ログ005 勇者
勇者の体は、魔素から出来ている。
魔素は、活動するに従って消費されていく。
危険な魔物を狩るか、高価な魔石を手に入れるか、魔素の濃い場所に赴かなければ、魔素を補給することはできない。
単独行で、安定して魔物を狩ることは難しい。
魔物には、種類によって様々な特性がある。
手持ちの装備や術で相性の悪い相手には、ひどく不利な戦いになるが、獲物を選んで戦えるとは限らない。
直接に魔素を補給できるほど魔素の濃い場所は、魔物の数も多く、強い個体が棲んでいる。
魔素が減れば減るほど戦力も低下し、結局身動きが取れなくなる。
残された道は、魂の圧縮度合いを増すことしかない。
強い魂の圧縮である「蒸溜」や、選択的に魂を削る「濾過」の術を施された勇者は、代償として過去の日常生活の記憶の多くを失う。
任務から帰れば、魂は圧縮から解き放たれて、また新たな記憶が積み重なっていく。
しかし、勇者の身体には、食欲や性欲のような本能的な欲求が薄い。
欲求が無ければ、好奇心も執着心も生まれない。
他人との関わりや新たな体験がなければ、当然、印象的な出来事も少ない。
いったん空疎になってしまった魂は、なかなか埋まらない。
過去と切り離された断片の記憶しか無いのでは、人は、強い意志や感情、動機を持たなくなる。
蒸溜や濾過を繰り返すごとに、戦うこと以外、人格さえもぼんやりとしたものとなっていくのだ。
イスカの脳裏に、駐屯地の「安息室」の光景が思い浮かぶ。
誰とも会話をするでもなく、植物のように安楽椅子に横たわる「歴戦の」勇者達。
戦いの場に出れば、凄まじい反応速度で苛烈な技を振るう。
純粋なる戦士、と呼ばれていた。
それにしても、と今回の探索の終わりを思い返す。
足場の悪い急斜面で、飛行する魔物に遭遇した。
驚いて足場を踏み外した精霊術師が濡れた岩から滑落。
助けようと飛び出した剣士が、その後を追うように滑落。
判断に迷い棒立ちとなった重戦士も、魔獣の一撃で裂け目へ転げ落ちていった。
早いうちに敵の接近を察知し、気配を潜めていたイスカだけが、残された。
戦力以前の問題だ。それでも勇者か、と呆然としたと言ってもいい。
(馬鹿馬鹿しいにも程がある。)
重戦士は、怪我を負ってはいるが、生きていた。
裂け目の下で、うろついているようだった。
ようやく事態を把握したらしく、魔物を挑発する咆哮を上げていた。
緩慢な自死ではあるが、せめて辺りの魔物でも狩って、獣の魂を稼ごうということか。
(やれやれ。)
死ぬまで稼ぐというのなら、その成果を得た時点で改めて魂憶を回収しなければならない。
最低の気分だったから、陰ながら支援する気も起こらない。
ふう。
一息ついて、イスカは、読書をすることに決めた。
適当に術を放って空の魔獣を追い払うと、岩の窪みに座り込む。
肩掛けの袋の中から、掌ほどの本を取り出す。
下の勇者が死ぬまでは、気兼ねなく読書に耽ることが出来る。
姿勢を整え、お気に入りの一冊を開く頃には、イスカの表情はすっかり緩んだものとなっていた。
曇天から霧雨が舞い落ち始めても、その紙は、少しも濡れることが無い。
真珠のように仄かに輝きを帯びる外装、極々薄い紙を用いていながら少しの皺も撚れも無い仕立ては、単なる紙では成しえないもの。
好きな本を買える。
それだけでも、かつての田舎の小娘には望外の喜びだった。
今は、本当に気に入った物語を、綺麗な魔道具の一冊に仕立ててもらっている。
そうすれば、どんな場所でも、持っていける。
いつでも、読むことができる。
これは、勇者になって良かったと心底思える事柄だった。