ログ008 境遇
イスカの背は百五十センメほど、脇を歩くイオはそれよりも十センメは低い。
共に汚れた衣をまとい、わずかな荷だけを背負っている。
遠目には、魔物に襲われた村から身一つで逃げ出した姉弟にでも見えるかもしれない。
だが、弟分の少年が手にしているのは並みの市民は見たことも無いような高貴な装丁の書物であり、姉貴分の少女は、ここではないどこかを眺めているような瞳で少年の朗読を聞いている。
いずれも、通りすがりの旅人や街道商人が首を傾げるほどには奇妙な光景であった。
トボトボと歩く二人の姿に多少の憐憫の情を浮かべる者もいないではなかったが、近づいて目にしたその奇妙さに、皆、距離を空けてやり過ごしていくのだった。
イスカは最低限の探知の網を広げてはいるが、物語に没頭する余裕があった。
一方、イオの朗読の声は、徐々に艶と声量を失いつつあった。
「……声が、嗄れたか。」
「すみません、喉が弱くて。普段は、あまり人と話すことも無いので……」
「ちょうど章の区切りだ。もういい。」
「す、すみません。」
「謝るな。街道にも人が増えてくる。街道を歩くのに、擦れた声で物語の朗読などさせていたら、私の方が奇異の目で見られる。」
(さっきから、すでに奇異の目で見られている気がしましたが?)
イオは、疑問を口にしないまま、本を閉じようとして白金の栞に気づく。
植物の、透かし彫り。
「ワスルナ草、ですね。」
「……よく、知っているな。そうだ。」
イスカが、少し遠い目をしている。
イオは、その横顔を少し見上げて、黒に近い瞳を、綺麗だな、と思った。
(『気ノ管ヲ拡ゲ喘ノ息ヲ和ラグ、肺奥ノ炎熱ヲ抑エル』……たまたま、薬効のある植物だったおかげで覚えていたのですが、イスカ様には、思い入れのある植物なのですね。)
「そういえば、もうすっかりヨモツ鳶の縄張りから離れましたね。あとは街の外まで、一人でも大丈夫です。」
「そういえば、イオは、どこに住んでいる。駆け出しの探索者なら、どこかの安宿か?」
「……えーと、実は僕は、街の外で暮らしているんです。毛皮の臭いと、お金の節約のために、宿には泊まれていなくて。」
イスカは、首をひねる。
ヒトツリアは城塞都市で、壁の外部には住居など無い。
獣や、時には魔物の襲来があるため、多少の耕地に手を掛けないで済む作物がおざなりに育てられているだけで、納屋さえ見当たらなかったはずだ。
「街の外? どういうことだ?」
「最初は、路地裏の片隅で寝ようと思っていたんですが、そういう場所にも、先輩と言いますか、縄張りがあるみたいでして……。」
「いや、そういうことではなく……」
「それに、探索者でもないんです。僕にできるのは、近場の植物の採集だけなので、探索者ギルドの登録料を回収することも、なかなか出来なくて。」
イスカの場合、ヒトツリアの駐屯地に連れて来られて、そのまま勇者となっている。
探索者とは、訓練や遠征の支援で関わることはあったが、その詳しい仕組みは知らなかった。
「探索者でなくとも、素材の買い取りはしてもらえるのか?」
「ええと、その……ギルドには買い取ってもらえないのですが、知り合いの方が代わりにお金に換えてくれていまして……」
「モグリの探索者というわけか。」
(探索者の登録さえできない子どもに素材を集めさせて、商売をしている輩がいるのか。今日だって、一歩間違えれば、この子は死んでいた……。)
イスカは足を止め、腕組みをして考えを巡らせている。
ちょうどその時、後ろから、荷馬者が追い越していく。
まだ乾かない道で、車輪が泥を跳ね飛ばす。
イオが、イスカの少し前に出て、それを身体で受け止める。
「何をしている?」
イスカが、眉を顰める。
「僕はもうすっかり泥まみれですから、少しくらい濡れても大丈夫ですよ。」
「……そういえば、イオは、とても汚い格好をしているな。」
「えへへ、街に行くと、ちょっと恥ずかしいですね……。なかなか石鹸も使えないのです。それに、渋熊の毛皮の匂いで、どっちにしてもお店には入れてもらえませんし。」
「ふーん。よし、決めた。街まで、一緒に行くぞ。」
「あれ、よろしいのですか? 僕と一緒では、まだしばらく掛かりますけれど。」
「うむ。ちょっと、思いついたことがあってな。」
「分かりました、では街の外までご一緒に。」