ファンタジスタ・ガールズ
第二章
フットサルスクールは無事定員に達し、めでたく開講されることになった……のだが。
閑散とした広いコートの中で葵が叫ぶ。
「おい、なんでこんなことになってるんだぁ」
恐ろしいことが起きたのだ。なんと、入会の手続きをしていた小学生の5人組が突如バックレてしまったのである。
再び葵が言う。
「ねぇ、先生。人数少なくなっちゃったけど、開講とかできるの?」
先生というのは与謝野 明彦のことである。明彦が冷静に答える。
「え、まぁ。問題はないだろう」
「なんで? だって最低でも十人は必要なんでしょ?」
「俺にも詳しく分からないけど、理由を説明したらオーナーが承諾してくれたんだよ。だから五人でも問題なく開講できるというわけだ」
「要は大丈夫ってこと?」
「まぁね。問題って言ってもフットサルは五人で試合をするから、このスクール内でミニゲームとかができなくなったくらいかな」
このような経緯があり、現在、万代スポーツクラブのフットサル初心者コースは、栞、香織、歩、葵の万代中学の四人と、付属中の女の子が一人、合計五人でスタートすることになった。
明彦はコートの中央に一度全員を集合させ、点呼を取った後、話しを始めた。
「まぁこれから半年間、お互い一緒にやるわけだから、自己紹介をしようか。まず僕は与謝野 明彦、二十三歳だ。この四月からこの万代スポーツクラブで働いている。もちろんサッカー経験者で、君たちと同じ新潟市出身だ。指導経験はあまりないが、一所懸命頑張るつもりだ。それじゃ、そっちの方から自己紹介をしてもらおうか、と言っても君たち四人は万代中なんだよな。まぁ付属中の子もいるし、サッとで良いから頼む」
ちょうど端にいた、葵から自己紹介が始まる。
「え、ウチからか、えーと、三島 葵、万代中学一年、部活は調理部です。フットサルっていうか、スポーツはほとんどやったことないです。でも、頑張りまーす」
「万代中一年の谷崎 歩。陸上部所属。フットサル経験はありませんが、頑張ります」
「わ、私は万代中学の一年のも、森 香織です。葵ちゃんと同じで調理部に入ってます。よ、よろしくお願いします」
「ええと、幸田 栞です。万代中の一年。小学校の時、サッカーをやってました。よろしくお願いします」
とまぁ、ここまでは万代中の四人である。
残るは、付属中の女子生徒である。四人の視線が一斉に彼女に注がれる。華奢な体つきで背は低い。恐らく、百五十センチ無いだろう。シューズもウエアも新品のようで、黒髪のショートヘアーが風に吹かれてなびいている。
張りつめた空気の中、付属中の少女は全く臆することなく、自己紹介を始める。
「付属中一年、夏目 唯 (なつめ ゆい) サッカー経験なし 」
え、もう終わりという空気が万代中の四人の間に流れる。
明彦は特に気にせずに、自己紹介を切り上げ練習の話しをする。
「じゃあ、これから練習を始める。聞いた感じだと、幸田以外は未経験ってことで良いんだな。よし、じゃあ早速始めようか」
明彦はコート内にいくつかボールを転がす。
「まずは、ボールに慣れるってことから始める。二人一組になって、五メートル程離れて、二人でパスをし合う。幸田ちょっと良いか?」
明彦は栞を呼ぶ。
「今から幸田と僕が見本を見せる。幸田、インサイドでパスをくれ」
栞と明彦は五メートルほど離れ、向かい合わせになりパスを交換する。ボールを蹴る音がコート内に響き渡る。
二人の様子を、残りの四人は真剣に見ている。
「まず、君たちに覚えてもらいたいのは、ボールを蹴ってボールをしっかり止めるということだ。ボールを蹴る時はインサイドと言って足の内側の面、くるぶしの下くらいかな、そこの面でボールを蹴るんだ。反対に止める時は、足の裏を使って止めるんだ。よし、やってみよう」
二人一組で練習するため、栞と香織。歩と葵。明彦と唯で分かれることになった。
栞が香織に向かってゆっくりパスを出す。香織はコロコロと転がってきたボールを足の裏でパシっと止める。
「こ、こうで良いの?」
「うん。そしたら、足の内側の面でボールを蹴ってみて」
言われたとおり、香織は足の内側でボールを蹴り出す。亀のように緩やかなスピードだったが、ボールは正確に栞のもとに届いた。
「か、香織、もっと強くても良いよ。このくらいで」
栞は再び香織に向かって蹴る。ゆっくりだが香織が出したパスよりも速かった。香織は再び、足の裏でボールを止め、先程よりも強めにボールを蹴った。
「うん、良いじゃん。その感じで」
歩と葵も同じようにパスを交換し合った。
歩は運動をしているだけあって、要領が良いのか、二、三度蹴っただけでコツを覚え始めたようだった。反対に葵は、何度やってもボールがあっちへ行ったり、こっちへ行ったりと大変なことになっている。
「ねぇ。アユっち。なんでそんなに上手なの? コツは?」
「え、わかんない、なんて言うのかな? 足の内側の面で蹴るんでしょ。その時に蹴る足をしっかりと固定させると良いんじゃないかな?」
「なるへそ、固定ね。分かった」
足首をしっかり曲げ、固定させて放ったボールは、歩のもとへ正確に届いた。
「うん、そんな感じじゃないかな」
「さっすが~。よっ、アユっち天才!」
「そ、そんな、大声で言うなよな、あ、あたしは、当たり前のことを言ったんだ」
万代中の四人が和やかな雰囲気で練習をしている中、次の一組は少し違っていた。
明彦と、唯のペアである。
唯のパスを見て、明彦が言う。
「あれ、夏目はサッカーやってたのか?」
「やってない」
適度なスピードでボールは正確に、明彦の右足に飛ぶ。それよりも、サッカーを始めたばかりの人に良く見られる、あの独特の蹴り方が消えている。
「それにしちゃ上手いじゃないか。ちゃんと僕の利き足にボールを蹴るし、センス良いんじゃないか」
「そんなことない。利き足に蹴った方が、相手がやりやすいと思っただけ」
十五分程、二人一組のパスをした後、明彦が号令をかける。
「よーし、じゃあ次はドリブルの練習するぞ。こっちへ集まってくれ」
葵が言う。
「ねぇアッキー。シュートとかしないの。ほら中田みたいに」
明彦は妙なあだ名に驚く。
「ア、アッキー?」
「そ、明彦だからアッキー、あ、それともアッキーナの方が良い?」
「あのなぁ。一応先生なんだぞ。それと、シュート練習はこの次だ、今はドリブル練習」
明彦はコートに十×二十メートル程の小さなコートをミニコーンで作り、話し始める。
