義民の末裔 その九
十月二十三日、藩は百姓たちからの誓願項目、十八ヶ条(実質は二十ヶ条)に対する回答を行った。一揆の直接の引き金となった、百石につき一両三分の追徴課税は撤回されたものの、その他の条目に対する回答は玉虫色の回答となり、百姓たちの不満は残る回答となった。更に、家老たちは百姓方が一揆に先立って誓約した神文を奪取すべく暗躍した。領内を二つに分け、それぞれの地域に二名ずつ侍を派遣して、言葉巧みに、名主、富農層を説き伏せ、神文を奪い取ったのである。
更に、【頭取たちを帰すから、この誓書に血判せよ】(『岩城百姓騒動記』)と、次の文言が入った誓書まで用意した。【日本六十余州の大小の神々、勿体無くも、熊野牛王に誓いまして、このたびの騒動は狼藉であると認めます。今後はいかように仰せ付けそうらえども、一言もいやとは申しません。この旨、村々の百姓、おのおの血判を押して誓います。そして、頭取たちに関してはお上でご詮議の上で、死罪とするも文句は申しません】(『磐城九代記』)と、神に誓う形で今回の騒動を詫びる誓書を書かせ、尚且つ、血判まで押させたと云う。信仰心が強い百姓たちは熊野神文という誓書まで書かせられた恐ろしさに心底恐懼し、以後は藩に協力的な名主、富農に唯々諾々と従うこととなった、と伝わっている。藩の武士たちが百姓支配を徹底させるために、このように、神仏まで利用した、ということには暗然たる思いを抱かざるを得ない。このようにして、百姓たちの団結は脆くも崩壊していった。今回の一揆に反感を持ち、巻き返しを図りたいと思っていた名主、富農層と、今回の一揆を発生させてしまったことを重大視して、みせしめを徹底させることにより、一揆の再発防止を徹底的に図りたいとする藩と、両者の利害関係、思惑は完全に一致していたのである。
大きく振られた振り子は大きく戻ろうとする。それは、革命と反革命の動きと似ていた。
しかし、捕縛されて獄舎に繋がれ、容赦のない拷問にさらされて、自供を迫られた頭取たちは見事な男たちだった。取り調べにも頑強に耐え抜き、頭取の名を問われても一言も口を割らず、一揆の檄文を取り纏めた者に関しても、知らぬ存ぜぬを通した。
中でも、最高指導者と目された武左衛門、長次兵衛の二人は、【百姓たちは、今後七年間にわたり取り立てられる、百石につき一両三分の夫役金は一年たりとも上納することは出来ません。百姓たちにとって七年間の上納はまことに難儀なことでありますので、お取り止めいただきたく、お願いのため集まったところ、何分大勢のことですので、中には勢い余って、酒を呑み、狼藉をはたらいた者もございまして、残念なことと思っております。他に申し上げることは一切ございません】(『磐城九代記』)と繰り返すのみで、【私たち二人が今回の頭取であることは間違いございません。その他の頭取は一人もおりません】(『磐城九代記』)と頭取は我々二人のみと主張するばかりであった。
そして、他の者も責め苦に耐え兼ねて、口を割るようなことは一切無かった。
冬休みとなり、私はいわき市の実家に帰った。久し振りの自宅でのんびりと寝そべっていると、母が電話だよ、と声をかけてきた。誰だろう、と電話口に出てみると、佐藤の元気な声が聞こえてきた。今、平駅に着いた、こちらに出て来れないかと訊く。一時間ほどかかるが、良ければ行くよ、と返事した。そして、私たちは駅前の喫茶店でほぼ一ヶ月振りに会った。話はいつもの元文一揆の話になった。
「この一揆の檄文を書いたのは、一体誰だったんだろうか」
私の問いかけに佐藤が応じた。
「請願書を筆記したのは、狐塚村の藤三郎さんとなっているが、請願書自体の文章を作った人間は判らなかったらしい。藩としては、拷問にかけて、文案作成者が誰であるか、調べたらしいが、誰も白状しなかったらしい」
「鎌田山に漂った『一抹の妖気』が書いた、のかな」
私の冗談に佐藤は大きな声で笑った。私は続けた。
「しかし、立派だったのは、何と言っても、武左衛門さんと長次兵衛さん、だよな。私たち二人がこの一揆の首謀者で、他には誰もおりません、となんぼ拷問で責められても、他の者の名前は一切口に出さなかったと云うものね」
佐藤も大きく、頷き、少し眼を潤ませながら言った。
「一揆では、若年故の判断の未熟さを示したものの、男としては実に見事な、潔さを見せている。俺は、この武左衛門さんをほんとに誇りにしているんだ。これまで、少し男らしくないこともあったけど、これからは、肝心のところでは、先祖の武左衛門さんのように、潔く振る舞いたいと思っているんだ」
一瞬、私は真智子のことを言っているのかな、と思ったが、佐藤には何も言わなかった。
真智子のことを佐藤に話しても、何にもならない。そう、思った。
取り調べが一向に進まないという状況の中で、百姓たちの中に、いつまで待っても釈放されない頭取たちを奪取しようとする不穏な動きが出始めてきた。また、幕府から家中取り締り宜しからずということで、備後守政樹が叱責を受けるという事態も起こった。
ことここに至っては、ということで、城代家老の内藤治部左衛門は自分も含め、今回の責任を取る形で、藩関係者の処罰含め、次のような布告を行って、この一揆事件の収束を一挙に図ろうとした。
今度の夫役金は免除する。(夫役金の免除)
諸運上金の取立も一時免除する。(諸運上金の取立中止)
その他の願いの趣きは調査の上考慮する。(貢租の二割五分引下げ)
一揆が起こった責任は当方にも存する故、相応に処罰する。
(内藤治部左衛門以下十七名のお役御免、隠居及び閉門、追放といった処罰であった)
但し、掟を破った百姓総代は厳重に処罰するということも布告した。
「意外なのは、ずる賢く立ち振る舞ってきた内藤治部左衛門が殊勝に振舞ったことだよ」
と、佐藤が言った。
「幕府から主君が叱責されることとなり、腹をくくったんだろうな。喧嘩両成敗ということで、自分以下、藩士多数をお役御免、閉門、追放、隠居という処分をしたと史料には書かれているね。でも、百姓側は十名も死罪・獄門になっているよ。治部左衛門殿は隠居だけだったとか。弟は浪人させているし。何だか、他人には厳しく、自分には優しい、といった感じが否めないな。これは、僕の僻目かも知れないけど。でも、史書を見る限り、自分を厳しく律したというニュアンスは伝わって来ない」
「藩主の一族であり、藩主の次に偉い人だもの。藩主以外は誰も強くは言えないさ」
と言う佐藤の言葉に私も同意して言った。
「それに、藩主よりも年長であったと思われるから、一族の城代家老に対しては、藩主も強くは言えないさ。確か、藩主政樹は三十二歳で、お父さんは何かの理由で廃嫡されている人であるから、本来なら、藩主になれる人でも無かったんだ。そんなこんなで、内藤治部左衛門さんは、自分への処分も見かけ上は必要ということで、心の中では舌打ちしながら渋々隠居したのかも知れないな」
佐藤は、どうも武藤は必要以上に内藤城代家老に厳しいなあ、というような目をして私を見ていた。