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ファンタジスタ・ガールズ

 第三章 

 【栞】

 中学に上がってからの最初の試合は、フィールドのサッカーではなく、フットサルの試合で、しかも惨敗だった。

 皆が自分の為に入ってくれたフットサルチームだというのに、当の自分がチームを勝利に導けなかったことに、苛立ちを隠せなかった。

 練習試合後、翌週から練習は再開された。

 練習内容は、いつもとほとんど変わりがないのだが、香織が練習に来なくなってしまったのである。

 七月は学校の期末テストがあるから、それが原因かもしれない。事実、テスト一週間前は葵も歩も休むことになり、練習自体が中止となった。しかし、テストが終わり、夏休みに入っても香織は練習に現れなかったのだ。

 何度かメールをしてみたが、メールはほとんど返って来なかった。

 学校で顔を合わせても、前のように積極的に絡むということはなくなった。朝に挨拶をして、そのまま日中はほとんど喋らずに過ごし、再び帰りに軽く挨拶をするという関係に退化していた。

 葵に聞けば、調理部の部活には何度か出て来たが、あまり話さなくなったとのことであった。

 栞自身、香織とどう接していけば良いのか分からなくなっていた。完全に自分の所為だなとも思っていたが、彼女は何もできなかった。

 栞は栞で自分の行く末について悩んでいたからだ。

 夏休みに入ったある日のことであった。練習を終えた後、栞はスポーツクラブで皆と別れ一人家路に着いていた。

 栞の帰り道には、母校である万代小学校がある。

 軽くグラウンドを覗くと、万代FCの後輩たちがサッカーの練習をしている姿が見えた。直接、グラウンドに入るわけではないが、陰からその風景を眺めていた。

 理由は良く分からない。ただ、なんとなく練習を見たくなった。半年前までは自分はこの練習に参加していたのだ。それが今では、陰から黙っている見つめる存在に成り下がったことが、不思議で仕方がなかった。

 同じ万代FCから進学した男の子たちは、万代中学のサッカー部に入部し、活動をしている。六月に全中の新潟県予選が行われ、万代中学は三回戦まで勝ち残ったようだった。

 全中予選で敗退が決まると、三年生は引退が決定するので、必然的に現在の二年生の時代がやってくる。チームが衣替えして行った最近の練習試合では、一年生ながら、万代FCの同期の男の子が何人か試合に出場したということを聞いていた。

 皆、それぞれの道を歩み、変わり始めている。それに比べて、自分はいつまで足踏みを続けているのだろうか?

 サッカーをしたくても道がなく、諦めかけていた時に、皆が助けてくれたのに、早くももっと上の環境でプレーがしたいという願望が現れていた。しかし、何から手を付けていけば良いのか分からなかった。

 故に、栞の心は揺れていた。

 万代FCの練習を見終わり、家に向かって歩いて行く。その途中で、大きなスーパーマーケットが見えてくる。スーパーの駐車場を横切るように歩いて行くと、ある人物と偶然鉢合わせることになった。

 その人物とは、前の練習試合で闘った、新経大の十番の学生である。

 栞がジュースを買って外に出た時、ちょうど車から降りて来る彼女の姿が見えたのだ。

 万が一間違いだったら困るので、目を細め凝視をすると、まず間違いなく彼女であろうと思えた。しかし、凝視しすぎたため十番の学生と目が合ってしまった。

 あ、ヤバ! と、栞は思って逃げだそうとしたが、ヤバいことにならなかった。十番の学生も栞のことを覚えており、笑顔で手を振ってくれたのだ。


 なんの因果か、栞と十番の学生はスーパーの脇に併設されている、ファーストフード店でお茶をすることになった。

 もちろん十番の学生のおごりだ。彼女の名前は横光 由香里 (よこみつ ゆかり)といって 二十一歳の大学三年生である。聞くところによると、由香里は長岡FCというチームでサッカーを始めたようだ。

 アイスコーヒーを飲みながら、由香里が尋ねる。

「へぇ、君もじゃあ小学校からサッカーやっていたんだ。それであんなに上手かったんだ」

 栞は答える。

「横光さんは、中学ではサッカーをしていたんですか?」

「え、私、中学の時はサッカーしてないよ。今は分かんないけど、私の時代は新潟の中学に女子サッカー部は無かったからね」

「え、じゃあなんであんなに上手だったんですか?」

「私はそんな上手くはないよ。中学の時は陸上部で走っていて、高校は県外の高校でサッカーをしたんだ」

「県外……」

「そう、高校ってさ、昔からいくつか女子の大会が存在しているんだよ。まぁ、大きい小さいはあるだろうけどね。でも私の頃は、ほとんどの大会って新潟県が参加してなかったの。だから、必然的に県外に行くしかなかったんだよね。でも今は、新潟でも女の子がサッカーをやる環境があるから良いみたいだね」

「環境?」

「そう、君みたいにフットサルのチームもあるし。そうだ、長岡FCの後輩でサッカーやっている女子がいてね。私の五つ下だから、君の三つ上かな? 今も長岡でサッカーを続けているんだよ。」

「長岡ですか?」

「うん。長岡とか新潟の中越地方って新潟女子サッカーのパイオニアな地域でさ。まぁホント最近の話で、大江っていう奴なんだけど、知らないかぁ。小学校の時は、女子ながら結構地域では有名な選手だったんだけど、それで、ずっとサッカーをやっていた子でね。やっぱり中学に上がるとサッカーをする環境に恵まれなくて、君たちみたいにチームを作ってやってるみたいなんだ。チーム名なんつったかなぁ。確か、エスペランサ長岡とか、そんな感じだったと思うけど」

「それは知らなかったです」

「まぁ知らなくて当然かも、一応大会とかも出てるみたいだけど、全国的にはそれほど強くはないみたい。でも新潟県の君たち位の年代の中では一番上手だと思うんだ。あ、それでね。その大江って子から聞いたんだけど、来年からアルビレックスユースにレディースチームができるみたいなんだよ。そうしたらわざわざ県外にも出る必要がないじゃん」

「そうなんですか?」

「うん、なんかね来年かららしいよ。ユースだけどね、中学生からも募集するみたいだよ。まぁセレクションはあるだろうけど、君なら問題なく通るでしょ。大江やその他のメンバーでも何人か受けるらしいよ」

「横光さんは、今はサッカーをしていないんですか?」

「うん、まぁね。私は高校で燃え尽きたかな。やっぱりね、ハンデがデカかったんだ。私は中学の丸三年間サッカーをやらなかったからね。高校で再び始めたけど、その時には周りと結構差が付いていてね。まぁ、それでもなんとか三年時には、補欠だけど試合に出られるようになって、全国大会も経験したんだけど、自分と周りの差を思い知らされたよ。今はただの大学生やりながら趣味でフットサルをするくらいだね」

「そうなんですか、あたしはてっきりまだサッカーをしているのかと思いました。あ、その、この前フットサルで試合してた時、すごく上手かったし、チームをまとめていたから」

「そんなことないよ。君たちがフットサルを始めたのはつい最近でしょ? 私たちはサークルとして創部したのは今年の春だけど、同好会として去年から練習はしていたんだ。だから差があって当たり前。でも君たちは前半、完全に私たちより上を行っていたよ」

「でも、後半は完全に負けてしまいました」

「確かにね、まぁ私だって曲がりなりにもそれなりの経験を積んで来たからね。流石に小学校出たばかりの人間に負けるわけにはいかないよ」

「あたしも横光さんのようになれますか?」

 栞の顔は真剣だった。由香里はその顔を見て真剣に答えた。

「私なんてちっぽけな者を目標にしないでほしいけど、パスワークの技術を高めることだね、君はドリブルが上手い。フットサルではなんとかなったけど、フィールドの広いグラウンドでは、私は君を止められなかったと思う。でも、ドリブル主体のサッカーってのは小学校で終わりだよ。パスの意図や戦術をしっかりと理解しないと中学以降は難しい。後は左足に固執するのを止めることかな。ねぇ、練習試合の最後プレーを覚えてる? 決定的なチャンスがあったよね。あの時、左足に切り替えなきゃあたしは間に合わなかった。切り替えた分、プレーが長くなったんだ。あそこは利き足と逆でも、逆の足で打たなきゃ。私が言えるのはそれくらいかな、でもまぁ、元プロに教えてもらってるんだから、直ぐに壁は越えられるよ。羨ましいなぁ」

 栞の真剣だった目が点になった。

「え? プロ?」

「うん、与謝野コーチって、去年までセレッソ大阪のサッカー選手だったんだよ。私の二個上の人でね、中学の時、新潟県では有名な選手だったんだよね。だから、この間サイン貰っちゃった。あれ、知らなかったの?」

「アッキー先生……プロだったんだ」


 由香里との会話を終え家に帰った栞は、夕食後普段ほとんどしないインターネットを利用し、明彦の現役時代のことを調べてみた。

 とあるサッカー選手の情報サイトに辿り着くと、明彦が現役時代どんな選手であったか? 経歴などを知ることができた。

 気になったのは、試合にほとんど出ていなかったということだった。辞めた理由は、俗にいう戦力外通告というやつかもしれないと思った。

 なぜ、フットサルのコーチなんてしているんだろう?

 栞はそう思ったが、触れてはいけないように感じた。

 今日逢った由香里や、明彦は高校から県外に飛び出し、サッカーの技術を高めていたのだ。それだけのことをしたとしても、プロで生き残って行くのは難しいし、大抵の人はプロになれずに別の道を歩むことを選択する。そんな針穴のように細い隙間を、この先潜り抜けて行かなければならない。

こういう話を聞くと、自分はこんなところで悠長にフットサルなんてしていて良いのだろうかと、どんどん不安になる。だが、そういった焦りの気持ちとは別に、万代フットサルクラブをこのままにはできないという気持ちもあったのだ。


 夏休みに入り、しばらく経った八月の初旬のことだった。栞はいつもよりも、少し早く練習に行った。当然コートには誰も来ておらず、栞は一人でストレッチをしていた。

 しばらくそうしていると、ジャージ姿の明彦が現れた。

 明彦は栞の姿を見てコートの中に入り、彼女に声をかける。

「おっ、今日は早いな。どうしたんだ?」

 栞は答える。

「先生、あたしプロになれますか?」

「プロ?」

「そう、サッカーの……」

 明彦は目を細め、何かを思い出しているようだった。

「僕は、夢は諦めなければきっと叶うなんてことは言わない。スポーツ選手ってのはそう言うもんだ。誰でも努力したらなれるって類の職じゃない」

「で、でも、アッキー先生は去年までプロだったんでしょ?」

 明彦の目が大きく見開かれる。

「知っていたのか?」

「いえ。最初は知りませんでした。つい最近知ったんです」

「まぁ、プロといってもほとんど試合には出ていないんだけどね」

「あたし、プロになりたいんです。でも、どうして良いのか分からなくて」

 明彦はコート外にあるベンチに、栞と共に移動した。

 コートには二人以外誰もいない。そんな中、ベンチに座った明彦は言う。

「新潟はさ、サッカー後進県だろ。だから僕らの頃は、本気でサッカーをするなら県外に行くしかなかった。でも今は違う。Jリーグのユースチームもあるしな。それでもプロになれるのはほんの一握りだろう」

