、またスプーンを動かし始めた。「あなたはちゃんとした高校で勉強して、ちゃんとした大学に進学して、ちゃんとした仕事に就くのよ」
「うん、そうするよ」
僕はこくりと頷いた。
食事を終えた母さんは、リビングのソファの上で寝てしまった。
朝まで起きそうにないことを確認して、僕は煙草とライターを持って外に出た。マンションのパーキングブロックに腰を掛け、煙草に火を点ける。口には咥えず、赤い灰が地面に落ちるのを眺めていた。
「『あの人と同じ』」母さんの言葉をなぞるように口に出す。
僕が持つ父親の記憶はかなり少ない。ほとんど忘れていると言ってもいい。
母さんは、父さんをどうやっても忘れる事が出来ていないのだろう。
僕の父親が何者であるのか。母さんの断片的な話から察するに、多分、冒険家のような仕事をしていたのだと思う。そして、部屋の隅で埃をかぶった仏壇から察するに、もうこの世にはいないのだ。
幼い僕の目から見て、父さんはかなり大雑把な性格をしていたのだと思う。いつもボサボサの髪と、皴だらけの服を着て、今母さんが眠っているソファの上で鼾をかいていた。グータラしていると思いきや、数週間、あるいは数か月帰ってこなくて、やっと帰ってきたと思えば、またソファの上で鼾をかく。母さんが怒って「もっと家のことをして!」と言うと、卵と冷凍食品を掛け合わせた手抜きご飯を作ってくれた。
そして、その口にはいつも煙草が咥えられ、四、五歳の息子の前でもお構いなしで毒煙をぷかぷかと吐き出していた。
最低な父親だったと思う。母さんがずっと恨むのも無理はない。自由気まま、勝手に生きて、勝手に死んだのだから。そして、その最低の父親の血を引き継いで生まれた僕は、この頃似てきたらしい。母さんの僕を見る目に、時々「恐怖」が混じり、何とかして僕を父さんの要素を一つも持たない人間にしたいようで、前にも増して父さんを否定し、僕に全うな人生を送るよう、目の前にレールを敷き続けている。
だから、ぐれて煙草に興味を持ってしまった。と言えば嘘になる。
どれだけ良い高校に進学しても、どれだけ期末テストで良い点数を取っても、僕は母さんの敷いたレールの上から、ずっと父さんの姿を求めている。
父さんみたいに、なりたいのだ。
「……」僕は半分以上燃えてしまった煙草を吸った。当然、むせた。「げほげほ、げほっ!」
これは、雛の刷り込みのようなものだ。どれだけ最低な父親であろうと、僕は、その父親しか知らない。本能的に追従してしまう。
幼かった僕の頭を撫でて、豪快に笑って、煙をまき散らす。
その姿だけが、僕の海馬に焼き付いてしまっているのだ。だから、僕は非行に走ってまでして、父さんの記憶をなぞる。あのとき父さんがしていたように、かっこよく煙草を吸いたい。父さんのように、かっこいい大人になりたい。
この行為が遠回りだとわかっているけど、僕はこれを止められない。
今日も吸えない煙草を無駄にする。
父さんみたいにはまだなれていない。
僕はせき込んで涙が滲んだ目を空に向ける。
藍色の絨毯に、子供が宝石をばらまいたような空が広がっていた。
4
いつまで経っても煙草が吸えないのは煙草の種類の問題ではないかと思い、僕は倉本に頼んで、様々な種類のものを見繕って買ってきてもらった。
取引場所はいつものビルの裏。
「セブンスターは癖がないけど、タールが多いから少し重いかもな」倉本は手に持っていたナイロン袋から煙草の箱を取り出しながら言った。「辛いから、お前が吸えないのも無理はない」
五箱渡される。
「メビウスならセブンスターよりも軽いかな。ピースは安い方を買った。こっちの方がラムの良い香りと程よい甘みがお勧めだ」
倉本の詳しい説明を受けたが、よくわからなかったので、全部吸ってみることにした。
結果、全部駄目だった。
喉から肺にかけての粘膜に砂利でも塗されたかのような不快感が残り、しばらく咳と吐き気が止まらなかった。
「ほら、飲めよ」見かねた倉本が近くの自動販売機で水を買ってきてくれた。それを飲むことで、ようやく治まった。