「次はドリブル練習。ドリブルっていうのは、足でボールをコントロールしながら保持する技術のことだ。フットサルはコートが狭いから、普通のサッカーのような長い距離をドリブルできない。でも、競技人数が少ない分、相手を一人かわせれば、チャンスを広げられる。そして、ボールに慣れるにはドリブル練習が、最も効果があるんだ。今コートにはミニコーンで小さなコートを作ってある。そこをドリブルしてもらう。ちょっと見本を見せるから見ていてくれ」
明彦はスピードに乗り、華麗にコートの端から端までをドリブルし戻ってくる。
それを見ていた葵が言う。
「うわぁアッキー、メッチャ上手いんだね。プロみたい」
明彦は答える。
「プ、プロみたいか……、ありがとう。これを今からやってもらう。最初は難しいからしっかりボールを見てドリブルするように、色んなところでボールを触るんだ。次第に慣れてきたら、顔を上げ、視野を広げながらボールをコントロールできるようになろう。じゃあ、経験者の幸田から」
言われた栞はコートの端に立ち、明彦の合図と共にドリブルを開始する。経験者であり、万代FCのエースストライカーであった栞はドリブルが得意であった。そのため、足にボールが吸い付いているようなドリブルをする。
それを見て、明彦が言う。
「うん、幸田は問題ないな。今日はしないけど、もう少し皆が慣れてきたら、障害物を置いてドリブル練習をする、その時はもっと緩急を付けたら、今よりも良くなると思うよ。じゃあ次」
次は葵だった。
明彦、栞の華麗なドリブルを見た後のため、葵のドリブルは余計にゆっくりと見える。さらに、ボールを上手くコントロールできないので、あっちへ行ったりこっちへ行ったりしながらドリブルをする。
「三島、もっと足の色んなところを使うんだ。甲、内側、外側、足の裏、全部使ってみよう」
「アッキーこりゃ難しいね」
「大丈夫、慣れれば誰でもできるようになるよ。じゃあ次」
葵の次は歩だ。
歩は負けず嫌いなので、今の自分の能力以上なことをしようとする。しかし、結果的にやりたいことと技術がかみ合っていないため、スピードは上がらない。
「谷崎、最初はゆっくりで良いんだ。ボールをしっかり見ながら、ボールのどこを触ればどう動くかを確認するようにやってごらん」
言われた歩は、スピードを落とし、足の様々な個所を使いドリブルをする。かなり無駄があり荒いが飲み込みが早い。
「おお、良いじゃないか。谷崎は覚えが早いな。上手いぞ、よし次」
歩の次は香織。
香織は葵以上に低スピードだ、ほとんどボールが動いていない。ちょっとボールが動いたら、直ぐに足の裏でボールを止めるからだ。
「もっとボールを動かしてみよう、失敗しても良いよ。ボールをしっかり見ながらゆっくりで良いんだ」
香織はちょんとボールを蹴り、それを追いかけ、足の裏で一度止める。止めたらまた蹴り出すを繰り返した。
「慣れてきたら、ボールを転がしながらコントロールしてみよう。よし、次」
最後は唯だ。
位置に着き、唯はドリブルを開始する。スピードは遅いが、ボールを巧みにコントロールしドリブルをしている。
「おお、良いぞ。その感じだ。慣れたらスピードを上げて行こう」
五人は繰り返し、ドリブル練習をする。皆向上力はバラバラだが、確実にステップアップはしている。
ドリブル練習が終わった後は十分程の休憩があり、シュート練習、簡単なミニゲームを行い、今日の練習は終わりを告げた。
帰る前に、コートの外にあるベンチでスポーツドリンクを飲みながら、五人は休むことになった。
葵が唯に向かって言う。
「ねぇ、夏目さんはサッカーとかやってたの?」
唯は答える。
「どうして?」
「え、なんかさ練習見てると上手だなって思って」
「やってない」
「そうなの。でも上手だよね~、コツとかあるの?」
唯は少し考え答える。
「どこで触るとどうなるか考えてやる」
「へぇ。なんか考えながらできるってすごいなぁ。ウチはボールを触ってるとなんにも分かんなくなっちゃうよ」
栞は葵と唯が話している横で、しょんぼりしている香織の姿を見つけ、声を掛けた。
「香織どうかした?」
香織は栞のことをチラっとみて答える。
「ううん。ただ、私一番下手だなぁって」
「そんなことないよ。最初からなんでも上手くできる人なんていないよ」
「でも、歩ちゃんとか、夏目さんとかはすごく上手になってた」
「夏目さんは良く分かんないけど、谷崎さんは陸上とかで運動に慣れてるからだよ。大丈夫だよ」
時間が八時を回ろうとしていたので五人は帰り支度をし、スポーツクラブを出る。
栞は香織と、葵は歩と、そして唯は一人でそれぞれの家路に着いた。
帰り道、葵が歩に向かって言う。
「ねぇ、アユっち、今日の部活は良かったの?」
歩は答える。
「まぁ今日はね、初日だし、用事があると言って休ませてもらったんだ。でも、毎週は厳しいかも。あたしは一応、本業は陸上だからね。だけど、土曜日は練習に行けるから、毎回参加するよ」
「そう、なんかゴメンね、忙しいのに、ホント迷惑じゃなかった?」
「迷惑? そんなことないよ。フットサル、やってみると意外と楽しかったし」
「あ、それちょっと分かる、なんか面白いよね。まぁウチは全然上手くないけど」
「だから……全然迷惑とかじゃないよ」
「うん、シオもめちゃくちゃ感謝してると思うよ。ああ、ウチが男だったら絶対アユっちみたいな子は放っておかないのになぁ」
「な、何言ってんだ。バ、バカじゃないのか、あたしはべ、別に」
「冗談だよ。あ、そうだアユっち、じゃがりこ食べる?」
「な! い、いらない」
「ホント~? ホントに良いのかなぁ?」
少しの間があり、顔を真っ赤にさせた歩が答える。
「……た、食べる」
歩と葵がコンビニでじゃがりこを買い食べている頃、栞は香織をマンションまで送って行った。
香織は言う。
「別に良かったのに」
栞は答える。
「ううん。別に通り道だし」
「でもこっちまで来ると、ちょっと遠回りじゃないの?」
「そうかな、多分同じ位だよ。ね、ねぇ香織、フットサルどうだった?」
「え、私は初めてだったから上手くできなかったけど、楽しかったよ。だから、もっと上手になったら、もっと楽しくなると思う」
「そ、それなら良いんだ」
栞の安堵した表情を見て、香織は言う。
「栞ちゃん、あんまり気にしないで。私たち別に無理して入ったわけじゃ無いよ。ちゃんと話し合って決めたことだから……」
「ありがとう、香織」
「うん。じゃあまた明日ね、気を付けて帰ってね」
歩と葵がじゃがりこを食べ終わり、栞が香織を送り家に着いた頃、駅にいた唯は迎えに来ていた車に乗り込み、車内から外の景色を眺めていた。
二十分程車を走らせると、郊外に建っている自宅へと到着した。唯が降車した先には、超豪邸が建っている。新潟県が誇る、超有名菓子メーカー夏目製菓の社長、夏目 勉の邸宅である。