「じゃあ、やっぱりあたしも県外に行った方が良いんですか?」

「いや、今は一概に良いとは言えないさ。だけど、中学のすべてをこのフットサルチームに捧げるのは良くないかもな。こんなことはコーチの僕が言うことじゃないんだけど」

「どうしてですか?」

「サッカーに限らずスポーツってさ、実力が拮抗した者同士が集まると、お互いの刺激になって良いんだ。陸上なんかも同じくらいの記録の人と走ると、タイムが上がるものだろう。でも、自分に合っていないところだと、いつまでもそのレベルに合わせてしまうから、思うように実力が伸びず、結果的に差が付くことになるんだよ」

 いつか、歩と体育の記録で勝負したことがあった。あの時、自分では考えられない記録が出たことを思い出した。

「それは、ここを辞めた方が良いってことですか?」

「今すぐにとは言わない。でもプロになりたいのであれば、より高いレベルの場所へ移るべきだ」

「高いレベルの場所……」

「知っているかもしれないが、アルビレックスのレディースチームが来年度からユースチームを作るそうだ。そこは中学生でも入れるみたいなんだよ」

「はい、知ってます。セレクションがあるんですよね?」

「もちろんあるだろう。だけど、そこを通ればより良い環境でプレーに専念できる」

「あたし、合格できますか?」

「分からない。僕は、君を見ていてサッカーの素質はあると思う。ドリブルもパスもトラップも基本的な動作はきちんとできるし、技術もある。だけど……」

「だけど、なんですか? 気にしないんで言ってください」

「正直に言うと、君の技術は認める。だけど、監督やコーチの目から君のプレーを見ると、ひどく使いづらい選手に見える」

「つ、使いづらいですか?」

「ああ。君は左足しか使わないし、パスも出さない。自分で行けるところまで行くというタイプの選手だ。利き足だけでなく、両足使えるからメリットになるし、パスも出せて、ドリブルもできるからプレーの幅が広がるんだよ。何か一点を極めるのは悪いことじゃない。でもそれだけでは、今のサッカーには付いて行けないだろう」

 栞は、先日会った由香里も同じようなことを言っていたなと思った。そして、落胆し答える。

「そ、そうだったんですか……」

「だけど、大丈夫だ。それを改善していけば、確実に君はレベルアップする。セレクションは冬だろう? ちょうどこのスクールも冬で終わりだ。それまではここで弱点を克服し、冬からはユースに入団すればいいさ」

「そっか、スクールは半年間ですもんね。そしたら皆とフットサルできないんだ」

「なんだ、寂しいのか?」

「え、そういうわけじゃ無くて、なんか負けたまま終わりたくないなって。皆、あたしに協力してこのチームに入ってくれたんです。それなのにあたしは、その恩返しができていないって。だから皆で勝ちたいんです」

「そうか、なら良い話がある。十二月の頭に、ここでフットサルの大会をすることになった。一応、男子の部、女子の部で分けるつもりだ。その大会に君たちも参加するか? 新経大のサークルは参加してくれるみたいだ」

 目標がはっきりし、もやもやした気持ちを吹っ切ることができた。

 栞は答える。

「大会、ですか。参加したいです。それが多分、皆でできる最後のフットサルだから」

「分かった。なら、まず香織ちゃんをなんとかしないとな。前の練習試合以降、一度も練習に参加していないだろう」

 香織……。

そうだ、あたしは何をやってるんだ。自分のことばかり考えて、あたしが再びサッカーができるようになったのは、香織のおかげなのに、香織がこのフットサルスクールを見つけ、紹介してくれたから、あたしはまたサッカーができるようになったんだ。そして、練習試合を通して、自分の弱点や、ユースのこととか知ったんだ。こういうことは香織がいなかったら、ありえなかったかもしれないのに。

 栞はそう思いながら、ベンチを立ち上がった。時計を見ると、まだ練習までは三〇分以上時間がある。

「先生、あたし香織のところに行ってくる。もしかしたら今日は休むかもしれないです」

 そう言うと、栞は一目散に駆け出して行く。

 明彦がその姿を見て「若いなぁ」と呟いたが、その声は栞には聞こえなかった。


 栞は、無我夢中で香織のもとに走った。

 駅前の喧騒を駆け抜けて行くと、やがて住宅街に入る。見慣れた景色が立ち並び、香織のマンションが現れる。

マンション内に入るためには、住居者の個室の番号をダイヤルし、その住居者にエントランスの扉を開けてもらわなければならない。

そこで栞は迷った。なんて言えば良いのか分からなかったからだ。もし仮に、香織がもうフットサルはしたくないって言ったらどうすれば良いのか? そうなれば、十二月の試合には参加できないだろう。

 ダイヤルを押そうとする指先が、微かに震えていた。迷い考えた末に、栞が辿り着いた結論は、とりあえず自分の想いを香織に伝えようということだった。その結果、どうしてもフットサルをしたくないと断られてしまえば、無理に誘うのは止めようと思った。

 意を決し、ダイヤルをしようと指先を動かした時、目の前の自動扉が「サー」と開いた。

 扉の向こうから、私服姿の香織が現れた。手にはフットサルの道具を持っているではないか。それを見て栞は涙が出そうになった。

 涙を堪えながら栞は言う。

「カ、香織……」

 栞に気が付いた香織は、驚いて答える。

「シ、栞ちゃん」


 【香織】

 新経大との練習試合を終え、自室のベッドで泣いていた香織は、泣くのを止め、ぼんやりと部屋の壁を眺めていた。

 壁には、絵やカレンダーをかける際に使った画鋲の跡が無数に見えた。

 香織は「はぁ」と大きな溜息をつき、一度立ち上がり、自分の好きな雑誌や漫画を寄せ集め、ベッドの上で読み耽ることにした。

 そうしないと、練習試合のことを思い出してしまって、また泣きそうになってしまうからだ。しかし、自分が大好きなブランドの洋服が特集されているファッション誌を読んでいても、全く心が休まるということはなかった。

 もう、フットサルを辞めた方が良いのかな? どうせ、自分がいたところで、試合の役には立たないし、多分いないほうが良い結果になるだろうし……。

 そんな風に考えていた。

 香織は一度立ち上がると、持っていた雑誌を机の上に置き、再びベッドに寝転び、布団を頭からかぶって眠ろうとした。

 だが、こういう気分の時は、なかなか寝付けるものではない。それでも必死に目を閉じて、何も考えないようにじっと我慢しながら眠ろうとしていた。


 翌日――。

 季節は夏本番を迎え、いよいよ本格的に暑くなってきた。

 香織はほとんど眠ることができなかった。泣いてばかりいたので、目の周りが少し赤く腫れていた。頭痛もするし、体も怠かった。それでも、もうすぐ期末テストがあるため、この時期は学校をあまり休みたくなかった。重い体に鞭を打って立ち上がり、顔を洗い朝食を食べることにした。

 朝食の際、父は既に会社へ出勤しており、いるのは母だけだった。

母は専業主婦のため、昨日の晩から何も食べていない香織のことを心配し、色々声をかけてくれたが、香織は頷くだけだった。

 学校に着くと、真っ先に栞が声をかけてくれた。そこで、昨日からずっとメールが来ていたということを思い出した。それでも香織はなんとなく、栞と顔を合わせたくなかった。声をかけてくれた栞に対して、軽く挨拶を済ませるだけで、その他は何も話さなかった。栞もそのような香織の仕草を見て、それ以上話そうとはしなかった。


 練習試合が終わって、七月に入った。

 七月に入ると、テスト前ということで調理部の活動はあまりしなくなったし、フットサルに至っては、練習試合以降、一度も参加していなかった。

 一度休んでしまうと、次は余計に行き辛くなる。だから、また休むという悪循環が続いた。

 心配してくれる栞や葵からメールが何度も来たが、テスト前だからとか、体調が悪いとか色々な理由をつけて休み続けた。

 香織は結局、テストが終わり、夏休みに入っても練習に向かえなくなり、栞や葵からメールが来るということもなくなった。

 自分でいろいろ理由をつけて休んでいたくせに、いざメールが来なくなると、本当に忘れられてしまったんだとたまらなく自己嫌悪に陥り、なんだか悲しくなって来たが、自分がいない方がチームの為だろうと言い聞かせ、涙を我慢した。


 夏休みに入ると、毎日が休みで曜日の間隔が曖昧になる。そのため、香織は一つの重大なミスを犯してしまった。

 それは、八月の初旬のことだった。

 香織は、フットサルの練習には練習試合以降、一度も参加していないが、母親には心配をかけまいと、練習に行っているフリをしていたのだった。しかし、夏休みに入り、練習日を一日勘違いしまったのである。

 練習日だというのに、ちょうど買い物から帰ってきた母を出迎えてしまったのである。


 香織の母である美樹子は、香織の様子が変だということを見抜いていた。

 生まれてからずっと育てて来たのだ。それくらいのことは簡単に分かった。それでも、香織が何も言ってこないので、自分から何か言うことを避けていた。

 同時に、美樹子は香織が練習に行かないで、駅とは正反対の方向にある公園をプラプラと散歩していることも知っていた。

 しばらく放っておけば自分の力でなんとかしてくれると思っていたが、この一カ月あまり目立った変化はなかった。

 たまに部屋で泣いているようだし、朝、目を腫らして起きてくることもある。心配になっていた美樹子は、この機会に香織と話をしようと思っていた。


 美樹子の荷物を香織が受け取り、二人はリビングへ向かう。買って来た食材や日用品を、それぞれ所定の場所へしまう。

 しまい込んだ後、美樹子は二人分のコーヒーを淹れ、一つを香織に差し出す。コーヒーを飲みながら、二人はリビングのテーブルに腰を掛ける。

 香織はまだ今日がフットサルの練習日だということに気が付いていない。

 美樹子はそれを確認するように、香織に言った。

「今日、練習は休みなの?」

 練習日だということを思い出し、香織の体は硬直する。

 それでも、必死で取り繕い、香織は答える。

「う、うん」

「そうなの……。ねぇ、香織ちゃん。あなた、最近ずっと練習に行っていなんじゃないの?」

 香織の体がビクッと跳ねた。母の鋭い指摘に、香織はもう隠し通すことができないと判断した。

「お、お母さん、知ってたの?」

「ううん。でもお母さん、あなたの様子が変だということを、前々から感じていたの」

「そ、そうなんだ……」

「何かあったの? いえ、あったんでしょう」

「うん」

「それはお母さんにも言えないようなことなの?」

 香織は押し黙った。どう説明をしたら良いのか分からなくなったためだ。

 それ見た美樹子が続けて言う。

「栞ちゃんと喧嘩でもしたの?」

「ううん」

「じゃあ、フットサルで何かあったの?」

「うん」

「そう、何か失敗したの?」

「うん」

「お母さん、フットサルのことは良く知らないのだけれど、スポーツで失敗しない人なんているのかしら?」

「わかんない」

「それで、失敗したことを誰かに言われたってことね?」

「ううん。違う」

「じゃあ、どうしてそんなに悩んでいるの?」

「だって、私がたくさん失敗するもん。だから、私がいない方がチームのためには良いと思って」

「そうなの……。でもチームの皆はそんなこと思っていなんじゃないかしら。だって人数はギリギリなんでしょう?」

「そ、それはそうかもしれないけど、わ、私の代わりなんていっぱいいるし」

「そうかしら、お母さんはそんなことないと思うけどな」

「ど、どうして?」

「だって、香織ちゃんはまだ始めたばっかりじゃない、料理だって同じよ、あなたは最初とっても不器用で、お母さんいつもハラハラしてたけど、何年も続けて手伝っていくうちに、今ではお母さんより料理が上手になったんじゃない? それと同じよ。失敗が怖かったら、それをしないために、沢山練習すれば良いんじゃないかしら?」