落ち着いた僕は、「何でかなあ?」と深いため息をついた。
「吸い方じゃね?」倉本は僕の煙草を抜き取りながら言った。
「息が強いんだよ。火種が赤くなっているのがその証拠だ。こうやって、肺を使わず、口の筋肉で吸うんだよ」
そうやって倉本は火を点けると、いとも簡単に煙を吸い込み、吐いてみせた。「煙草は嗜好品だからな。辛味とか渋みが強いとアウトだ。甘みと香りを楽しみ、リラックスして吸うもんだよ」
自慢するかのような顔を僕に向ける。その手慣れた所作に、僕
は見入り、感嘆の声を漏らしていた。「すごいな」
だけど、父さんの姿とは程遠い。
「お前、何で煙草吸いたいの?」倉本は煙草を咥えたまま言った。
僕は、口ごもった。
「ただ『カッコいいから』とかはやめとけよ。喉と肺を痛めるだけだ。あと死ぬ」
そう言われ、ますます答えに困る。
僕の「煙草が吸いたい」という願望は、「父さんみたいになりたい」からだ。これは「憧れ」と同じだ。倉本の言う「カッコいいから」と何の違いもないのだ。
僕が口籠っていると、倉本は鼻で笑い、輪の煙を吐きだした。宥めるような声で言う。「まあ、程ほどにしとけよ。お前の高校、偏差値も高いし、校則も厳しいだろ。まあ、煙草は校則も関係なしに駄目だけど」
「お前に言われたくない」僕は、自分のことを棚に上げる倉本を睨んだ。
「いいんだよ。どうせ俺はお先真っ暗の身だ。だけど、お前は十分チャンスがあるだろう。あと二年我慢すれば手に入るものに囚われて、二年以降のことまでも無駄にしないでくれよ」
「じゃあ、なんでお前は煙草を吸い始めたんだよ」僕は口調を強めて言った。イライラしていた。「今したみたいに、味と香りを楽しむためなら、お前もあと二年我慢すればいい話だろう」
倉本の口がピクリと動いた。眼球が光を失う。それから、わざとらしく首をかしげて言った。「さあ、忘れちまった」
「何だそれ」
「じゃあ、俺はこれで」そう言って倉本は行ってしまった。逃げるような足取りだった。それでも、ちゃっかり僕から五〇〇〇円をふんだくって。
再び一人取り残された僕は、ビルの壁にもたれかかり、煙草に火を点けた。あいつの言った通り、口の筋肉だけで吸ったつもりが、相変わらず火種は薄暗いこの空間には明るすぎて、苦味と渋みの混ざった煙が立つ。
僕たちは、勘違いをしている。この毒煙を体の中に入れることが、大人であることの証だと。僕は父さんみたいになりたくて、あいつもきっと何かになりたくて、禁忌を犯すのだ。
僕は煙草をコンクリートの壁でもみ消した。
5
「どうして呼び出されたかはわかるよな?」
翌朝、登校早々職員室に呼び出された僕は、先生にそう言われた。
「わかりません」僕は一応恍けた。
先生は椅子に座り、苛立ったように机を指でトントン叩いている。良い話ではないようだ。となると容易に内容が予想できる。
「これを見てもか?」先生は右手に持った携帯の画面を僕に突き付けてきた。案の定、ビルの裏で僕と倉本が煙草を吸っている画像だった。「地域の人が撮影したそうだ。『高校生が煙草を吸っている』って」
やっぱりな。と思うと同時に、「しまったな」と心の中で舌打ちした。しかし、僕は表情を崩さないように顔に力を込めた。
「僕に、よく似ていますね」
「おい、ふざけるなよ」
バンッと机を叩く。僕は一瞬身を震わせた。周りで各々の仕事をしていた先生たちの視線が集中する。皆、気が気でない顔をしていた。なんだ、知っているのか。悪事千里とはこのことだなと思った。
「先生はショックだ。我が校の生徒がこんなことをしているなんて」
先生のわざとらしく嘆く声。
内ポケットに入れた煙草とライターがやけに重く感じた。
「なあ、何が不満なんだ?」先生は携帯を机の上に置くと、僕の両肩を掴み、前後に揺さぶった。「お前みたいな優秀な生徒がこんなことするには訳があるはずだ」
違う。
「先生はお前の力になりたい」
違う。
「友達関係か?」
違う。
「家庭の事情か? お前の家は母子家庭だからな」
「違う!」
