ログ017 資料室
「君がイスカか。ついておいで。」
イスカは、もう精霊術の訓練からは外れている。
ウェーリという男とは、訓練を受けたことも、直接話したこともなかった。
眼鏡が印象的な、やる気のあるのか無いのかよく分からない男である。
取り柄と言えば、子どもに対しても、威圧したり見下したりしないことくらいか。
イスカは、そんな感想を抱いている。上から目線である。
そして、それが表情にも表れていた。
本人は気付いていないが、叩かれる原因の一つだった。
案内された先は、資料室。
駐屯地の資料室には、精霊術からパーティーの連携戦術、周辺の地形や魔物の知識など、勇者としての活動を支援する文献や地図のような資料が、多数収められていた。
イスカも、何度か連れてこられたことがある。
精霊術の基礎の教書、勇者についての手引、回収者の心得。
うんざりするほど繰り返し読まされ、暗誦を間違える度にやり直させられたこともある。
補習授業の名目の、嫌がらせとしか思えなかった。
「何ですか。私がなっていないから、また基礎から学びなおせということですか。」
「いや。君には、こっちを紹介しておこうと思ってね。」
ウェーリが連れて行ったのは、資料室の片隅。
薄っすらと埃が溜まり、しばらく人の触れた気配のない書列だった。
イスカは、背表紙を眺める。
見慣れぬ題字が、並んでいた。
「ウェスタリア王国戦記(壱)」「ウェスタリア王国戦記(弐)」……「ウェスタリア王国戦記(拾参)」「剣王之記」「勇者列伝」「聖剣伝承」……
「これは……?」
「王国の記録……、一種の史書だね。
ここの仕事柄、軍事に関わるものに偏っているが、この半世紀、この国は戦争しかしていないから、戦史が歴史そのものとも言える。」
史書。
イスカは、そのようなものを読んだことが無かった。
里で使っていた文字は、実用のためのごく限られたもの。
里長や役人はいざ知らず、村人も最低限の文字しか読めない。
里の歴史は、年寄りから話に聞いているだけだ。
精霊術の教書を読むために、勇者の候補となってから文字を教えられた。
しかし、訓練で指示された以外の書物は、眺める機会も無く、意識もしていなかった。
「歴史……。昔のことを学んで、どうするのです? 私に、学者にでもなれと?」
「歴史は、学問のためだけのものではない……と言いたいが、今のこの駐屯地で、史書の類を繙いているのは、僕ぐらいのものだな。単なる趣味だ、学問ですらない。」
「はあ。それでは、趣味として、史書を読めと?」
「まあそうなんだが、必ずしも史書として読む必要はない。」
「どういうことです?」
「君に足りないのは、物語だ。
人間が、一人ひとり持っている物語、それに自分自身のための、物語。」
「ちょっと……、何を言っているのか、分かりません。」
何だろうか、この男は。
言葉だけでなく、イスカの目付きも、そう語っている。
ウェーリは、少し目を逸らしつつも、棚から一冊を取り出した。
「……うん、まあ。ともあれ、まずはこのあたりでどうかな。」
イスカは、「勇者列伝」と記された、古めかしい本を受け取った。
それほどの厚みはない。
開くと、かつての勇者の挿絵と名前、それに簡単な功績が年代と一緒に書かれている。
「昔の勇者達ですか。」
「そうだね。最初の頃の勇者は、歴戦の強者ばかりだった。数も少なかったし、武勲を残したということでこうして本にもなって王家にも献上されている。」
「勇者になる前のことも、載っていますね。」
「王国の兵士として戦い、四肢や臓を失って、もはや精霊術でも治療できないほどの状態となって、それでも魔物と戦うためにと、魔道具で作った体で立ち上がった。
そういう物語になっている。」
「今の私達と、ずいぶん違います。」
「うん、いいね。」
ウェーリは、怪訝な表情を浮かべるイスカの顔を覗き込んだ。
「文章を読んで、文章の外の世界のことや、自分自身のことと結びつけて思いを馳せる。そういう読み方を愉しめるようなら、君には読書の素質がある。」
イスカは、目線も上げずにその頁を眺めている。
「読書の素質、ですか。まだ、愉しいのかどうか、分かりませんけど。」
異議や苦情を申し立てながらイスカが読み進めていく間、ウェーリはぽんぽんとそれに応えている。
疑問に答え、背景について補足し、意見を交わし、感想を静かに聞いていく。
情景を想像しながら、丹念に文章を読む。
イスカにとって、初めての体験だった。
ふと思いついて、イスカは、途中まで読んだ書を、もう一度最初に戻ってみた。
簡潔で無味乾燥な記述だったはずのその勇者の記事は、戦場を駆け回る、一人の武辺の男を描いた物語になっていた。
「この勇者の伝記には、かいつまんでそれぞれの働きが記録されている。
回収者の仕事は、魂の記憶を、運ぶだろう?
君の中には、何十巻の書でも描き切れない、勇者達の物語を収めて運べるんだ。
凄いことだと、思わないかな……」
ウェーリは、訓練の講師というよりは、教育者であった。
イスカに、物語の楽しみを教え、回収者という役割の大切さ、やりがいのようなものを伝えようとしたのだろう。
だが、この日の体験は、おそらくウェーリが想定していたのとは違う形で、イスカの中に実を結ぶことになっていく。