「で、でも。わ、私は……」

 香織の言葉を遮り、美樹子は答える。

「ほら、あなた最初に言ってたじゃない? フットサルは半年間しかできないって。半年って短いわよ。後悔しないの?」

 香織はその言葉を聞いて思い出した。

 そう、万代フットサルチームは部活動ではない。あくまでスポーツクラブにある一つのスクールでしかないのだ。だから、半年経てば、栞以外 (唯は分からないが) は皆辞めてしまうだろう。

 なぜならもともとは、栞にサッカーをさせてあげたいと探したスクールなのだ。そして、たまたま見つけたスクールが、初心者コースしか空いていなかった。さらに、足りない定員を補うため、皆で協力して入会したのだ。

 その初心者コースの期間が終わり、栞一人でも別のクラスに入会できるとなれば、自分達が協力して入会する意味がなくなる。

 そう考えると、皆と一緒にフットサルができるのは、偶然に生まれた、この半年間だけなのだ。

 香織は立ち上がり、自室へ戻った。

 部屋の脇に置いてあるサッカー道具を、鞄にしまい出かける準備をする。行先はもちろん、万代スポーツクラブだ。

 練習開始十分前である。少し遅れるかもしれないが、走れば間に合うかもしれない。

 出かける前に、香織は美樹子に告げる。

「お母さん。私行ってくる」

 美樹子は安堵し答える。

「そう、じゃあお夕飯作って待ってるから、頑張ってきなさい」

「うん、ありがとう。お母さん」

 香織は家を出て、エレベーターに乗り、一階まで下り、マンションのエントランスまで行くと、すりガラスの自動扉の向こうに見慣れたシルエットを見つけた。

 もしかして? と思いながら、香織は自動扉を開けた。

 その先に待っていた人物を見て、香織は驚いた。

「シ、栞ちゃん……」

 そう、待っていたのは、運動着姿の栞であった。

 よく見ると、栞は慌てて走って来たのか、額に汗が浮かんでいる。

 香織は、そんな栞の姿を見て、なんと言って良いのか分からなかった。さっきまで、あんなにもう一度練習へ行こうと思っていたのに、いざ会うと、決心が揺らいで来たからだ。

 少しの間があって、栞が言う。

「香織、ちょっと話があるんだ。聞いてくれる?」

 香織は頷くように答える。

「うん」

 二人は、マンション内のある場所へ向かった。

 香織の住むマンションにはマンション内に、住居者専用の庭がある。

 庭といっても、それほど広くない。公園のように遊具があるわけでないし、小さな砂場とベンチが数台あるだけのスペースだ。そこで二人は、昔よく遊んだことがあった。

 ベンチに腰を掛けると、栞が話を始めた。

「あ、あのね。まず、ゴメン……」

 香織は答える。

「ど、どうして、栞ちゃんが謝るの?」

「わかんない、なんかあたしさ、自分のことばっかり考えてて、香織のこと何にも考えてなかったって言うか」

「でも悪いのは私だよ。無断でずっと休んでいたんだもん。もう、練習行く資格ないよね」

「そんなことない。あたしは逆で香織ともう一度サッカーがしたいから、その、香織を連れに来たんだよ」

「え?」

「ゴメン、でも嫌だったら遠慮なく言って、あたしね、この冬であのスクールを辞める。多分、皆もそうだと思うけど、そう考えると、皆でフットサルできるのは、残り三カ月ちょっとしかないんだ。あたしはこのチームで勝ちたい」

「シ、栞ちゃん辞めちゃうの?」

「うん、実は来年度からアルビレックス新潟からレディースのユースチームができるんだ。あたしはそっちの方へ行くよ。だから、皆とフットサルができる残りの期間を、あたしは後悔したくないんだ」

「で、でも、わ、私がいたら、め、迷惑じゃないのかなぁ? だ、だって私は何もできないし、ボールが来ても、す、直ぐに取られちゃうし」

「ううん。迷惑なんかじゃないよ。皆で一から練習しよう。そうすればきっと大丈夫だし、香織が困っていたら、あたしが絶対に助けるから!」

「う、うん。あ、ありがとう」

「大丈夫。実は十二月にね、万代スポーツクラブでフットサルの大会をするんだって、時期的にはそれが最後になりそうだから、それを目標に頑張ろう!」

 栞の言葉を聞いて、香織はもう一度フットサルをしようと思った。後悔したくなかったのだ。

 残り期間は少ないのだけれど、栞が言っていたように、最後は勝って終わりたいと、香織も思えたのだった。

 二人は立ち上がると、その場を後にし、スポーツクラブへと向かった――。



【葵】

葵にとって何かに「悔しい」と感じたのは、本当に久しぶりのことだった。

 恐らく、この前に感じた「悔しい」という記憶は、小学生の時に弟に対戦ゲームで負けた時のことだろう。あの時は悔しいと感じたけど、必死になって弟を負かしてやろうとは、微塵も思わなかった。たかがゲームだと自分に言い聞かせ、いつしかゲームもやらなくなった。

 練習試合が終わり、家に着いて、シャワーを浴びても、ご飯を食べても、好きなテレビ番組を見ても、試合中にシュートを止められなかった後悔ばかりが、強く頭の中に残っていた。

 今回ばかりは、とても高がフットサルの練習試合だとは思えなかったのだ。

 栞は点を入れてくれるし、唯はディフェンスを頑張ってくれる。歩だって少ない練習の中、一生懸命に走ってくれるし、香織はボールが怖いのに、必死に前線にパスを送ろうとしていたではないか。

 それなのに、自分だけがまるでザルと言わんばかりに、ポンポンとゴールを許してしまった。

 ああ、どうしたら良いんだろなぁ。キーパーって難しいんだなぁ。

 葵はそう考えながら、ベッドに横になった。


 七月に入ると、期末テストのため、フットサルの練習を休むことになった。それでも勉強の最中にも良くキーパーのことを考えていた。頭から離れなかったのだ。

 テストが終了し、夏休みに入ると、暑い中の練習が始まった。

 香織がいつまで経っても、練習に参加して来ないことに、最初は励ましのメールを送っていたが、いつの間にか、自分にも余裕がなくなり、メールを送らなくなった。

 葵も思い悩んでいた。ゴールキーパーの練習方法が分からないためだ。

 明彦に聞いたことはあったが、明彦はゴールキーパー経験がない。故に、練習方法は本当に基本的なことしか知らなかった。

 いつも聞いたことを試してみるのは良いが、ほとんど成長しているという実感が無かった。


 夏休みのある日、葵は弟のサッカーの試合を見に行くという機会があった。

 彼女の弟の名前は悠貴。悠貴のいるサッカーチームは、栞らがいた万代FCではなく、蒲原FCという別のチームであった。

 その蒲原FCの練習試合を見に行くことになったのだ。

 既に六年生たちは引退が決まり、五年生である悠貴の時代が訪れた。

 悠貴が試合に出るということと、開催場所が出身小学校である蒲原小学校ということもあって、姉である葵も義理で見に行ったのだった。

 もうもうと土煙が舞う中、練習試合は行われた。

 小学生の練習試合ということで、十五分ハーフの試合が二試合行われることになった。

 直射日光を避けるため、葵は遊具の下に潜って試合を見つめていた。

 悠貴はFWであったが、ほとんどボールに触る機会がなかった。それもそのはずで、蒲原FCは立ち上がりから、終わりまで一貫して防戦一方であったためである。

 相手の新潟大学付属小 (通称付属小) は決して強くない。勉強ばかりしているから、むしろ弱小の部類に入るはずである。にもかかわらず、悠貴率いる蒲原FCはずっと逆風であった。

それでも、試合が終わってみると〇対一というスコアだった。つまり、あれだけ攻め込まれていたのに、一点しか取られなかったということだ。

 それはなぜか? ディフェンダーの守備能力が高いからなのか?

 否、そうではなく、一点しか与えなかった正体は、ゴールキーパー存在が大きかったのだ。

 ことごとくシュートを弾いていたし、キャッチしていた。

 不思議なのは、蒲原FCのキーパーは背が高くないし、体も小さいということだった。

 ゴールの大きさは、大人用のものよりは小さいはずだが、フットサルで葵が見ているものより確実に大きい。

 それなのに、葵より小さい蒲原FCのキーパーが、フットサルより大きいゴールで失点が少ないのには理由があった。

 それは、反射神経の高さと、ポジショニングの良さが挙げられる。

 蒲原FCのキーパーに比べて、葵は特にこの二つの能力が圧倒的に劣っている。

 まず一つ目、葵は反射神経が鋭敏ではない。こればかりは先天的な面が大きいし、短期間で飛躍的な向上は難しいだろう。しかし、葵は背が高い分、手足が長い。その手足の長さを上手く使えれば、反射神経の鈍さを補えるはずだ。

 次に、葵はポジショニングが悪い。明彦にそのことを度々指摘されては来たが、葵自身良く分かっていない。

 キーパーは、相手選手にシュートコースをなるべく制限させる必要がある。そのためには飛び出して、シュートする相手との間合いを詰めなければならない。ただ、ゴールに張り付いているだけではダメなのだ。

 葵もそのことはなんとなく分かっていた。ゴールに張り付くよりも、飛び出して行き、自分とボールとの距離を詰めた方が、結果的に止めやすくなるということを。しかし、この飛び出すタイミングや、シュートコースの消し方が曖昧で、さらに突拍子が無いので、飛び出して抜かれるというパターンが多くなる。

 サッカーではキーパーが抜かれると、致命的なピンチに陥る。だから、キーパーは最後の砦や守護神と呼ばれるのだ。

 故に葵は抜かれることを恐れ、ゴールに張り付いてばかりいた。


 結局、蒲原FCは二試合とも敗れてしまった。

 試合後、葵は一足先に家に帰り、悠貴の帰りを待っていた。

 本当は直ぐにでも、あのゴールキーパーのもとに飛び出して行きたいと思っていた。だが、弟の試合の後に、のこのこ現れて、キーパーについて聞いたら、絶対変な人だと思われると思ったため、まずはこのキーパーがどんな奴なのかを確かめようとしたのだ。