違う。あの携帯の画面に収められた僕の姿。それは、僕の憧れた姿とは全く別のものだ。ただ、非行に走り、快楽に溺れようとする愚かな高校生の姿だ。
それじゃあ駄目だ。
「離してください!」
僕は強引に先生の手を振り払った。反射的に、守るように内ポケットの煙草とライターを学ランの上から掴んでいた。
「おい、まさか、今も持っているのか?」気付いた先生が奪い取ろうと距離を詰めてくる。
僕はじりじりと後退した。しかし、すぐに太い腕が伸びてきて、僕の手を払い、僕の学ランの上から煙草とライターの輪郭を確かめた。その瞬間、先生の僕を見る目が変わった。汚物を見るような、弱者を見るような、簡単に言えば侮蔑に近い目だった。
「どうなるか、わかっているよな?」静かに言われた。
「はい」僕は頷いた。
どうしてだろう。何故、皆、煙草に対してそんな目を向ける? 僕だって悪いことだとは分かっている。
だけど、幼かった僕の網膜に焼き付いてしまっているんだ。その口に咥えられた煙草と、この世の理屈や掟を全て丸め込んで笑う父さんの姿が。
この煙草を吸う事が、亡きものになった父さんの存在を忘れない為の唯一の手段だと、信じているんだ。
6
「本当に血は争えないわね」
学校に呼び出され、息子の非行と二週間の停学処分を言い渡された母さんは、家に帰った後、うんざりとした表情で言った。
「あの人も煙草を吸っていたわ」
僕は父さんがいつも横になっていたソファの上に寝転び、天井を見上げたまま頷いた。「うん、覚えている」
「いつも『子供の前では吸わないで』って怒っていたわ」
「うん、そうだろうね」
「冒険家だか、写真家だか知らないけれど。いつも何処か遠くに行ってしまう人でね。酷い時は三か月帰ってこなくて、帰ってきたと思えば、身体中傷だらけでね」
「そうなんだ」
「何度も止めたのに。私の忠告を無視するから悪いのよ。崖から落ちて死んだわ」
「うん、そんなことだろうと思っていた」
母さんは独り言をつぶやくように、ぶつぶつと父さんの話を語った。多分、こんな風に父さんの話をされるのは初めてだ。だから、ずっと白い天井を見ていた僕も、つい、母さんの方に目をやった。
母さんはスーツ姿のまま、フローリングに敷かれた絨毯の上で足を崩して座っていた。目が合う。僕に対して傷心しているような、それでも全てをわかりきって受け止めようとしているような顔だった。
「あなたも、煙草が好きなの?」
「違う」この質問に対しては、はっきりと首を横に振った。「好きじゃない」
僕は呼吸を整え、ゆっくりと口を開いた。「何度も試してみた。何度も火を点けて吸った。でも、一口目でむせた。苦味とか渋みのせいで、吐きそうになった。気分も悪くなって、死ぬんじゃないかと思う時もあった」
「じゃあなんで、止めなかったの?」
「見当違いだと思うけど、僕は、父さんみたいになりたかった」
その言葉に、母さんは困惑の色を浮かべた。「父さんみたいに?」
「うん、きっと父さんには、良いところよりも、悪いところの方が沢山あったんだと思う。母さんにとっては、ろくに子育てもせず、毒煙をまき散らす最低の男だったんだ。だけど、僕は、父さんが向けてくれた笑顔と、まるで父さんの為だけにあるような煙草しか知らない」
そんな風に、なりたかったんだ。と、僕は付け加えた。
母さんは俯いたまま何も言わなかった。しばらくして、肩が小さく上下し、すすり泣く声がした。「ごめんね」と、消え入るような声が僕の耳に届く。
「あなたに父親がいなくて、周りに馬鹿にされないように、必死で育てようとしたの。あなたが、寂しい想いをしないように、その余地さえ与えないように、必死に、あなたと接してきたつもりだった。だけど、あなたがあの人に似てくる度に、何処か遠くに行くんじゃないかと思い、怖かった」
母さんはしゃくり声を上げて泣いた。初めて、母さんの本心を知った。予想通りの答えだった。母さんは、僕の中から父さんを消そうとしていたのだ。わかりきっていたことなのに、イライラしてきた。