現在、夏目製菓グループはJ1クラブであるアルビレックスのメインスポンサーであり、それが関係しスポーツ産業にも力を入れ始めている。今回の万代スポーツクラブも、その傘下企業の一つなのだ。
唯が家に着き、だだっ広いリビングで食事をしようとすると、新潟大学付属高校に在籍している兄である夏目 弘に会った。弘は長男のため、いわゆる御曹司というやつである。
弘は唯を見て言う。
「お帰り、フットサルはどうだった? 楽しいだろう」
唯は答える。
「はい。楽しかったです。」
「そう、それなら良かった。僕らには中学生までしか自由がないからね。今をしっかり楽しむと良いよ」
「でも兄さん、本当にサッカーをしなくて良いんですか? まだ高校生なのに……」
「ああ、僕はこの会社を継がなければならない。そのためには勉強をしないといけないないからね。僕のことは心配しないで」
季節は初夏を迎え、栞たちがフットサルを始めて一カ月が経とうとしていた。
春の穏やかだった気候は勢いを増し、日光を不快なものへ変え始めていた。
そんなある日の土曜日、万代スポーツクラブの屋上フットサルコートでは、今日も元気に少女たちがボールを追いかけていた。
明彦の声がコートに響き渡る。
「よーし、じゃあちょっと休憩、水を飲みながらで良いからこっちへ集まってくれ」
少女たちは、各々が用意したスポーツドリンクを飲み、タオルで汗を拭いながら、明彦の周りに集まった。
「実はな、来週の土曜日に練習試合をすることになった。一応、予定としては一五分ハーフの試合をやろうと思ってる」
試合という言葉を聞き、栞は目を輝かせて答える。
「え、試合! どことやるんですか?」
「えーとな、新潟経済大学の女子フットサルサークルとだ。なんでも今年創ったばかりのサークルらしくて、君たちのように初心者が多いみたいなんだ」
それを聞いた葵が、スポーツドリンクを飲みながら答える。
「ねぇ、アッキー。どっちから申し込んだの? ってか経緯は? もしかしてナンパ?」
「あのなぁ、そんなわけあるか、経緯は、ほら、ここってコートを貸し出してるだろう。それでそのサークルさんがコートを借りたいって申請に来たんだよ。その時に、ちらっと君たちのことを話したんだ。そしたら、是非試合やりませんかということになった。どうする?」
歩が答える。
「良いんじゃないか、向こうも女なんだろ、こっちもいつも基礎練習ばかりだから、練習の成果を試してみたいじゃん」
葵が歩の腹部を突っつきながら、小声で囁く。
「好戦的なのはよろしいですけど、負けても泣いちゃダメなんだぞ」
「う、うっさい、誰がそんなことで泣くんだ」
そんな二人の様子を見て、明彦が再び言う。
「香織ちゃんも、唯もそれで大丈夫か?」
香織が言う。
「は、はい。わ、私は大丈夫です」
唯が答える。
「右に同じ」
「じゃあ、そういうことだから、来週の土曜日、時間はいつもと同じだ。じゃあ、もう少し休憩したら、シュート練習するぞ」
休憩が終わると、シュート練習を行う。
シュート練習はゴールから二十メートルくらい離れたところから行い、真ん中にポストプレーヤーを置く。
シュートをする人 ( A ) は、一度ポストプレーヤー ( B ) にパスを当てる。
BはAがシュートしやすいところにもう一度パスをする。
Aは走り込み、ゴールに向かってシュートをする。
要するに、一度壁に当ててからシュートをするというものだ。
ポストプレーヤーは、もちろん明彦だ。少女たちのパスを、もう一度蹴りやすいところにパスをする。少女たちはそれをシュートする。その一連の流れを明彦は眺めていた。
フットサルスクールを始め、既に一カ月以上経っている。皆それなりにステップアップをしているが、問題も多い。
栞は相変わらず上手いが、彼女以外経験者がいないので、どうしてもレベルを合わせてプレーをしてしまう。後は、左足に対する固執したプレーだ。
香織は未だにボールを恐れている。しかも、一度ボールを完全に足の裏で止めないとプレーができないため、次のプレーに進むのに恐ろしく時間がかかる。
歩は運動部だけあって飲み込みは速いが、自分が所属している陸上部の練習に参加しなければならないため、週一回しか練習に参加できない。故に、飲み込みの速さが生かし切れていない。いつも一週間前の作業を思い出すという時間が必要になる。
葵は、とにかく明るいし元気が良い。それはプレーをする上でとても大切なことだし、チームのムードメーカーという存在は非常に重要だ。だがプレーが雑すぎる。香織のようにボールを怖がらないが、香織以上にボールをコントロールできない。
一人、格段に進化している人間を挙げるのだとすれば唯であろう。
唯はセンスが良い。もしかしたらこのクラスで一番良いかもしれない。技術力もかなり上がっている。栞はぶっちぎりだが、その次は間違いなく唯だ。だが、体よりも頭を使いがちだ。
通常、頭を働かせるより、体が自然と動くのが理想だが、不思議なことに唯は逆だ。まず頭を使い考える。だから、できる人間からすると、唯の次の行動はとても読みやすいのだ。
明彦はというと、指導経験がスクール開講前の研修の時しかないので、開始当初はあたふたしがちであったが、今は慣れ、一端のコーチ風体になっていた。
後は、少女たちを呼ぶ際に、名字から名前になった。
これはちなみに、明彦が始めたものではなく、葵が推奨した、名前で呼び合うとみんな仲良くなる作戦とやらのおかげである。
栞の左足のシュートがゴール右隅に決まったところで、今日の練習は終わりを告げる。
挨拶を終え、解散を宣言すると、明彦は歩を呼び止める。
歩は少し驚いて答える。
「なんですか?」
「歩は来週の水曜日、部活に出なきゃマズイか?」
「は、はい、一応。どうしてですか?」
「いや、来れないなら来れないで良いんだ。ただ、来週は、さっきも言ったように練習試合をするだろう、その関係で歩が来れれば、フォーメーションを確認したかったんだが、まぁ土曜日でも大丈夫だ。呼び止めて悪かった、じゃあオツカレサン」
少女たち五人が帰った後、コートの整備をし、備品を片付けながら、明彦は考えていた。
それは試合のポジションのことである。一番の問題は、誰をゴールキーパーにするかということであった。
明彦の中では、ゴールキーパーは運動神経の良い、歩が良いのではないかと考えていたが、一度もキーパーの練習なしに、キーパーをさせるのは忍びないと判断し、諦めることにしたのだ。
となると、次の候補は誰だ?
