ログ003 ヨモツ鳶
常ならば、イオは決してヨモツ鳶に近づいたりなどしない。
お師さまの教えもあるが、幼い頃、ヨモツ鳶が血まみれの子鹿を抱えて林の中へ飛んでいくのを目の当たりにしたことがあるからだ。
赤い夕陽に照らされた子鹿の、ぐったりと垂れ下がる頚と力なく伸びた四肢の輪郭は、イオの脳裏に焼き付いている。
(ちょっと良い感じの収穫が続いたからって、足元しか見てなかった。
僕は、なんて間抜けなんだ……。)
唇を噛む。
イオは、この場所には半年ほど前にも採集に来たことがあり、その折には特に危険な生き物は見当たらなかった。
頭上のヨモツ鳶も、濃いもやで視界が妨げられていなければ、もっと早くに警告の声を上げていただろう。
危険な猛禽の繁殖期と、濃い朝もやという二つの条件が、たまたま重なっていた。
しかし、季節や天候によって、気を付けなければならない事柄が目まぐるしく変化するのは、野外で活動する者には当然のことだった。
(単なる不運と片付けてはいけませんね。僕の未熟さが蒔いた種です。)
イオは、静かに息を吐いて、考えを巡らせていた。
(さて、どうしようか……。)
ヒー……リョリョ……。
先ほどよりも短く、少し甲高くなった鳥の声が、木立に響く。
お師さまも言っていた。
一度でも巣に近づいた者に、奴らはしつこいと。
敵ではないとアピールしたところで、通じる相手ではない。
イオは、手近に落ちていた木の枝を手に取る。
これを使って、何とか牽制しながら、障害物を伝って逃げる。
それくらいしか、案は浮かばなかった。
(せめて乾いた布でもあれば、松明のようにできたかな……。)
イオは、探索や狩猟を生業とする者ではない。
ろくな装備も無いままに、薬術師の初歩の知識をもとに、見様見真似で採集を行っている。
それでも、これまでは、獣除けの毛皮でやり過ごしてきた。
クロシブ熊は、毛穴から強い刺激のある脂を分泌する。
長い間に毛皮に染み付いたその脂は、味も臭いも酷いもの。
他の獣は、近づこうとしないのはもちろん、抜けた毛が身体に付くだけでも、嫌がって水に入るという。
その毛皮を頭から被っているイオは、町への立ち入りを制限されるほどの悪臭を代償に、ほとんどの獣からは獲物と見られないですむのだ。
イオは、上空の一羽を視野に入れつつ、頭上の一羽からゆっくりと距離を取っていく。
そろり、そろりと後ろ向きに歩く。
後ろ手に延ばした木の棒で、背後を探りつつ。
狩りの場面は、何度か目撃している。
(ヨモツ鳶は、空へ上がっていく時はゆっくりだけれど、獲物を襲うために降りてくるときは、本当に速い。目を離しちゃ、いけない。)
コン。
背後で、棒が音を立てる。
次の木まで、たどり着いた。
背中を針葉樹に押し付けると、太い幹が頼もしかった。
(こうやって木の近くを移動していけば、上空からは、簡単には狙えないはず。)
ふぅ、と息を吐いたところで、枝に止まっていたはずの一羽が、宙を舞っているのに気が付いた。
え、と口を開けたまま、目を丸くする。
そのヨモツ鳶は、枝の上で膨らませていた羽毛を、今は縮めていた。
小さくなった体と、視線に対して直線に近い飛行経路。
身体が弛緩する、息を吐ききったタイミング。
羽毛で体の大きさを変えることによる、距離感の錯覚。
ヨモツ鳶は、狩猟獣としての優れた習性を、幾つも備えていた。
イオは、手に持つ枝を慌てて持ち上げていく。
しかし、体勢が悪く、力は入らない。
鋭い爪が、その首筋へと向けられていた。