 悠貴が帰って来て、シャワーを浴び、エアコンの効いたリビングに軽装で現れた。幸い、両親は試合後に夕食の買い物にスーパーへ行ったばかりだから、直ぐには帰って来ないだろう。

 葵は悠貴に向かって声をかける。

「試合残念だったね? 疲れた?」

 悠貴は冷蔵庫から麦茶を取り出し、グラスに注ぎながら答える。

「え、別にそんな疲れてないけど」

「それにしても惜しかったねぇ。でもほら、攻められてた割に失点が少なかったよね」

「ああ、まぁね。蒲原FCはゴールキーパーが強いからね」

「キーパーが強い?」

「うん、あいつ芥川っていうんだけど、小一からサッカーやってたらしいよ。だから、キーパーだけでなくウチのチームで一番サッカーが上手いんだ」

「ふーん。アンタとその芥川って仲が良いの?」

「え、なんで? 仲良くないかな、クラス違うし。去年の春にこっちへ引っ越してきたんだよ。だからさ、あいつは誰とも仲良くないよ、学校も練習ない日は直ぐに帰るしね。でもサッカーにすげぇ詳しいから、俺も仲良くしてみたいんだけどね」

「なぁんだ」

「姉ちゃんまさか、あいつを狙ってんのか? それは止めた方が良いと思うぜ」

「違うよ。ウチさフットサルでキーパーやってんだよ」

 悠貴の目が驚きで点になった。

「え、姉ちゃんキーパーやってんの? ってかなんで?」

 憮然顔で葵は答える。

「わかんない、成行きだよ。気が付いたらキーパーになってた。でもウチさ、下手くそなんだ」

「もしかして……、それで芥川に特訓してもらうってこと?」

「いや、ただなんか秘訣とかないのかなって、なんか良く分かんないんだよ。こういう時どうすれば良いとか、飛び出して行くタイミングとか、コーチはいるんだけど、ゴールキーパー専門の人じゃないからさ」

 悠貴は、葵の今まで見せたことの無い顔を見て、真剣さを感じ取った。

「良いよ。俺、明日芥川に聞いてみるよ。俺も何かきっかけがあれば、芥川と仲良くしたいって思ってたんだ」


 後日、悠城の紹介によって、葵は芥川と出会った。

 どうやら、悠貴の話を聞いて、芥川は快く承諾したようだった。

 芥川は、葵よりも一〇センチ以上背が低く、手足も細く、全体的に痩身な少年であった。

 小学校のグラウンドは、部活動が使用しているため、話し合いの結果、信濃川の土手沿いで練習することになった。

 ゴールは、ペットボトルをマーカー代わりにして設置した。

 最初の内は、悠貴がドリブルをして放ったシュートを、葵は止めたり弾いたりできた。しかし、それを何本か繰り返して行くと、悠貴はスパスパとゴールを決め続け、葵はほとんど止められなくなった。

 その様子を外から見ていた芥川は、なんとなく葵の欠点に気が付いたようだった。

 芥川が顎に手を置き、口を開く。

「あのう。僕はその、GKですが、教えるのが専門じゃないんで、見当違いのことを言ってしまうかもしれないんですけど、僕が見た限り、三島君のお姉さんはポジショニングがすごく悪いと思います」

 葵は答える。

「ポジショニング?」

「はい。その、立ってる位置ですね」

「うん、なんだっけ? コースを塞ぐように立つんでしょ? なんか、そんなこと言われた気がする」

「そうですね。でも、お姉さんの立っている位置は、コースが全然塞げてないです」

「ねぇ、どこら辺に立てば良いの?」

「目安はゴールの中心から、ボールを持った相手選手を結んだ直線上に立つのが良いと思います」

「なるほど、後さ、ウチ飛び出すタイミングが分かんなくて困ってるんだけど、どういうタイミングで飛び出せば良いの? なんか抜かれちゃうんだ」

「多分ですけど、タイミングが悪いって言うよりも、単に飛び出し過ぎなんです。後は、背が高い分、重心が高いんですよ」

「重心が高い?」

「はい、GKが飛び出すのはシュートコースが消せることと、相手にプレッシャーを与えることができるからです。でも、普通に走って飛び出しちゃダメなんです」

「じゃあどうすれば良いの?」

「膝を落とし重心を低く、壁になる感じですかね、膝を曲げておかないと、左右の動きに対応できないんですよ」

 芥川は腰を落とし、重心を下げた姿勢を葵に見せる。それを見た葵は答える。

「分かった。ゴールの中心と相手を結んだ線上に立って、重心を低く構えるんだね」

 夏休みということもあって、彼女ら三人は練習の合間を縫って、土手沿いで練習を続けていた。

 葵は覚えが悪かったが、芥川の説明を反復し聞き、実行に移すことで、一週間程でなんとか木偶の坊キーパーから、普通のキーパーへ進化しようとしていた。

 一度、コツを覚えると、飛び出すタイミングや、ポジショニングを極端に間違わなくなった。

 その結果、背が高いというメリットが活き始めたのだ。短期間では反射神経は強化できないが、手足が長いのでその長さ分、反射のスピードを補えたのである。

 悠貴に抜かれてばかりであったが、今では三回に一回は確実に止められるようになっていた。

 芥川はその様子を見て言う。

「大分、良くなったと思います。後はフットサルの戦術に合わせて、プレースタイルを変えて行けば良いのではないでしょうか」

 葵は笑顔で答える。

「うん。ありがとう。ホント助かったよ」

「いえ、僕は別に……」

「ねぇ、なんで君はキーパーになったの?」

 芥川は目を閉じ、少し考えてから答えた。

「始めた理由は、僕が最初サッカーを始めたチームの監督に、欧州では一番上手い人がキーパーをやるっていうことを聞いたからですね」

「へぇ欧州は一番上手い人がやるんだ」

「実際は良く分かんないですけど、イギリスとかはやっぱり人気があるみたいですよ。まぁ僕は、キーパーやってみたら意外に相性が良かったみたいで、いつの間にかキーパーになってましたね。お姉さんはなんでキーパーになったんですか?」

「え、ウチこそ成行きの極みだよ。ウチらがやっているフットサルチームって人数がギリギリなんだ。それで、仕方なく背が高いウチがやってる」

「そうなんですか。でも、キーパーやって良かったって思いますよ」

「どうして?」

「キーパーって結構得だと思うんです。決定的なピンチを防げば、直ぐにヒーローに慣れますし、やっぱり一対一で相手の攻撃を止めるのは、すごく気持ちが良いことです」

「ふーん。そういうもんなのかなぁ」

「あの、今度良かったら、試合を見に行っても良いですか?」

「試合かぁ、あるのか分からないけど、あったら教えるよ。でもさ、ウチら試合なんて見ても仕方ないんじゃない? まぁ上手い人はいるんだけどね」

「はい、じゃあもしあったら教えてください」

「うん。じゃあ試合があれば教えるよ」

 葵はさっきまで練習していた土手の風景を眺める。土手の土は繰り返しの練習により、葵が立っていた位置に足跡が強く残っていた。


 帰り道、葵は悠貴と夕焼けの中、家に向かって歩いていた。

 悠貴が持参したスポーツドリンクを飲みながら言う。

「姉ちゃん。なんか変わったね。前ならこんなに一生懸命にならなかったと思う」

 葵は答える。

「ウチは良く分かんないよ。ただ、周りが一生懸命やってるんだ。フットサルってチームじゃん。だから、ウチだけがいつまでも、ちんたらしていられないなって。悠貴も悪かったね、変な練習に付き合わせちゃって」

「いや、俺は良いよ。俺も芥川とは少し話してみたかったんだ。だから、ちょうど良かった」

「そう、なら良かったよ」

「ねぇ、姉ちゃんはこれからもサッカーを続けるの?」

「う~ん、わかんないな。でもスクールに入っている間は続けようと思う。スクールは半年間なんだけど、その後は皆辞めちゃうと思うんだ。なんていうのかな。だから皆でできるのは、この半年しかないんだよ」


 特訓を終えた、八月初旬の練習日――。

 葵は練習に向かう。最近は香織がずっと来ていない。メールを送ってはいたが、返信はあまり来なかった。自分自身も特訓で忙しく疲れていたから、メールを送ることを最近止めてしまっていた。今日も休みだったら、またメールを送ってみようと思っていた。

 コート内には練習開始三〇分前だというのに、一人の少女が既に練習に来ていた。無人のゴールに向かってシュート練習をしている。後ろ姿で、直ぐにそれが誰なのか分かった。

 ポニーテールが揺れている。そう、その少女は歩だった――。



【歩】

 試合中、歩は何一つ満足にプレーできなかった。

 当初、歩は栞と仲直りをするきっかけを作るため、フットサルスクールに入会したのだ。それでも歩は、陸上部の練習に参加しなければならない。そのため、週一回しかスクールの練習に参加できなかった。だからこそ、試合で何一つできないのは、必然的であり、仕方のない問題であった。

 歩自身、フットサルスクールを始めた頃は、自分の本業は陸上だから、フットサルができなくても、まぁ良いかと考えていた。しかし、本来の負けん気が災いして、自分だけ、いつまでも何もできないのは、悔しいと思い始めた。

悔しいと感じ始めると、やっぱりちゃんと練習に出れば良かったと後悔したのだ。

 フットサルの練習試合が終わった七月のことだった。毎週水曜日は陸上部の練習があるため、フットサルの練習には参加できない。故に、歩はいつものように陸上部の練習に参加していた。

 六月の初旬に、陸上部は市の競技大会に参加した。

主に、二、三年生が主体の競技大会であったが、一年生ながら、歩も一〇〇メートルの選手に選ばれ、競技大会に参加したのだ。

 この競技大会で結果を残せば、県大会、北信越大会、全国大会へと駒を進めることができるが、万代中学は歩を含め、誰一人、県大会より先に進めなかった。

 今競技大会で敗退が決まると、三年生は自動的に引退になる。

 歩は県大会で敗退したが、一年生ながら、強豪校の三年生と互角に渡り合った功績を評価され、次期エース候補として、名乗りを挙げるまで至っていた。

 本来なら、この段階でもうフットサルを辞めても良かった。歩自身も、練習試合を行うまでは、この段階で辞めようと思っていた。しかし、練習試合での惨敗後、その考えは吹き飛んだ。不思議なことに、比重までもが変化していったのだ。

 今まではあくまで陸上中心であったが、心のどこかでフットサルをこのままにできないという、責任感が生まれた。

 陸上とフットサルが決定的に違う点は、組織か個人かということだろう。早い話、陸上は自分一人だけの世界だ。だから、練習が面倒くさくて、サボったとしても、自分のタイムが悪くなるだけで、誰にも迷惑はかからない。自分さえよければそれで良いだろう。

 歩は今までそう思っていた。しかし、実は違うのだ。個人でやっているつもりでも、練習を指導する教員がいて、タオルやドリンクを用意してくれるマネージャーがいて、競技種目は違っても、応援してくれる部員たちがいるのだ。