栞は絶対ダメだ。彼女をキーパーにしてしまうと、フィールドでボールを落ち着かせられなくなる。つまり、試合にならない恐れがあるのだ。
じゃあ、唯はどうだ?
唯もダメだ。あの正確なプレースタイルはキーパーとして使うにはもったいない。
香織……。
ボールを怖がる香織は、一番向いていないだろう。最悪、あの子はキーパーになったら、もう二度と練習に来ないかもしれない。
じゃあ、残るは葵だが。
葵はチームで一番背が高い、聞けば一六九センチあるそうだ。
背の高さはゴールキーパーをやる上で大きなメリットになる。背が高ければ空中戦も強いだろうし、手足も長いからボールを取りやすいのだが、葵は運動神経が鈍い。運動神経の高さが鈍いのは大きなハンデだ。
だが、選んではいられない。人数はギリギリなのだ。四人の中から考えれば葵が一番適任か……。試しにやってもらうか。明彦はそんな風に考えていた。
翌日の水曜日――。
歩以外の少女たちは、練習が始まるまでコート内に集まって雑談していた。そこに何やらビニール袋を抱えた明彦がやってくる。
「おーい、集まってくれ、少し話がある」
彼の声を聞き、少女たちは話すのを止め、明彦の周りへ集まってくる。全員が集合したのを確認し、明彦は告げる。
「まず、葵にはこれを渡そう。受け取ってくれ」
コートの中が色めき立つ。
「え、何々? なんでウチだけに?」
明彦は持っていたビニール袋から、新品のグローブを取り出し、葵に渡す。
キーパーグローブである。
「練習試合、キーパーは葵にやってもらう。でもキーパーグローブなんて持っていないだろ、みんな忙しいだろうし、僕が昨日買ってきたんだ」
葵はグローブを受け取り、早速はめてみる。どうやらサイズは問題がなかったようだ。グローブをはめた手を掲げ、葵が言う。
「ねぇ、アッキー。ウチさ、キーパーなんてしたことないけど良いの?」
「ああ。皆経験ないだろう。葵は背も高いし有利かなって思ってな。でも試合まで全くキーパーをさせないまま、迎えさせるのは忍びないから、今日のシュート練習の時にキーパーに入ってもらう。あと、簡単なルールも説明する」
「マジかぁ。ウチにできるかなぁ……」
二人一組のパス練習、コート内にコーンを一定間隔に置いて、そこをジグザグにドリブルしていくスラローム練習を行った後、シュート練習を行うことになった。
ゴールには言われたとおり、葵がグローブをはめゴールの前に立った。
明彦が葵以外の三人に言う。
「葵はキーパーするのが最初だ。強いシュートを打つよりも、弱くても良いから狙ったコースに正確にシュートをしてほしい。後、栞。君はインサイドキック限定で、しかも右足で打つんだ」
栞が答える。
「インサイドは良いけど、なんで右足なんですか?」
「君は左利きだろう、だからだよ。右足も同じように使えるようになった方が良い」
「わ、分かりました」
いつもどおり、明彦がポストプレーヤーとなり各々にパスを出す。
最初は栞だった。栞は右足のインサイドでシュートをする。栞とは思えないシュートが葵のもとへ飛んで行く。
葵は拍子抜けした顔をするが、きちんとボールをキャッチした。
次の番は香織だ。
香織のシュートは威力こそないが、正確に枠を捉えている。
ただ、ボールのスピードがゆっくりであるため、葵は容易にそれをキャッチする。しかし、唯の時はキャッチできなかった。
香織の時よりも強いシュートで、きっちりゴール右隅を狙っていたためだ。それでも、葵は懸命にボールを弾く。背が高い分、反応が遅れても、長い手足がカバーしてくれるのだ。
一連の流れを何周かさせたところで、明彦は一度練習を止め集合させる。
葵がうなだれて言う。
「アッキー、ウチ全然ダメだ、キャッチできないよ」
「いや、意外と良いじゃないか。フットサルのキーパーはキャッチする必要ない。最初は手をグーにして、とにかく弾けば良いよ。後は膝が棒立ちだから、もっと曲げて重心を低くすると、今よりももっと良くなると思う」
横から栞が言う。
「先生、あたしはまだ右足のまま?」
「うーん、よし、じゃあ左もOKにしよう。但しインサイドでな。それと、ちゃんと試合までに右足も使えるように練習しておくんだぞ」
「分かりました」
「よし、じゃあ香織ちゃんと、唯には必殺技を教えよう。シュートする時、つま先を使うんだ」
不思議そうに香織が答える。
「つま先ですか?」
「そう、つま先、トゥキックって言うんだ。今までのシュートよりも振りかぶる動作が少ないから、短い間隔で強力なシュートが打てる。コントロールが難しいんだが、非力な君たちには是非覚えてもらいたい」
「わ、分かりました」
練習が再開され、栞の左足から鋭いシュートが放たれる。最初は全く止められなかった葵も、次第にスピードに慣れ、キャッチできなくとも、弾き返すことはできるようになった。
葵はボールを恐れないため、案外キーパーに向いていたのかもしれない。
香織と、唯はトゥキックでシュートを放つ。唯は直ぐに使いこなし始めた。さらに、力の弱い香織でも、極稀に芯で捉えると、鋭いシュートが飛んで行くようになった。
シュート練習をいつもより長めに行い、最後に二対二のミニゲームを行うことになった。
チーム分けは、栞と香織、葵と唯である。ミニコーンで小さなコートを作り、その中でミニゲームが始まる。
本来は二対二のゲームであるが、実質的に栞対唯の戦いになった。
唯もなんとか食らい付いていたが、技術と力で勝る栞が圧倒的な力を見せ、十五分のゲームなのに五対〇と練習にならなかった。
そこで明彦はルールを変えた。一対三にしたのだ。もちろん、栞対香織、葵、唯である。さらに葵は、シュートに関しては手を使って止めても良いということになった。
当初、立て続けに栞に三点をあっという間に取られ、一対三でも相手にならないのではと、明彦を内心不安にさせたが、それを救ったのは唯であった。
唯は栞のある弱点に気が付いたのだった。
ボールがタッチラインを割り、一度プレーが切れたのを見計らい、唯は香織と葵を呼ぶ。
珍しい行為だったので、香織と葵は驚いていた。
「ねぇ、良いこと思いついた」