「うん、違った」僕は冷たい声で言った。「母さんがそうする度に、僕の父さんへの憧れが強くなった。周りが濃くはっきりしているのに、父さんだけが薄れていって、それが余計に、目立って、どうしようもなかった」
母さんはハッとして顔を上げた。そして、スーツの袖で涙を拭った。まだ充血した眼を僕に向ける。何かを覚悟したような、大人の目だった。
「あなたは、父さんみたいになれないわ」
「わかっているって、言っているだろう!」僕の声に力が入る。頭がカアッと熱くなった。
「だって…」
その時、母さんが放った言葉が、僕の高ぶった気を一瞬で鎮めた。
「あなた、笑っていない」
その瞬間、頭を殴られたような衝撃が走った。
母さんのその言葉は、僕が今まで、僕の中で構築した世界の全てをひっくり返す力を持って、僕を飲み込んだ。
僕は母さんを見つめたまま、自分の顔をぺたぺたと触った。脂汗でべたついて、少し熱を持った顔。強張って、まるで能面のように笑っていない。
「そうか、そうだよな」僕が父さんのようになれない理由がやっとわかった。
「最初から父さんのことを憎んでいたのなら、あなたは生まれていないわよ。私は父さんのあの笑顔に惹かれたのだもの。煙草は大嫌いだったけどね」母さんははにかんだ。
僕は、学ランの胸のあたりを掴んだ。もう、内ポケットには何も入っていない。頬が、目頭が、熱くなった。僕は、手順を間違えていた。「煙草」が父さんを構築していたのではない。誰かの希望になったり、心の拠り所になるような、「笑顔」が必要だったのだ。
煙草を吸う事は遠回りではなかった。近道だった。怠慢だった。本当のゴールではなかった。自分を棚に上げ、ただ、着飾っていただけだった。
「僕は、笑えるかな?」僕は、震える声で言った。「父さんみたいに。心が、温かくなるような笑顔で」
「さあ?」母さんはにっこりと笑って首をかしげた。「父さんみたいに、生きてみればわかるんじゃない?」
その瞬間、僕は泣いていた。頬を、熱い液体が流れ落ちた。それを必死に止めようと息を止めるが、涙はいっそう勢いを増して溢れた。
ごめん。ごめん。ごめん。ひたすら謝り続けた。
僕は、馬鹿だった。こんな簡単なことにも気づかなかったのだから。
今度こそ、笑うから。精いっぱい。姿だけで取り繕うのではなく、父さんが僕にしてくれたように、心の底から、誰かの幸せになれるように。
たった五年間の出来事で、きっとそれよりも触れ合う事は少なくて、でも、この胸が温かくなるような、優しさを、愛を与えてくれた。そんな父さんのように、僕もなるから。
だから、こんな僕をどうか、許してください。
7
あの日以来、僕は煙草を吸う事を止めた。あと二年待っても、あんな苦くて吐き気のするものを吸うのは真っ平ごめんだ。もう二度と吸うことはないだろう。
倉本にもそのことを伝えた。「賢明な選択だな。お前じゃあ、ただの金の無駄遣いだ」と言われた。あいつは煙草が趣味の一部になっていたのだから、煙草を吸わない奴にそれ以上勧める気もないらしい。
「だけど、金蔓が無くなるのは残念だな」
「ちょうど小遣いも少なってきたことだし、丁度いいよ」
「お、じゃあ、今度奢ってやるよ。停学で暇なんだろ。お前のへまのせいで俺も暇だからよ」
僕たちは、焼肉屋に行く約束をした。
家に帰ると、埃を被っていた父さんの仏壇がきれいになって、板チョコレートが供えられていた。その時やっと、父さんの好物を思い出した。
部屋に漂う線香の匂いを嗅いだとき、どこか清々しい気分だった。大して煙草なんか吸っていないのに、肺に詰まった汚れが全て落ちて、息苦しさが無くなったようだった。
そんな気分でずっといると、僕はある衝動に駆られ始めた。
これが、僕が父さんから受け継いだものだろうか。自転車でもバスでもいい。僕はこの暇な時間を利用して、何処か遠くに行ってみたくなった。
山に海に川に…。煙草の煙よりも旨い空気が吸いたくなった。
次の焼肉の時にでも、倉本も誘ってみよう。
あと、密かに始めた笑顔の練習の成果を試す時なのではないかと思っている。
完