 個人一人の力では限界がある。

 例えば野球では、いくら超人的なエースピッチャーがいたとしても、その一人だけでは、甲子園優勝はできないだろう。

 フットサルも同じことが言えるのではないだろうか。単体競技である陸上だって、実はたくさんの人間の力を借りている。じゃあ、団体競技であるフットサルはもっとチームプレーが大切になってくるはずだ。歩は練習試合に出場してみて、そう思ったのだ。

 恐らく栞は、あの練習試合の中で、誰よりもサッカーが上手かったはずである。だけど、そんな栞ですら組織には勝てなかった。個人技で組織に対応するには限界があるのだ。

 その時、歩を含め誰一人、栞のプレーを助けられなかった。あの試合後、葵が珍しく「悔しい」と口走った。同じことが自分にも言えるのではないかと思った。

 今まではなんでも自分一人でやるのが当たり前だと思っていた。でも一人じゃないのだ。チームだから皆が助け合うのだ。その結果、一人の時とは考えられない力が生まれるのである。

 歩はそのことに気が付いた。くっそぉ、あの時、ああすれば良かった。

 そんな後悔ばかりが、ぐるぐると頭の中を回っていた。

 

 夏休みに入ると、陸上部の練習時間が増えた。

 今までは放課後の練習プラス、土曜日の午前中の練習であったが、夏休みは週五日間、丸一日練習になった。

 練習が長くなることは別に良かった。問題なのは、練習日の方だった。陸上部の夏休みの練習は、月、火、水、金、土曜日の五日間であった。

 これではもう、フットサルの練習に行けなくなってしまう。これにプラス、夏休みは数日間の合宿もある。

 万事休すだ。もうフットサルは諦め、陸上の練習に専念する時が来たのだと、泣く泣

くフットサルを諦めようとしていた。

 しかし、事態は急変した。夏休中の陸上部は、週に二、三回、近くを流れる信濃川沿いの土手を、準備運動がてら部員全員で走るのである。

 この時に、歩は信じられない光景を見たのだ。

 信濃川の土手沿いには、犬を散歩させたり、川辺で涼んだり、小さい子がボール遊びなどをしているが、その中に背の高い少女と、少年二人がサッカーをしている姿が見えた。

 近づいて行くうちに、それが誰なのか歩には、はっきりと分かったのだ。

 そう、その正体は葵と、葵の弟の悠貴であった。もう一人いるが、それが誰だか分からなかった。

 葵はゴールキーパーの練習をしているのか、手にグローブをはめ、悠貴がシュートを放っている。

 え、なんで? 葵、何してんの……。

 歩はそう思い、走っている足を止めそうになった。

 この光景は、陸上部で土手沿いを走る時、毎回見ることができた。

 葵は試合後の「後悔」を消すために、こんなところで練習をしているのだ。

 それなのに、自分だけが陸上の練習をして、フットサルの後悔を無かったことにして辞めようとしている。

 本当にこれで良いのだろうか? 土手で練習をしている葵の姿を見ると、歩の心の中に、もやもやとした気持ちが広がっていった。

 これは以前、体育の授業で栞に負けた時の感覚に似ている。以来陸上の練習に身が入らなくなったのだ。


 ある日の練習日。グラウンドには熱気が漂い、立っているだけで、常に汗が出るような暑い日であった。

 昼の休憩時、練習している部活動に対し、幾つかの教室が休憩用に当てられており、皆そこで昼食を取るのが日課になっていた。

 歩は持ってきたおにぎりを直ぐに食べ、屋上へ上がり、昼休みのため誰もいないグラウンドを見下ろした。その後、屋上に設置されているベンチに座った。生暖かい風が、歩の頬を切る。

 なんとなく一人になりたかった。

 屋上は、日を遮るものが何もなく、絶えず日光に照らされているので、夏場の休憩場所には適さない。もしかすると、体力を消耗して午後の練習に響くかもしれない。

 それでも良かった。そんな環境の悪い場所ならば、誰も来ないであろうし、確実に一人になれると思っていた。しかし、歩の孤独の時間は、本当に束の間だった。

「ガタン」という扉を開ける音が、歩の後方から聞こえた。 

 振り返ると、陸上部の顧問の志賀教諭が入ってくるのが見えた。手にはコンビニのビニール袋とスーパーのビニール袋を持っている。どうやらここで昼食を取るようだ。

 なんで、わざわざこんな暑いところでお弁当なんて食べるんだろう?

 歩はそう思ったが、それ以上は気にしなかった。

 当の志賀は、歩の姿を見つけるなり、彼女のもとに近づいてきた。

 志賀は三〇代後半の体育教師である。学生の時には、陸上も行ったが、それだけでなく、卓球、水泳、ハンドボール等の運動部や、掛け持ちとして文化部も経験し、さまざまな競技を行って来た先生だ。

志賀は、歩の横に座り言う。

「なんだ谷崎、お前こんなところにいたのか? 午後も練習だぞ。まぁお前ならへばったりはしないか」

「先生こそ、こんな暑い場所でわざわざ昼食を取らなくて良いんじゃないんですか?」

「いや、俺はさエアコンがダメでな。それに太陽が好きなんだ」

 その後、歩は適当に相槌を打ちながら「はいはい」と会話を続けた。

 志賀は気にすることなく、コンビニの袋を開け、買ってきた蕎麦を膝の上に乗せ、もう一つのビニール袋からイカの天ぷらを取りだし、蕎麦の上に乗せた。

 そばを食べ、お茶を飲み、一息ついた後、再び志賀が言う。

「なぁ、谷崎。お前また最近調子が悪いみたいだが、何かあったか?」

 歩はドキッとしたが、冷静を装い答える。

「い、いえ別に。なんでですか?」

「いやな、お前一学期の早々にも、同じように調子が悪い時があっただろう。だから、そういうムラがあるのかなと思ったのだが、どうもそうじゃないような気がしてな」

 歩は思っていることが顔に出るタイプだ。何かを考えながら、器用に競技を行える選手ではない。彼女自身それを知っていたが、まさかその不調の理由がフットサルだとも言い出せず、黙り込んだ。

 その姿を見て、志賀は再び話し始めた。

「なんかさ、お前を見ているとね、昔を思い出すんだよ」

「昔のことですか?」

「そう、俺がまだ学生の時だよ。俺はさ、一つのスポーツに絞って競技をして来なかった。なんて言うのかな、飽きっぽいわけじゃ無いのだけど、色々なスポーツをしてみたかったんだな」

 志賀は、お茶を口に含み、持っていたタオルで額を拭いながら、再び話す。

「それで、高校二年の時かな。陸上部にさ、男なんだけど変な奴がいたんだ。まぁ、俺が通っていた高校は全く陸上が強くないんだが、谷崎みたいに陸上成績が良い奴がいたんだよ」

「あ、あたしは変なヤツじゃありませんよ」

「そうだな、ごめんごめん。そいつはさイカ天ってあだ名でね、何が変だったかっていうと、イカ天はね、陸上部と囲碁部を掛け持ちしていたんだ。な、変な奴だろ」

 そう言うと、志賀は思い出し笑いをした。

 歩は答える。

「囲碁部なんて部活としてあるんですね」

「そう、まぁ新潟県内に四校しかないんだ。だから二つ勝てば、一気に全国大会に行けるんだよ」

「それが、あたしとどう関係があるんですか?」

「ああ、イカ天はさ、囲碁も本当に強くて、なんだったかな、何段かの取得者らしいんだね。囲碁はさちょっと前に、なんかの漫画で人気が出たことがあっただろう? だけど、俺たちの頃は人気が無かったんだ。だから、囲碁部は常に部員がギリギリだった」

 部員がギリギリということを聞いて、歩の体が少し震えた。

 志賀はその様子に気が付くことなく、話しを続ける。

「当時の囲碁部はイカ天を入れて三人。なんでも囲碁は、個人戦の他に団体戦って言うのもあって、三人で一チームになって戦う。主将、副将、三将に分かれ、それぞれ個人で戦い、先に二勝した方が勝ちなんだ。それである日、困ったことが起きてね」

「困ったことですか?」

「ああ、高二の夏のことさ。イカ天は砲丸投げの選手でね。インターハイに出場することが決まった。ただ、不運なことに囲碁の方でも全国大会出場が決まったんだ」

「囲碁に全国大会なんてあるんですか?」

「そうなんだ。高校選手権っていって実在してるんだよ。囲碁はさ、頭の良い高校が強いんだ。だから新潟なら付属高とか県高 (新潟高校) とかね、ただ、その年はイカ天ともう一人が頑張って全国大会出場を勝ち取った。しかし問題なのは、インターハイと、囲碁の全国大会の日程が重なったということだ」

「重なった……」

「そう。囲碁と陸上を同時にやっている人なんて普通はいない。だから、お互いの大会の日程が考慮されていなかったんだろう」

「そ、それでどうなってんですか?」

「イカ天は陸上を選んだ。あくまでイカ天は陸上がメインだったからだ。イカ天の決断に誰も文句は言わなかった。囲碁部員でさえね。でも、その結果囲碁部は、全国大会に出場できなくなった」

「え、どうしてですか?」

「人数の問題だ。まぁ例え、頭数を揃えたところで初心者では勝つことは難しいだろう。結果、新潟県大会二位のチームが繰り上げで、全国大会出場することになったんだ」

「イカ天さんはどうなったんですか?」

「イカ天か、イカ天はな。インターハイはボロボロだった。通常の記録を出せれば、八位入賞も可能であったが、あの時のイカ天は普通じゃなかったんだろう」

「普通じゃない?」

「ああ。ええと、なんだその……。数年前かな、一度イカ天に逢ったんだよ。その時に彼がこの決断を後悔していたということを聞いたのさ」

「後悔ですか」

「ああ、イカ天は大学へ進学し、社会人になっても陸上を続けたんだが、囲碁はあの高校の期間だけだった。だから、せっかくみんなで勝ち取った全国大会を棒に振った行為が、イカ天には許せなかったんだろう。結果、イカ天は本来の実力を出せなかったんだ」

 夏の熱気が頬を打った。歩は話に熱中し、暑さのことを忘れていた。

 Tシャツには汗がぽたぽたと落ち、水溜りのようなシミをつくっていた。

 再び志賀が言う。

「イカ天は何事にも真っ直ぐだった。それは谷崎、お前にも同じことが言えるような気がする。何かを悩んでいる姿はイカ天にそっくりだ。俺は無理に悩みを聞いたりはしないよ。ただ、後悔をしてほしくない」

「後悔」という言葉が、歩の心を強く揺らした。

 そうだ、フットサルができるのは、今しかないんだ。

 陸上だって今しかできないかもしれないけど、あたしは高校、大学とずっと陸上を続けたい。でも、皆でできるフットサルは「今」しかないんだ。

そう考え、気が付くと大声で叫んでいた。

「せ、先生!」

 突然の大声にも、志賀は微動だにしなかった。

「先生、あたし、実は……」

 歩はフットサルのことを話した。栞らと共に試合をしたこと。人数がギリギリということ。週に二回練習があること。夏休みはその練習に参加ができないということ。

「なるほどな、そう言うことだったのか。陸上部の顧問が優秀な生徒に対して言う言葉ではないのかもしれない。だが、谷崎。お前がフットサルをしたいのであれば、練習の日程は考える。但し、陸上の練習は少なくなるし、大会で思うような結果が出ないかもしれない。それでも良いか?」