香織が言う。
「い、良いことって?」
「栞は右足でボールをあまり持たない。だから、右足のテクニックはそれほど上手くはない」
「ど、どういうこと?」
「香織と葵で上下に栞を挟んでほしい。その時、絶対に足を出さない。足を出すと、栞はテクニックがあるから簡単に抜かれる。だから、絶対に足を出さない。そうすると癖が現れる」
葵が言う。
「癖?」
「そう、癖がある。私はさっき栞と一対一をして感じた。栞は右足をほとんど使わないけど、確実に使う時がある。それはドリブルで相手を抜きに行く時。一度ボールを右足で持ってから、直ぐに左足に持ち替え、必ず左足から始める。だから、右足から左足にボールを切り替える瞬間、私が叩く」
それを聞いた香織は大きな目をして答える。
「す、すごいね、どうしてそんなことが、わ、分かるの?」
「すごくない、見ていただけ」
葵が言う。
「分かった。じゃあウチとカオリンはとにかくシオを挟めば良いわけね」
「挟めば良い」
「よし、カオリン、一丁やってやるか。ウチらだって一点くらい欲しいしね」
プレーが再開され、栞がボールを持った際、作戦は遂行された。
まず、葵が一目散に栞のボール目掛けて走る。もちろん、栞はそれを抜こうとする。しかし、いつものように葵が足を出し飛び込んで来ないので、一度ボールを左足で引く。
引いたところには香織が後ろから迫っていた。香織を簡単に抜こうとするが、足を出して来ないので、栞はこちらから仕掛けることにしたのだ。
一度ボールを右足に持ちかえる。そして、その右足から左足に切り替えようとした隙に、突然現れた唯がボールを掻っ攫う。一瞬の隙を、唯は見逃さなかった。唯はそのままドリブルをし、無人のゴールにボールを流し込んだ。
栞はレフティのため左足に固執したプレーを行う。レフティは右利きに比べ少数のため、一部のレフティたちは自分の利き足に信仰に近い何かを感じ、固執する人間が多くいる。プロの選手でもアルゼンチンの英雄ディエゴ・マラドーナが良い例であり、栞もそんなプレーをする一人であった。
故に、ドリブルで誰かを交わす時の最初の一歩は、右足でボールを保持していても必ず左足から始まる。この癖を唯に上手く突かれたのである。
三人は手を取り合って喜ぶ。その一連の流れを明彦は黙って見つめていた。そして唯の慧眼さに舌を巻いた。
それは彼の中で、大よそのポジジョンとフォーメーションが決まった瞬間でもあった。
あっという間に、練習試合の日がやってきた。
集合時間は、練習が始まる午後三時であったが、彼女たちは予め相談し、一時間早く集合することにした。
そこで試合前の最後のチェックをするのである。
一時四十分――。
最初に着いたのは、栞と香織であった。栞はいつもとそれ程変わりはないが、香織はやや緊張した面持ちで現れた。
そんな香織を見て栞が言う。
「大丈夫だよ、香織。失敗したって良いじゃん。だから、そんな顔しないで」
香織は石像のように固まり答える。
「うん、でも私ね、ボールが来たらどうして良いのか分からなくなるの? ねぇ、どうしたら良いのかなぁ?」
「しっかりボールを止めて、その後あたしにパスを出す。あたしが無理なら他の誰でも良いよ」
「で、できるかなぁ?」
「できるよ。大丈夫」
栞と香織が更衣室で着替え、コートに出て行くと、コートには明彦の姿があった。
明彦は二人の姿を見て言う。
「おお、早いな。まだ一時間以上も前なのに」
栞が答える。
「皆で話して一時間早く集まろうってことにしたんです。やっぱ練習時間を守らないとマズイですか?」
「うーん。今日は良いんじゃないか? 土曜日、このコートは初心者コースの練習があるから、二時には空いてるんだ」
「え、じゃあ普段も、もっと早く来て良いんですか?」
「まぁ早くても二時だな。午前中は中級クラスの練習があるし、僕は二時頃まで、事務室で別の仕事をしなくちゃならない。だから、あんまり早く来られると、ちょっと困るんだ」
二時になる頃には、全員が集合した。明彦はそれを見て一度集合をかけた。
「皆、やる気があって結構なことだ。まぁ、新経大の人は三時に来るから、そこからアップを開始して、三時半から試合をしようと考えている。でも、君たちはとても早く来てくれたので、アップしてから、簡単なシュート練習を行い、その後にポジションを発表する」
アップを終え、シュート練習に入る。今までと違うのは、ポストプレーヤー役を明彦ではなく、五人で回しながら行うという点だ。
こうやって、付け焼刃だが、攻撃のセオリーを覚えさせようというのだ。とはいうものの、明彦はこれにはあまり期待していなかった。彼女たちの多くが、崩すって意味を理解しているかどうか不明だったためだ。
現代サッカーは、組織で連動するパスワークのサッカーだ。
絶対的なエースによる個人技多様のサッカーは、とっくの昔に終焉を迎えていた。
より組織的になったディフェンスの壁を崩すには、個人技に頼ることも状況によっては必要であるが、基本的にはパスで崩さなければならない。そのためには、そのパスは何のために必要なのか考えないとダメなのだ。
彼女たちに、考えるだけの余裕があるのか分からなかった。だから明彦は、そんな戦術は置いておいて、とにかくサッカーを楽しんでもらおうと思っていたのだ。
シュート練習を終えると、明彦はポジションを発表した。
「まず、フォーメーションはダイヤモンド型といって、フットサルのフォーメーションではポピュラーなものだ。とはいっても、フットサルはコートが小さいから、ポジションは固定にならない。だから自分のおおよそのポジションだということを理解してくれれば良い。では発表する」
少女たちの目が真剣になっている。ピリピリとする緊張感が辺りに漂っていた。
明彦はそれを確認し、一息ついて持っていた小さいホワイトボードにポジションを書きながら発表した。
「キーパーは前から言ってあったが、葵。ダイヤモンドの下に唯、中盤の右に香織、左に歩、そしてトップに栞だ」
少女たちは各々ポジションを確認する。それを見た明彦は再び話し始める。
