ログ007 大切な本
イオは、ようやく呼吸を取り戻して、絞り出す。
「あ、ありがとう、ございます……。」
礼を言っても、少女は、表情も変えない。
聞こえなかったのかと、イオは呼吸を整えて立ち上がり、今度は声を張り、頭も下げる。
「助けていただいて、どうもありがとうございます!」
少女は、目を合わせることもなく、口にする。
「助けたつもりはない。」
「そうなのですか?」
(謙虚な方、なのかな。)
「ヨモツ鳶が狙う獲物は、人が食っても美味いものだ。」
(この人、獲物を横から攫うつもりだったんだ!?)
イオが反応に困っていると、無表情なまま、少女は首を少しだけ傾ける。
「今の私は任務中だ。うまく話せない。収穫が無いなら、私は行く。」
「は、はい。」
(この方は、勇者なのだ。……勇者は、任務中に肉を狩るものなのだろうか?)
イオは、緊張感を漂わせながら返事をする。
そのまま、少女は歩き出そうとする。
くるりと背を向けて、イスカは歩き出す。
(土産を、拾い損ねたな……。)
「あ、あの!」
渋熊の毛皮を被った、汚らしい子供が声を掛けてくる。
「なんだ。」
(臭いな。)
勇者の嗅覚は、生身よりも鋭く、当然、臭いものは臭い。
だが、危険につながる感覚以外にはあまり注意を払わない。
危険が無いと判断すれば、どんな匂いも、あまり意識に上がらなくなるため、平気といえば平気ではある。
(それに、ひどい格好だな。)
ズボンもシャツも、濡れて、染みだらけである。
イスカは思ったが、自分も五十歩百歩の姿であることには、気付いていない。
「もう一羽は、どうするんですか。」
「襲って来れば反撃するが、そうでなければ放置だ。この鳥は、獲物にはならん。そこの一羽も、麻痺させただけだ。」
(むやみに野の獣を殺すと、結構叱られるからな。)
「……じゃあ、一緒に行っても、いいですか。」
(臭くて、濡れていて、小さい。野良犬のような奴。)
「構わんが、ついてこれるか?」
「すいません、貴方は、勇者でしょうか。」
イスカは、コクリと頷く。
「でしたら、貴方が走り出したなら、きっと置いて行かれます。
独りになったら、おそらく、僕はあの鳥に殺されるでしょう。」
イスカは、思案する。
勇者は、王国を守るために戦っている。
一人一人の国民を守るような任務はあまりないが、国民を守るために任務からの帰投が遅れるのは、どのくらいまで許されるものだろうか。
魂の器がいっぱいになっている状態ならば、イスカは構わず帰ろうとしたであろう。
圧縮された魂は、任務のことを最優先する。
だが、今は器に多少の余裕があり、任務以外のことを考える意識もあった。
「もう、ヒトツリアまでは遠くない。一緒に歩いてやってもいいが……」
「僕にできることでしたら、何でもします! どうか、お願いします。」
必死の形相であり、懇願の声だった。
ふうむ。
(何でも、か……。簡単にそんなことを口にしてはいけないと、思い知らせてやろう。)
イスカは、ふと、思った。
(この子供は、案外悪くない声をしている。)
「お前は、文字が読めるか。」
「はい。」
「では、この本を朗読しながらついてこい。」
イスカは、肩掛けの袋から、美しい装丁の本を取り出し、子供に差し出す。
「朗読、ですか。」
少年は、明らかに高価そうな本を受け取って、戸惑いを隠さない。
返事を待たずに、イスカは歩き出している。
「そうだ。任務から解放されたら、本を読むつもりだった。
帰りが遅くなるのだから、その分、お前が読め。」
イオは、薬術を学ぶ過程で読み書きも身に付けてはいたが、娯楽の本などというものは身の回りに無かった。
吟遊詩人の歌でも真似られたならば、国造りや勇者の冒険、魔王の暴虐を歌い語ったりするのだろうが、そんな経験も無い。
とにかく、表紙を開いてみた。
(うわぁ、この本、普通じゃないぞ。魔道具なんだ……)
自分の手の汚れが気になっていたものの、この本の紙は、不思議な光で覆われていて、泥も水気もまったく吸わない。
(お師さまの工房にも本はたくさんあったけれど、大事な図鑑でも、こんなに綺麗な表紙じゃなかったなあ。)
「……この本は、素晴らしい作りですね。」
イオが口にすると、少女は振り返り、初めてイオのことをゆっくりと見つめた。
「……分かるか?」
「え、ええ。こんな風に、汚れない本なら、外にだって持っていけますね。それに、とっても、美しいと思います。」
少女は、半眼になり、尖った口が、一方に寄っていった。
「……分かるんだな。」
何か、頷いている。
「よし、読め。私は、イスカだ。」
何のことかはよく分からなかったが、イオは分かる奴だと認めてもらえたらしい。
「あ、はい、イスカさん。僕は、イオと言います。では、読みますね……」
二人の道中が、始まった。