「はい、大丈夫です」

 先程まで悩み、暗く影を落としていた歩の顔色が、清々しい顔つきへ変わった。

 それを見て、志賀は答える。

「なら、十二月までの期間、特別に練習時間を考慮しよう」

「良いんですか?」

「ああ、君が選んだ道を俺は妨げたりはしない。俺とは別の道へ行くのも悪くない。陸上以外のことをやるもの案外、陸上に対してプラスになることもあるかもしれん」

「俺とは別の道って、もしかしてイカ天って……」

「ははは、口が滑ったな。昔ね、イカ天ばっかり食っていた時期があってさ、ついたあだ名がイカ天。シガとイカってなんか似ているだろう。まぁ君は若い。どんな道へ行ってもまだまだ詰むことはないぞ」

 志賀はポンと歩の頭を撫でた。

 日差しに照らされ続けた歩の頭は、燃えるように熱くなっていた。


 志賀と話した結果、歩は八月から、フットサルの練習に参加できるような、練習メニューに変えてもらった。

 万代スポーツクラブのジムの方へは、何度か足を運んでいたが、屋上のフットサルコートに足を運んだのは、夏休みに入って初めてであった。

 練習開始時間より四十分以上も前であったが、早く行って練習しようと思っていた。

 着替えてコートに行くと、ちょうど出てくる明彦とすれ違う。

 明彦は歩の姿を見て言う。

「お、歩か。なんだどうした? 今日は練習に参加できるのか?」

「はい。今度からスクールが終わるまで、陸上の練習時間を考慮してもらったんです」

「そうかぁ。良かったな、それに今日は皆やる気があるみたいだな。安心したよ」

 それを聞いた歩はコートを眺める。そして、誰もいないことに気が付き、怪訝そうな顔つきで答える。

「え、あの、まだ誰も来てないみたいですけど」

「今はな、さっきまで栞がいたんだよ。ちょっと出て行ったんだが、直ぐに帰ってくるだろう」

「そうなんですか」

「ボールは勝手に出して、練習していて良いぞ。僕はちょっと事務室行って来るから、何かあったら呼んでくれ。まぁ、直ぐに戻って来ると思うけど」

 明彦はそう言うと、階段を下りて消えていった。

 歩はコートに入り、ボールを用具室から出し、ゴールに向かって、何本もシュート練習を繰り返していた。

 無人のゴールに、歩の放ったシュートが心地よくネットを揺らした。

 ちょうどその時、葵がコートに到着した。葵の瞳は大きく見開かれている。

 葵はびっくりした口調で尋ねてきた。

「あれ、アユっち部活は良いの?」

 歩は振り返って答える。

「うん。あたしはこのスクールが終わるまで、皆とフットサルをする。後悔したくないからな!」

 パッと花が咲いたように、葵は笑顔になった。

「そうなんだ。よぉし、ウチがキーパーするから、どんどん打って来てよ」

 二人はそうして練習を始めた――。

 


 【唯】

唯にとってフットサルは特別だった。彼女は令嬢ということで、クラスメイトから敬遠され友達がいなかった。だから、大抵は一人ぼっちである。

前にも少し述べたが、彼女の両親はとても忙しく、あまり家にいないため、家でも一人で過ごすことが多いのだ。学校から帰れば、家政婦の用意した食事を食べ、家庭教師に勉強を見てもらい、その後の自由時間は一人で本を読んだり、テレビを見たりして一日を終える。

 良く言えば、他人に変に気を使わず、決められたレールの上をただ走るだけなので楽である。だが悪く言えば、いつも一人なので恐ろしく寂しい。そんな生活の連続だった。この生活を変えたのがフットサルだった。

 フットサルを始め、唯には友達ができた。栞、香織、歩、葵の四人だ。同世代の人間とここまで親しくなったのは初めてで、当初はどう接して良いのか分からず、出る言葉は最低限の言葉しかなかった。

 それが今ではきちんと自分で意見も言えるし、皆と一緒にフットサルができてとても楽しいと思えた。唯はこういう生活がずっと続けば良いと思いながら、ある記憶を思い返していた。

練習試合が始まる前、唯は栞と更衣室内にいた。あの時、唯は栞に対し「サッカーのどんなこところが好き?」なのか聞いた。帰ってきた答えは「ドリブルで相手をかわした時」だった。

 これと全く同じ答えを、唯は過去に一度、別の人間から聞いていた。それは少し前の記憶だった。

 夏目製菓という新潟が誇る大企業の中に、唯と唯の兄である弘は生まれた。特に弘は夏目製菓の長男として、次期社長候補であり、その時点で彼が歩む未来の道は、著しく制限されている。

 弘は小学生の時、この大企業を継ぐ気持ちは全くなかった。サッカーをしていたからである。

 自分は将来サッカー選手になるのだと、言い聞かせていた。しかし、成長して行くにつれて弘は、自分が背負っている宿命の重さを知り、サッカーを追うということを諦めたのだった。

 なぜ弘がそういった決断に至ったのかを、唯は詳しく知らない。ただ、弘は幼いながらも、自分の境遇を知り、考え抜いた結果サッカーとは縁を切ったのだと理解していた。

 弘の現役最後の試合は、中学三年生の時だった。新人戦を兼ねた春季サッカー大会の新潟県大会の予選会である。

 受験をする人間の多くは、二年時の大会が終了後に引退をするが、弘は三年まで残ってサッカーをするという道を選んだ。弘には、受験後にサッカーの道はなく、残っているのは中学の今だけだったからだ。

 

 弘が所属していた、付属中学サッカー部は全く強くない。弱小の部類に位置する。そんな中、弘はチームのエースストライカーだった。

 あの試合の前日、唯はサッカーをする兄に対して、一つの質問を投げかけた。

 それが、栞に聞いたものと同じ「サッカーのどこが好きか?」という質問だ。弘は栞と同じで、相手を抜いた時だと言った。

 唯はゴールを決めるか、それに近い行為をすることが最も快感の時なんだろうと感じていたが、全く違う返答が返って来たので、サッカーに対して興味が湧いた。そのため、それまで兄のサッカーの試合をほとんど見に行ったことがなかったが、最後の試合は行って見ようと思っていた。

 春季大会ということで五月に行われたというのに、その日は季節外れに暑かった。

 県予選一回戦ということで、ある中学のグラウンドを使い行われた試合は、付属中の惨敗であった。

 〇対八――。

とてもサッカーとは思えない、大差がついた試合であった。試合が終わった後、唯は泣いている弘の姿をはっきりと見た。暑さの為の汗とも思えるが、弘は確実に泣いていたのだ。唯はその姿をみて、弘のことが不憫で仕方がなかった。

『子は親を選べない』

 そんな言葉をよく耳にする。

 弘と唯は、世間から見れば大変に裕福な家庭に生まれ、生涯金に窮することはないであろう。しかし、そういった生活は、自由を犠牲にして手にしていると唯は思っていた。

 事実、弘はその裕福な家庭を維持するため、サッカーを諦めたのだ。

 試合が終わり、二人は家に帰った。

 家に着き、夕食を終えると、唯は弘の部屋へ向かった。

 ノックをし、弘の部屋に入ると、疲れているのか、弘は既にベッドの中にいた。布団にくるまれ、芋虫のようになった弘に向かって唯は言った。

「兄さん。本当にサッカーをしなくても良いんですか?」

 弘からの返答はなかった。

「…………」

「兄さん。後悔はしないんですか?」

「……後悔はするさ」

 布団越しだったため、こもった声が聞こえた。

「だったら、サッカーを続けたら良いじゃないですか」

 弘は体を起こし、布団から出てきた。

「サッカーを選んだとしても後悔はするよ」

「どうしてですか?」

「この決断は、どちらも後悔なしでは進めないよ。それに、僕はもうサッカーは辞めると決めたんだ」

「で、でも。本当はやりたいんじゃないんですか?」

「二兎追うもの一兎をも得ずさ。経営者をやりながら、プロサッカーはできないよ」

「で、でも……」

「僕のことは大丈夫さ。心配しないで」

 唯は涙が溢れてきた。弘はもそっと起き上がり唯の涙を拭いてやった。

 しばしの沈黙があった。心を落ち着かせるように唯は、泣きやみ静かに尋ねた。

「兄さん」

「なんだい?」

「今日の試合楽しかったですか?」

「ああ、楽しかったよ」

「負けてしまったのにですか?」

「そうだね、でも僕は何度も相手のディフェンダーを抜けたから、楽しかったんだよ」

「点を決めないのに楽しいのって変じゃないんですか?」

「分からない。人それぞれ違うんじゃないかな? 唯もサッカーをやってみるかい? 意外に楽しいかもしれないし、僕が感じた意味が分かるかもしれないよ」

「サッカーですか?」

「そうさ。今は女の子でもサッカーをやっている人は結構多いだろう。僕の代わりってわけじゃないけれど、唯がサッカーをしてくれると僕は嬉しいよ」

「でも小学校の部活に今更入っても仕方がないんじゃないんですか? もう六年生ですし」

「そうだね、でもちょっと待っていて。もし唯がサッカーをしたいのであれば考えがあるんだよ。ちょっと時間が掛かるかもしれないんだけど」

唯には弘の言っていることが良く分からなかった。

 当時、唯は小学六年生であった。そのため、小学六年生を対象とした大会は、もう目の前に迫っており、今更入部したところでほとんど意味はないのだ。

 答えが分かったのは、それから半年以上経ってからのことだった。唯は卒業を間近に控え、弘がしてくれたサッカーの話もすっかり忘れていた。

 

 卒業式を無事に終え、唯は自宅へ帰って来た。だだっ広いリビングに置かれている、レザーのソファーに腰を掛けると、家政婦がお茶を出してくれた。

 それを飲んでいる時のことだった。にこにこした弘が、唯の前に現れた。

 弘は唯の隣に座り、家政婦からカップに注がれたお茶を受け取り、それを一口飲み、言った。

「卒業おめでとう。これで唯も中学生だね」

 唯は答えた。

「はい、ありがとうございます」

「今日は父さんも母さんも、お祖父さんもこっちへ戻って来て、お祝いをしてくれるみたいだよ。皆で揃うのは本当に久しぶりだね」

「はい」

「それでだ、ずっと前だけどサッカーの話をしたことを覚えてる?」

 唯は良く覚えていなかった。

「サッカーですか……?」

「そう。僕が引退を決めた時、唯もサッカーをしてみたいと言ったことがあったろう?」

 そこまで言われて、唯はその出来事を思い出した。

「はい、確かにそんなことを言いました。でも、女の子がサッカーをする環境があるんですか? 私はもう中学生になりますし、中学のサッカー部には男子しか入部できないんじゃないんですか?」