「栞以外、サッカーを初めてまだ一カ月程度といったところだ。だから、僕は戦術がどうこうとは言わない。是非楽しんでやってもらいたいと思っている。基本的には栞頼みのことが増えるだろうけど、せっかく練習したんだ。たくさんシュートを打ってほしい。ああ、それと簡単にルールを教えておこう。フットサルは接触プレーがすべてファールになる。スライディングも禁止だ。さらに、セットプレー、キックインは四秒以内に行わなければならない。後、これは主に葵に言うことなんだが、フットサルのキーパーはゴールキックがない。ゴールクリアランスといって手で投げるんだ。ちなみにこれも四秒以内に行わないとダメだ。だから、最初のうちは、遠くに投げるより近くの味方にゴロでボールを渡すんだ。良いね」
明彦はそう言った後、一度休憩を取らせた。そして、誰もいなくなったコートの中で、静かに溜息をついた。
もしかすると、少女たち五人よりも、明彦の方が緊張しているのかもしれない。
なぜ自分がこんなにも、緊張するのか分からない。少女たちがこれから始まる長いコーチ人生の中の、記念すべき最初の生徒たちだからなのか? 自分の娘を送り出す父親のような心境であった。
失敗して嫌な思いをしたらどうしようとか、大差で負けてしまって心に傷を負わせてしまったらどうしようかとか、訳の分からない妄想が彼の心を覆っていった。
そんな彼の後ろに一人の少女が歩いてきた。
香織であった。
明彦は香織に気が付き、振り返った。振り返ると、この世の終わりのような香織の顔が明彦の瞳に映った。
明彦は言う。
「どうしたんだい?」
香織は答える。声が震えている。
「せ、先生、わ、私、どうしたら良いのか分からないんです」
「何が分からないんだい?」
「し、試合の時にボールが来たらどうしたら良いんですか?」
そう言われ、なんとなくだが明彦は香織の言いたいことが分かったような気がした。
要するに香織は、自分のところにボールが来ることを恐れているのだ。指導の経験が浅い明彦は、一体どういうアドバイスをしたら的確なのか分からなかった。なんとなくではあるが、こういう生徒には明確に指示を伝えるのが良いのではないかと思った。
「良いかい。もしボールが自分のところへ来たら足の裏で止められそうかい?」
「わ、分かんないです。で、でもできないと思います」
「分かった。じゃあね、自分のところにボールが来たら、ゴールに向かってボールを蹴るんだ。なんにも考えなくて良い。インサイドキックでも、この間教えたトゥキックでも良いよ。ゴールに向かって蹴れば良いんだ。最初はそれだけ考えてやれば良いよ」
「で、でもでも、失敗とかしたら、どうしたら……」
「失敗しても良いよ。失敗しない選手なんてプロでもいないんだよ。だからたくさん失敗して良いよ。試合中に十回ボールが来たとしよう。そのうち、一回でも成功したら嬉しいよ。百回に一回でも良い。ね、大丈夫、怖がらなくて大丈夫だよ」
その言葉を聞いた香織の顔から、緊張の色が少しだけ抜けた。
一方、葵と歩は一度更衣室へ行った後、休憩室へ行きジュースを飲んでいた。更衣室内は、彼女達以外人がいなく、ひっそりとしていた。
そんな沈黙を破るように歩が言う。
「そうだ、葵って、キーパーなんだよね?」
葵は答える。
「そう、そうなんだよ。なんかね、前回、あ、水曜のことね。その時にキーパーやってくれって、グローブ貰っちゃったんだ」
「ふーん。でも意外と合ってるんじゃないか? 背も高いし、さっきのシュート練習の時も結構しっかりやってたし」
「そうかな。いまいち自信ないけど、まぁ、ウチは足使うの得意じゃないから、キーパーみたいに手を使える方が性に合ってるのかも」
「だね。はぁ、相手どんな人かな?」
「あれ、ちょっと不安だったりするの?」
「ち、違う。ただ、どんな大学生なのかなって」
「きっとすごいんじゃない? だってサークルでフットサルやるくらいだから、多分、もともとスポーツやってたとかで、ものすごく体育会系だったりして」
「うーん。でもサークルでしょ。なんかこう華やかな感じじゃないのかな?」
「分かんないね。でも、まぁウチらみたいな中学生と試合したいって言うんだから大したことないんじゃないの」
「そんなものかなぁ……」
更衣室内では、栞と唯という珍しいコンビがベンチに座っていた。
栞は居心地が悪かった。唯は何を言っても、話が長続きしなかったからだ。唯一の救いは、更衣室内に五、六人主婦の集団が大声で喋くってるおかげで、室内が沈黙にならなかったことだろう。
そんな中、意外にも唯が口を開いた。
「ねぇ、栞はなんでサッカーを始めたの?」
頬杖をついていた栞はびっくりして答える。
「え、始めた理由?」
「そう」
「ええっとね、あたし一人っ子でさ、親も共働きだったから、小学校低学年の時、放課後にフリースクールみたいなところに通ってたんだ。その時、同じフリースクールに通っていた男の子の先輩がね、サッカーを教えてくれたの。それがきっかけかな。でも今まで続けていたのは、サッカーが好きだからだと思うけど」
「サッカーが好き?」
「え、うん。好きだよ」
「どんなところが好き?」
「うんとね、あたしが一番好きなのは、ドリブルで相手をかわした時かな。でも、人それぞれ違うと思うけど」
栞の言葉を聞いた唯の表情が僅かに変わったことに、栞も当の本人の唯も気が付いていなかった。
「相手かわす……」
唯は最後にボソッと言ったが、その言葉は栞の耳には届かなかった。
午後三時――。
新潟経済大学のフットサルサークルが到着した。そのメンバーを見て、葵と歩は酷く驚いていた。
女子大生の風体が、想像していたものと違ったためだ。ジャージを羽織って化粧もあんまりしない、男か女かも良く分からないような女子を想像していたが、全然違うのだ。というより女だった。これから試合をするというのに化粧をしているし、めちゃくちゃフェミニンな格好のお姉さま方だった。
葵はその姿を見て唖然としていた。
明彦は挨拶を済ませると、女子大生らを更衣室まで案内していった。
歩が葵に言った。
「なんか想像してたのと違うな」
