ログ011 涙の理由
少年の目から、涙が溢れ出した。
「う、ううう……。」
ぽたぽたと涙が滂沱してテーブルを濡らしていく。
温かだった過去の日々と、今日までの過酷な日々が、イオの脳裏を無数の断片として駆け巡っていく。
どうしようもなくイオの心を揺り動かすのは、喜びや安らぎの気持ちだけではなかった。
「お師さま…… お師さま……」
慌てた顔のイスカは、立ち上がり手を伸ばして、イオの額にそっと掌を当てる。
「どうした、イオ。なぜ泣くのだ?」
「あぅう、ええと、満腹なのが、嬉しくて、身体の温かさが、幸せで、でも、でも……。」
イオは、想いを口にするのを逡巡している。
イスカは、姿勢を正し、真剣な顔でイオの言葉を待つ。
嗚咽は止まったものの、簡単には、口が動かない。
はぁぁ。
深く息を吐いて、やっと語りだす。
「……半年、採集の真似事をしてきました。お師さまの教えを繰り返し、復習しながら。苦しい時は、お師さまのように立派な薬術師になるのだという、そのことだけを想っていました。
……でも、この料理を食べたら。」
イスカは、じっとイオの言葉に耳を傾けている。
「今の採集の日々をどれだけ重ねていっても、薬術師になるための道のりは、余りにも遠いということが思い知らされてしまって。」
半年働き続けても、蓄えなど皆無。今日のこの食事代とて、とても手が届かない。
当然、学院の門を叩くどころか、一冊の薬学書を手にすることさえ、全く目途が立たない。
そんな現実に目を瞑って歩いてきた毎日。
湯浴みと温かな食事をしたことで、平穏な暮らしを送り、何かを学ぶという機会が、どれ程今の自分から遠い贅沢なものであるかが、残酷なほどに明らかになってしまったのだ。
「ご馳走になっておきながら、お恥ずかしい姿をお見せしてしまいました。申し訳ありません。」
頬を赤くして目を伏せるイオの姿に、イスカは奇妙な顔つきで目を向けていた。
「……いや、別に不快ではないし、恥じることはない。」
(むしろ……いや)
イスカは、腕を組んで考えを巡らせる。
「薬術師を目指すのは、貴族の娘や三男四男、あるいは家業で医術に携わる者が多かろうな。
教会にも薬術を施す部門はあったはずだ。教会の孤児院から、奨学の資金を得て学院に進む者もいるとは聞く。
君は賢い。教会を、訪れてみるのはどうだ。」
イオは、顔を横に振って答える。
「お師さまは、教会に目を付けられ、この都市から追われてしまったのです。私は、教会の門をくぐることなど、とても赦されません。」
(なるほど、「異端」か……。)
教会は、勇者の術を司る。
勇者の術には、機密が多い。
すなわち、善かれ悪しかれ、公には出来ないことが行われている。
誰にも知られぬ真の機密もあれば、知ったとしても表立って口に出さずにおけばよい程度の「公然の秘密」もある。
(お師さまとやら、高潔の者であったのか、それとも知ってはならぬ何かを知ったのか……。)
そして、追放された師匠の背中を追いつつこの都市に留まるとなれば、並の手段では薬術師となることなど出来まい。
「事情は分かった。確かに、今のまま採集を続けていても、君の目標が実現する日は永遠に来ないだろう。」
イオの頬は強張っているが、目の力を失ってはいない。
「といって、誰かの気まぐれで学資を得て、それで先に進むという選択も、出来ない難儀な性格なのだろう?」
「施しを受ける、理由がありませんから……。」
(やれやれ。)
イオも、目をつぶって他人からの支援を受けることが出来ていれば、もう少しまともな暮らしをしていたはずだ。
異端の弟子を「転向」させられれば、教会の人間にとっては単なる追放よりもプラスの評価になる。
だが、その道は選べない、そういうことだろう。
「やれやれ。それじゃあ、ほんの少しだけ、力を貸すことにしよう。
今日までの君の努力に対して、今までに与えられた見返りは、少々不足しているように見える。まずはそいつを、精算しに行こうじゃないか。」
「え?」
イオは首を傾げていたが、イスカはグラスに残った最後の果実酒を飲み干すと、伸びをしながら立ち上がった。
「イオ、採集した薬草の納品先へ、連れて行ってくれ。」
「あ、はい。今朝は、珍しくナルキサ草の株も採集できたので、少しは喜んでもらえると思います。」
店に預けてあったイオの荷物を回収すると、二人は薬屋へと向かうのであった。