「ああ。もちろん。小学生なら女子も入部できるクラブは多いけど、中学は無理だろうね」

「だったら、どうやって」

「簡単さ。女の子でも入れるクラブを創れば良いんだよ」

「創る……ですか?」

「うん。去年の冬に、駅前に万代スポーツクラブっていう大きいスポーツクラブができただろう」

「はい。夏目製菓の関連会社が創設されたスポーツクラブですよね?」

「ああ、そうなんだ。あそこのオーナーが誰だか知っているかい?」

「ええと確か、叔父さんの稔さんでしたっけ?」

 稔というのは、唯や弘の父である勉の弟である。

 この稔という人間は少し厄介な人間で、夏目家に生まれた宿命と最後まで戦い続けた人間でもあった。しかし、結局は夢を諦めざるを得なかった。

 このようなことがあり、同じような境遇を経験した弘は、稔に尊敬の念に近い何かを抱いていたのだ。

 弘は答える。

「そう、稔叔父さんがやってる。そこのスポーツクラブで春からフットサルっていう五人制のサッカースクールを作ることになった。そこなら女の子も入会できるんだよ」

 唯は、やけに都合良くそんなスクールができたものだと思っていた。

「あ、あの、もしかしてそれは……兄さんが」

「うん。僕が作ってくれって頼んだんだ。でも、叔父さんも快く承諾してくれたよ。まぁ唯も楽しんでくれよ。僕からの卒業祝いだよ」

「は、はぁ、ありがとうございます」

 弘にはこういうところがある。

 それは御曹司として育ったことの弊害なのか、すこし押しつけがましいというか、有難迷惑というか、とにかく突っ走ると周りが見えなくなるのだ。

 唯は決して、サッカーがしたくてたまらないから、創ってほしいと懇願したわけではない。あくまで弘を慰めるため、話の流れでサッカーをしてみたいと言ったのであった。

 それがよもや、こんなに拡大発展するとは思ってもみなかった。恐らく稔にも、かなり影響されているであろう。稔も、こういった夢追い型人間が大好きなのだ。だから、基本的に弘とはウマが合うに違いないはずだ。

 そこまで考えると、逆に可笑しくなって、弘のことがとても可愛く思えた。

 唯は答える。

「あの、入るのは良いんですけど、私は全くサッカーをしたことがないんですよ。それでも大丈夫なんでしょうか?」

「大丈夫、そうだと思って、クラスを三つ創ったんだ」

「三つですか?」

「うん、初心者と、中級者、上級者の三つだよ。だから唯は、初心者に入れば大丈夫なはずさ」

「人数とかは大丈夫なんでしょうか? ああいうスクールって定員とかがあるじゃないですか?」

「問題ないよ。仮に人数が少ないとしても、それもなんとかするから」

「は、はぁ……」

 弘の顔は、ギラギラとやる気で輝いていた。


「人数が足りない」このセリフをどこかで聞いたようなことがないであろうか?

 そう、唯が入会する初心者コースは、人の集まりが悪かった。それでも唯が知らない間に、葵らのおかげでようやく定員に達したのだ。しかし、練習開始当日、半分の生徒がバックレて、試合ギリギリの五人だけになってしまった。

 このままでは開講が危ぶまれるという時に、再び現れたのが、稔と弘だった。彼らは、定員が五人であってもスクール開講を強行突破させた。五人でも、なぜか教室が開講されたのは、二人の尽力が大きい。ちなみに、十二月に行われることになった大会を考えたのも、彼らである。

 この有難迷惑極まりない、二人の常軌を逸した行為が、後に少女たち五人を大きく成長させることになるのだから、人生というものは不思議なものである。

 こうして、晴れて唯はフットサルを始められたのであった。唯は弘とは違いディフェンダーとなった。


 記念すべき、練習第一回目の日、集まったのは全員が女子であり、唯以外は皆万代中学の生徒であった。

 もしかして、これも弘らの策略かと疑念を抱いたが、どうやらそうでなく、彼女らは栞という少女にサッカーさせてあげたくて、皆で協力して入ったのだそうだ。

 なんとまぁ、弘らが好きそうな話である。唯は、絶対に弘には言うまいと心に誓った。

 当初、唯はあまりフットサルに対して前向きではなかったが、そんな考えは直ぐに吹き飛んだ。やってみると意外に楽しかったからだ。

 唯は弘のように誰かを抜くのではなく、誰かを止めたり、作戦を練ったりすることの方が好きであった。


 ある日の練習で栞対葵、香織、唯でミニゲームを行ったことがあった。あの時、唯らは三人であるのにもかかわらず、防戦一方であった。

 そのピンチを救ったのが唯であった。唯は防戦一方でありながら、必死に栞の癖や弱点を探していた。そして、ある作戦を思いつき、見事それを成功させたのだ。

 この経験が自信につながり、唯はフットサルがどんどん好きになった。しかし、直ぐにそんな自信が揺らぐ事件が起こる。

 そう、それは新経大との練習試合である。

 あの試合、唯は前半の出来を見て、勝てると思っていた。栞は群を抜いて上手いし、唯自身も何度もピンチを防いだ。だがそれは、前半までだった。

 後半から投入された十番の選手により、万代フットサルクラブはあっという間に惨敗した。

 誰か一人が、上手くてもダメだ。

 誰か一人が、ピンチを防いだってダメだ。

 誰か一人が、パスを送ってもダメだ。

 誰か一人が、走り続けてもダメだ。

 誰か一人が、シュートを弾いてもダメだ。

 サッカーは、一人ではできない。チームでプレーする競技である。個人がいくら突出していたってダメなのだ。

 唯は心の底から悔しかった。だが、同時にここまで悔しいと思えたのは、自分が本気であったからだとも思った。

 成行きで入会したが、今ではフットサルが切っても切れない生活の一部に変わったことに気が付いた。そして、このチームで勝ちたいと強く願った。

 時間はもう少ない。フットサルのスクールは半年間しかない。この半年が終われば皆、どうなるのか分からない。恐らく、辞めてしまうだろう。

事実、練習試合後、香織は一度も練習に来ていないし、夏休み入ったら、歩が本業の陸上部の練習のため来られなくなったと言っていたではないか。

皆、それぞれの生活がある。良いではないか、結局、弘が勝手に押し付けたスクールだ。それなのに、唯は辞めたいとは全く思えなかった。皆で勝ちたい。なんの偶然なのか分からないが、導かれるように集まった五人なのだ。

 残り三カ月半。最後は笑って終わりたいと心の底から願った。

 

 八月上旬。唯は、万代スポーツクラブへ向かう。

 いつもは、車で送り迎えをしてもらっているが、自転車を借り、それで行くことにした。体力を付けようと思ったのだ。しかし、慣れぬ自転車を使用したため、いつもの倍以上の時間がかかり、練習時間ギリギリにスポーツクラブに到着した。

 ウエアに着替え、シューズを履き、大急ぎで仕度をする。そこで、皆はちゃんと練習に来ているのだろうかと不安になった。自分だけ気合が空回りしているのではないか? いや、そんなことを考えている暇はない。自分が決めた道をただ進むだけなんだ。

 唯は屋上のコートの扉を開く。意外な光景が目に映った。コート内には、なんと全員が集まっているではないか。

 少し遅れてきた唯の姿を、皆が発見する。

「お、やっと来た。良かった。休みかと思った」と栞が言った。

「遅いぞぉ。こりゃ罰金だな」と葵が言う。

「お前もたまに遅刻するだろ」と歩が言う。

「唯ちゃん。早く、練習始まるよ」と香織が言う。

「よーし、全員揃ったな、じゃあ練習はじめるぞぉ」と明彦が言う。

 緑色のコート内、白で描かれたセンターサークル内に全員が集合する。全員揃ったのは、何日ぶりであろうか?

 明彦の掛け声と共に練習が始まった――。



【明彦】

 少女たち五人の様子が変わった。それは、小さな変化なのかもしれない。しかし、短い間ではあるが、少女たちの姿を眺め指導してきた明彦には、その変化を見極めるのは容易なことだった。

 一時期はどうなることかと思っていた。香織が休み続け、歩が陸上部の練習に行かなければならなくなり、三人での練習になった時期もあった。

 ミニゲームも難しいので、明彦が入った二対二を行ったり、ひたすらシュート練習をしたりしていたのだ。

 それが、八月の最初の練習から、一変した。まるで蝶が蛹から成虫に生まれ変わり、まだ見ぬ世界へ飛び出して行くように、彼女たちは変わり始めたのだ。

 一体、何があったのか、明彦には良く分からない。年頃の女の子は大人になるのが早い分、変わる時も早いのだろうと、明彦は考えていた。

 ある日、明彦は彼女達が変わった理由にようやく気が付いた。

 栞を始め、全員から戦術についての指導をしてほしいと言われ、理由を聞いた時のことだった。

 彼女たちは十二月に行われる、フットサルの大会を目標としていた。同時にこの大会は、彼女たちにとって最後の大会でもあった。故に、この大会にかける意気込みは、相当なものがあり、練習にも熱が入ったのだ。

 戦術を教えるにも、それぞれにどのような役割があるのかということを説明する必要がある。明彦は、戦術を教える前に、各々が担う役割と、プレースタイルの提案を行い、適性を見極めた上、チームに適した戦術を教えることにした。

 戦術と言っても様々ある。カウンター。サイドアタック。ゾーンプレス。だが、それらすべてをそつなくこなして行くにはあまりに時間が足りない。そのため、明彦は少女たちにカウンター攻撃を中心に教えることにした。

技術的な面でハンデが多い万代フットサルクラブは、試合中かなり劣性を強いられるはずである。故に、劣性の中訪れる数少ないチャンスをものにするには、カウンター攻撃が一番効果的なのだ。

 

 栞にはチームの核としてポストプレー、パス、シュート、オールラウンダーに活躍してもらう。

 歩は、持ち前の体力や、スピードを生かし、スペースを創ったり、ライン際からセンタリングを上げたりしてもらう。

 香織はパサーだ。栞が楔で落としたボールや、歩が動いて生まれたスペースに、正確にパスを出してもらう。

 唯は、ディフェンスの要として、葵と協力し、相手の攻撃を防いでもらう。

 葵は、最後の砦として、ボールを弾き返す役割と、もう一つ重要な役割がある。

 重要な役割はカウンターの起点になってもらうということだ。フットサルはコートが小さい。故にキーパーを起点とした、流れるようなパスワークでのカウンターが効果的だ。つまりキーパーがボールをキャッチし、数秒後にはゴールしているということだってあり得るのだ。

 少女らは各々の特性を生かし、少しずつ戦術の理解を高め努力を重ねていった。

 彼女たちにとって運が良かったのは、毎週土曜日に、新経大のサークルや、蒲原FCや、万代FCの小学生たちが合同で練習に参加してくれたということである。

 これにより、試合形式で練習を行うことができたので、少女たちは次第に、役割を意識し、自分たちのフットサルを作り上げて行ったのであった。

 夏を越え、秋ももうすぐ終わるという頃には、見違える程成長を見せた少女たちがいた。

 栞は、左足に固執したプレー、強引なドリブルを止め、他を生かし、空いたところで自分が行くというプレーに切り替えたため、恐ろしくプレーの幅が広がった。同年代の女子の中で栞とタメを張ってプレーできる人間は、そう多くはないだろう。

 香織は、ボールを怖がることがなくなった。時間が掛かったが、しっかりとボールを止め、空いたスペースに正確にボールを供給することができるようになった。

 歩は、体力、スピードを武器にオフェンスでは相手の裏に飛び出すプレーをしたり、ディフェンスでは粘り強く相手をマンマークし、ボールを奪取したりと活躍した。

 唯は、読みを生かしたディフェンスを練習し、一対一では栞が相手でも引き下がらないくらいに成長を見せた。

 葵は、不用意な飛び出しや、簡単に抜かれたりすることがなくなった。さらに持ち前の明るさを生かし、後方から指示を与えたり、チームを鼓舞したりと、チームのムードメーカーとして成長した。


 サッカーは、それぞれの得意性を生かし、研磨されたチームプレーから、ファンタジーなプレーが生まれるのだ。

 見違えるほど成長した少女たちの姿を、コートの外から、明彦は眺めていた。

 順風満帆に見える、万代フットサルクラブに、唯一穴があるとすれば、それは明彦の心情であった。

 明彦の心は、大きく揺れていた。

 自分は引退を余儀なくされてから、何一つ変わっていないのではないのだろうか? 進化した少女たちの姿に、プロを志し懸命に努力を重ねていた頃の、自分の姿を重ね合せた。

 自分は本当にこのままで良いのであろうか?