葵が答える。
「あれじゃあ、CanCanとかに出てくるモデルみたいじゃんか。ホントにフットサルできるのかなぁ?」
「あ、でも葵、あの背の低い人なんか想像どおりじゃないか?」
歩が言った先には、フェミニン系の女子大生に混じり、背が低く、髪も短い少年のような学生が、ジャージ姿で歩いているのが見えた。
「そう。ウチが想像していたのは、ああいうタイプなんだけどなぁ……」
明彦はコートに戻ってくると、全員を集合させた。
「よし、じゃあ、予定どおり三十分後に試合スタートとする。ポジションはさっき言ったとおりだ。それじゃあ体を動かして、最後にもう一度シュート練習して試合に臨もうか」
そう言われ、少女たちは各々準備運動を始める。コート内を三周程走り、ストレッチをしていると、ウエアに着替えた女子大生たちが現れた。
どうやら人数は七名のようだ。全員がユニフォームに着替え、その上から夏だというのに、ジャージを羽織っている。
その中に、サッカーの経験者が混じっていようとは、明彦をはじめ少女たち五人は知りようがなかった。
午後三時三十分――。
いよいよ試合開始である。
栞ら五人にはチーム名やユニフォームが無いので、チーム名は万代フットサルクラブとし、ユニフォームは全員が来ている白いスポーツウエアの上から、スカイブルーのビブスを着用することで代替した。
レフェリーは明彦である。
明彦はそれぞれのチームを一度整列させ、コイントスにより、ボールとエンドどちらを取るかを決めさせた。
これにより、新経大サークルがボールを、万代フットサルクラブがエンドを選ぶことになった。
各々がポジションに着くと、コート内は静まり返った。辺りには、夏の熱気が漂っている。その静寂を切り裂くように、明彦の笛の音がコート内に鳴り響く。
新経大のキックオフで試合が始まる。
ボールを受けた七番の選手が、ドリブルを開始し、万代フットサルクラブの陣内に攻め込んでくる。だが、話のとおり作ったばかりのサークルということで初心者が多いようだ。そのドリブルにはスピードもキレもない。
そのため、栞が相手に詰め寄ると、難なくボールをカットできた。そして、奪った勢いそのままに、得意のドリブルで一気に駆け上がる。新経大の選手は誰一人、栞のスピードに付いて行けない。
栞はあっという間に三人をかわし、キーパーと一対一になった。キーパーも初心者なのか、シュートコースが全く切れていない。冷静にキーパーの立ち位置を見極め、がら空きのゴール左隅にボールを流し込んだ。
一対〇――。
開始、約三十秒という、電光石火の攻撃に新経大の学生はおろか、万代フットサルクラブの少女たちまでも驚きを隠せなかった。
再び、新経大のキックオフから試合が再開される。今度は栞を警戒し、パスを回して万代フットサルクラブ陣内に切り込んで行く。
パスワークは鍛錬を重ねているのか、お粗末なドリブルに比べると、かなり巧みであった。それもただ、パスを回しているだけではないようだ。
栞がプレス (※相手を押し込むようにしてボールを奪取するディフェンス方法) をかけに行くと、直ぐに空いた人間にボールを回す。
そうやって何度かコートを往復するようにパスを回して行くうちに、先程の栞のゴールに触発されたのか、歩がパスをカットしようと飛び出して行く。
それを見逃さなかった。
歩が飛び出した後にできた、裏のスペースにパスを飛ばした。
フットサルにはオフサイドが無い。そのため、ディフェンダーの最終ラインを確認する必要がなく、縦パスを入れられるのだ。
無人のスペースに放たれたボールに七番の選手が追い付く。
唯はそれを止めようとチェックしに行く。すると、ゴールの中央はがら空きになる。
七番の選手は簡単にボールを捌き、ゴール前にセンタリングを上げる。
ガラガラのペナルティエリア付近に出されたパスに、八番の選手が追い付き、シュートを放つ。
シュートは右隅に飛んで行く。葵が反応をするが、一歩届かず、ゴールネットを揺らされた。
一対一――。
あっという間に得点はしたが、あっという間に同点にされてしまった。
今度は万代フットサルクラブのキックオフで、試合が再開される。栞に手招きされ、香織がセンターサークル内に入り、栞にパスを渡す。
キックオフのパスを受け、栞は勇猛果敢にドリブルで仕掛け、相手陣内に鋭く切り込んでいく。
先程のこともあるので、相手選手は一人でディフェンスをするのではなく、二人で連携を取ってディフェンスを行っている。それでもまだ栞の方に分があった。とにかくスピードが速い。
そのスピードに新経大の選手は、未だ対応しきれていない。対応しきれない間は、栞を止めることはできないだろう。
マークに来た二人の間を稲妻のように鋭く切り裂き、かわし切る。そして、そのままの勢いでゴール左隅に、得意の左足でシュートを放つ。
キーパーは、栞の鋭いシュートに反応できなかった。
再びリードするかと思われたが、惜しくもボールは左のポストに当たり、跳ね返ったボールが新経大の六番の選手のもとに転がった。
栞のマークに人数をかけた分、カウンターを仕掛けることはできなかったが、六番の選手はハーフライン付近にいる、七番の選手にパスを送る。
この時、七番の選手のマークは香織であるが、香織はどうして良いのか分からないので、ただ突っ立ているだけであった。
それを見た歩がすかさずチェックに行くのだが、先程得点された経緯をすっかり忘れていた。彼女が飛び出した裏のスペースが空いた。ここに六番の選手が走り込んでいる。
七番の選手はそれを確認し、自分が蹴りやすいように、一度ボールを落ち着かせ、空いているスペースにパスを送る。
誰かが動いて生まれたスペースというものは永遠ではない。サッカーは流動的なスポーツだ、常に誰かが動いている。そのため、開いているスペースも常に動いているのだ。
時間にすれば数秒、レベルが高くなれば一秒もないだろう。それだけ僅かな時間のみスペースは開かれている。だから、一瞬のもたつきが命取りになることもあるのだ。
七番の選手が蹴りやすいように持ち替えた僅かな時間に、今回のスペースは既に消えていた。