「プロになれる選手は少ない」いつだったか明彦は栞に対して、そんなことを言ったことがあった。しかし、プロになれる選手というものは、毎年確実に存在しているのだ。

 年齢、出身だって千差万別である。

 十八歳の高校出身の若い選手もいれば、大学を出て、社会人を経験したのち、二三、四歳でプロデビューを果たす人もいるだろう。

 また、直ぐにレギュラーを勝ち取り試合に出場し続ける選手もいれば、万年ベンチ外の選手だっているわけだ。明彦はもうすぐ二十四歳になる。確かに、プロ選手の中で二十四歳という年齢は決して若くない。

 海外で経験を積む選手の中に二十四歳なんてザラにいるし、国内でも二十四歳で活躍をしている人間は珍しくない。だが、世間一般的な目から見れば、明彦の年齢はまだ何かを諦めるという年齢ではない。

 どちらかと言えば、まだまだこれからだし、いくらでもやり直しが利く年代だ。プロをもう一度目指すことだってできるだろうし、このままコーチの道を歩むことだってできるだろう。または全く異業種に移ることだって可能だろう。

 若く、選ぶことのできる選択肢が多い分、明彦の心は揺れていたのであった。


 今思えば、不思議な一年であった。

 一年前の今頃は、まだプロとしてJリーグというプロリーグの選手として、明彦は存在していていたのだ。しかし、シーズン終わりの十一月下旬、戦力外通告を言い渡され、その後の合同トライアウトにも受からなかった。

 その後は、サッカーを辞めるため、新潟に戻り、二カ月間印刷所に勤めた。だが、結局はこうしてサッカーに携わっているのだ。

 きっとサッカーとは縁を切れないであろうと、明彦は考えていた。


 初心者コースの指導を終え、栞らが帰った後、明彦は、屋上コート内の整備と片付けを黙々と行っていた。

 今日は誰もコートの申請を出していなかったため、コートには明彦しかいなかった。

 新潟駅の喧騒の真っただ中に建っているというのに、まるでそこだけが切り取られたかのように、屋上内は静まり返っている。

 耳を澄ますと下の方から、僅かだが喧騒が沸き上がってくるように聞こえている。そんな中、明彦の前に珍しい人物が現れたのである。

 それは夏目 稔であった。

 稔はこのスポーツクラブのオーナーであるが、オーナーと言うものは名ばかりであり、別にスポーツクラブの館長が存在しているため仕事内容は雑務中心である。

 以前、少し彼については触れたが、稔は別に夢を追いかけ、夏目グループという大企業を継ぐ気持ちが無かった。そのため、大学だって出ていないし、経営について特に学んだわけではない。だから、本来はこのような地位に立てるはずの無い人間である。

 彼の地位を作り上げているのは、社長である夏目 勉の弟だということだけであった。

 ちょうど、明彦が片付けを終え、事務室に戻ろうとした時のことだった。珍しくオーナーである稔が、屋上にやって来ていた。

 明彦は、どうもこのオーナーが良く分からないで困っていた。いつもどこにいるのか良く分からない。けれど、この人物のおかげで自分は採用され、フットサルのコーチを行えるのだということは、風の噂で聞いていたのだ。

 稔は明彦の姿を見つけると、手を振りながら近づいて来た。

「やぁ、与謝野コーチ、久しぶり。元気にやってるかい?」

 明彦は、やや緊張しながら答える。

「は、はぁ、おかげさまで。なんとかコーチとしてやっていますよ」

「そうか、それなら良いんだ」

「ええと、何か御用でしょうか?」

「あ、いやいや、そういうんじゃないんだ。ただね。最近フットサルスクールを見ているとね。活気が違うんだなぁ。一体どういった魔法を使ったんだい?」

「活気ですか?」

「そうなんだ。初心者コースは人数がギリギリだろう。だから、最初はそれほど活気づいたクラスではなかった。それが今ではこうして一番活気のあるクラスになっている。いやぁ流石は与謝野コーチだ。私の目に狂いはなかったよ」

「いつも、ご覧になっていたのですか?」

「いやいや、いつもってわけじゃないんだけどね。まぁね姪が在籍しているから、たまに見させてもらっていたんだ」

 明彦は、唯が夏目グループの令嬢であるということを知っているが、彼女に対し贔屓をするということは無かった。

 稔にもそう言われたし、唯自身にも入会前にそう言われていたからだ。

「僕は、オーナーや唯ちゃん本人に特別扱いはしないでくれと言われ、普通に扱ってきたつもりです。でも、これは決してお世辞ではないんですけど、僕は唯ちゃんには才能があると思いますよ」

 稔は、顎を擦りながら頷き答えた。

「そうか、唯にそんな才能があるとは驚きだ。しかし、皮肉なものだよ」

「皮肉……ですか?」

「そうだよ。皮肉だ。立ち話が過ぎたね、少し座らないかな?」

 明彦と稔は空いたベンチに腰を下ろした。そして、再び稔が言った。

「唯には、才能があると言ったね。けれど、唯はその才能を生かせないだろう」

 明彦は目を細め、訝しそうに尋ねる。

「生かせない? 何故ですか?」

「唯を始め、夏目の家に生まれついた人間は、その段階で激しく生き方を制限されるんだよ」

「制限ですか?」

「そう。私の兄はね、現夏目グループの社長だ。そして私の父は現会長だよ。そんな立場の人間の下に入るとね、もう普通には生きられないよ。唯だってそうだろう。唯がフットサルを伸び伸びとできるのは、今の今しかない」

「そ、そうなんですか。残念ですね……」

「いやぁ。それは仕方のないことだ。唯だって自覚しているだろう。だから今を精一杯楽しみたいんだよ。まぁ、そんなことをわざわざ言いに来たわけじゃ無いんだよ」

「え、どういうことですか?」

「私はね、自分の夢を最後まで追い続けていたし、そう言う人間の姿を、本当に数多く見てきたんだ。もしかしたら、それが影響して目が肥えたのかもしれないね。まぁ、結局はこうして夏目家に厄介になっているんだから、どんなに風当たりが強かろうと偉そうなことは言えないんだがね」

「は、はぁ……」

「最近のフットサルスクールの少女たちは無垢だよ。目標に向かい、皆一心不乱で努力している。そんな姿を見るのが私は大好きでね」

 明彦は絞り出すように声を出した。

「そ、そうですか。僕も、彼女たちの姿を見ると、む、昔を思い出しますよ」

 稔は明彦の方は一切見ないで、屋上から見える朱鷺メッセ (新潟市中央区に建っている三一階建の高層ビル) を眺めながら答えた。

「君は良いのかい?」

「え?」

「君は、夢を諦めてしまって良いのかと聞いているんだ」

「夢ですか?」

「私は君を採用した時、既に夢を諦め、逆に今まで追ってきた夢に恩返しをするつもりで、この業界に入ったのだと思っていたよ。だけどそれは違うようだと、最近になって気が付いた。本当はもっと早く気が付くべきだったね」

 明彦の背中に、冷たい汗が流れた。

「ど、どういうことですか?」

「どうやら君は、まだプロを諦めたわけじゃ無いようだ。そうだろう、まだ君は若い。もう一度挑戦するべきだろう」

 プロと言う言葉を聞き、明彦の心は震えた。

「で、でもぼ、僕は……」

「私はプロサッカーについて詳しく知らない。けれど、一月に合同トライアウト (トライアウトをJリーグと選手会が合同で運営し、自由契約者を対象とするトライアウトのこと) とやらがあるそうじゃないか」

「今更、もう無理ですよ。ブランクが一年ありますし」

「そうかね、一月と言ったらまだ三カ月も先じゃないか。それに君にはこの施設の設備を自由に使えるだろう。遅くはないよ。第一、お節介かもしれないが、私は君にまだ夢を諦めて欲しくない」

「夢……」

「そう、君には夢を諦める理由がない! 私たちとは違うじゃないか。追い続けられる立場にいるんだ。なのに、それをどうして追わない? 今追わなきゃ、きっと後悔するぞ。君は後に現れるその後悔に耐えられるのかい?」

「で、でも自分にはここのコーチがありますし……それに雑務だって」

「練習は週二回だし、四六時中雑務に追われているわけではないだろう? 練習時間ならいくらだって取れる。例えば、今だって練習しようと思えば練習できないかい?」

「は、はぁ」

 稔は立ち上がり、明彦に微笑みかけ答える。

「まぁ、最後に答えを出すのは君だ。だが、最後に背中を押してやりたくてね。後は君一人で歩いて行けるだろう」

 そう言い残し、稔は屋上から去って行く。

 屋上は再び、明彦一人になる。ざっと屋上を見渡すと、ゴールポストの隅に一つ、ボールが隠れていた。影になって目に入らなかったのだろう。

 明彦はそのボールに向かって歩く。そしてボールを手に取り、軽く蹴り上げる。ボールを足で器用にリフティングをしながら、センターサークル付近まで、ゆっくりと進む。

 突如、ボールを自分の背丈の倍ほどまで蹴り上げて、落ちてくるボールに合わせ、ゴールに向かい、ダイレクトボレーでシュートを放つ。

 鋭いシュートがゴールを襲う。真上から来たボールをボレーでシュートすると強烈なドライブ回転が掛かるのだ。結果、明彦の放ったシュートはゴールネットを揺らしても、激しく余韻を残す鮮烈なものであった。

このドライブシュートはある漫画の影響で、一時期ブームになり、明彦がサッカーをするきっかけとなった、思い出深いシュートでもあった。

「プロ……か」

 明彦は誰もいないコートの上でそう呟いた――。

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