放たれたボールは、走り込んだ六番の選手に渡る前に、唯がインターセプトした。ボールをカットした唯は、一気にハーフライン際までドリブルをする。ドリブルをしながら、次のプレーを考える。
まず、ゴール付近にいる栞を見たが、マークが二人付いている。
次に歩を見る。歩はさっき相手選手をチェックしに行った関係上、側違いの位置にいる。パスを出しても全く意味はないだろう。最後に、香織を見る。だが、香織はこっちに出さないでという顔をしている。
そこで、唯はパスという選択肢を消した。
ハーフライン上から、先日教えてもらったトゥキックでシュートを放ったのだ。
意表をついた唯のシュートは、ゴールの枠内に飛んで行ったが、運悪くキーパーの真正面であった。トゥキックはコントロールが難しいのだ。
真正面に来たボールを、キーパーは両手を使って弾き返す。ボールはルーズボールとなり、ペナルティエリアを抜け、左サイドに飛んで行く。
それを新経大の選手が拾いクリアしようとするところを、今度は栞がそれをカットする。ボールを奪取し、フリーでドリブルしゴール前に切り込み、キーパーと一対一になった栞は、キーパーの立っている位置を確認し、股の下を正確に狙い打った。股抜きシュートは功を奏し、ゴール右隅のネットを揺らした。
二対一――。
再び、万代フットサルクラブがリードした。
その後、一進一退の攻防が続いたが、終了間際にペナルティエリアのギリギリ外で栞が倒され、フリーキックを得て、それを栞が直接ゴールに決め三点目を奪った。
ハーフタイム、栞ら五人はコート外のスペースに設置されているベンチに座り、休憩をしていた。
そこに明彦が顔を出した。
「今、三対一。なかなか良いんじゃないか」
ハットトリックを決め、機嫌の良い栞が答える。
「でも、まだいっぱい点を取れるチャンスがあったし、後半をもっとゴールを決めたいな」
「そうだな。後半はもっと点が取れると良いな」
明彦はそう言うと、他のメンバーたちを見渡した。
葵はドリンクを飲みながら、キーパーグローブをいじっている。前半はそれなりシュートを弾いていた。自信にもつながるだろう。
歩は、どこか悔しそうだった。しかし、自分も点を入れたいという熱意が伝わってきた。人より練習が少ない分、技術的に不利ではあるが、運動神経がそれをカバーしている。チャンスがあれば、後半点を取ることができるかもしれない。
唯は持ち前の判断能力で、失点のピンチを何度が未然に防いでいる。攻撃の要は栞だが、守備の要は間違いなく彼女だろう。
問題は、香織だ。香織は前半ほとんどプレーできなかった。ボールが怖いから、ボールを受けようとしないし、相手をマークできない。香織はしょんぼりと下を見つめている。
明彦は、香織のプレースタイルをそれほど悲観してはいなかった。なぜなら、香織はパスの精度は、栞を除けばこのチーム内で一、二位を争うからだ。だからこそ、明彦は香織にボールを受けたらゴール前に蹴り込めと言う指示を出したのである。香織のポジションから正確にボールがゴール前に供給されれば、今よりもチャンスは広がると思っていた。
休憩を終えると、後半戦がスタートする。後半は万代フットサルクラブのキックオフで始まる。
五人しかいない万代フットサルクラブはメンバーの交代はできないが、新経大のメンバーは七人いるので、メンバーの交代ができる。
後半から、前半ディフェンダーをしていた四番の選手に変わり、十番の選手が交代で入った。
背は百五十センチ程で、葵はもちろんのこと、栞や、歩よりも小さかった。彼女こそフェミニン系の女子大生の軍団に混じっていたジャージ姿の人間であり、同時に彼女こそ唯一のサッカー経験者であった。
怒涛の後半戦が、万代フットサルクラブのキックオフで始まろうとしていた。
センターサークル内には、栞と香織の姿があり、明彦のホイッスルの音で、後半戦が開始される。香織がチョンとボールを転がし、栞はそれを受け取る。
前半と同じように、一気に攻め込んで行く。どうやら、栞にはパスをするという選択肢が無いようだ。
プレスをかけに来た新経大の七番と六番の選手を、スピードに乗ったドリブルで巧みにかわす。後半に入ってもまだ、新経大の選手らは栞のスピードに付いて行けなかった。
前半と同じような、電光石火の攻撃の再来であるが、同じであったのはここまでであった。
栞のスピードに乗ったドリブルを止めたのは、背が小さい十番の女子大生であった。腰をしっかりと落とし、栞のドリブルのコースを限定しながら、徐々にコーナー付近まで追いやることに成功した。彼女は前半のプレーを見て、栞が左足ばかり使うことを見抜いていたのである。
右コーナーキックのライン付近まで追いやられた栞は、コート内を見渡した。コート中央には歩がいるが、八番の選手にマークを受けている。
後方のタッチライン上にはフリーの香織がいるが、香織にパスを出しても、何もできないであろうという疑念が頭を過った。
唯の位置も確認する。だが論外だ。ハーフライン上にいる唯にバックパスをする意味はほとんど無いだろう。せっかくドリブルで相手選手二人を抜いた意味が無くなってしまうからだ。
栞は強引にドリブルで抜こうと試みるが、十番の選手は前の二人とは勝手が違う。
栞の得意とするドリブルスタイルは、フットサルに適していない。コートが狭くスピードを維持することが難しいからだ。栞のようなスピードに乗ったドリブルはフィールドのサッカーだからこそ生きる武器であった。仕方なく、栞は中央にいる歩に向かってパスを出そうとした時、一瞬気持ちが緩んだ。
十番の選手はその隙を衝き、栞からボールを奪取することに成功する。
栞ならばボールを取られないであろうと、油断していた万代フットサルクラブは、葵を除く全員がハーフラインより前にいた。
この状況を十番の選手は見逃さない。ドリブルで一気に攻め上がって行く。同時に、周りにいた七番と六番の選手も駆け上がる。
カウンターである。
唯と歩が懸命に戻る。しかし、数的に不利な状況に陥った。万代フットサルクラブのディフェンスが二人なのに対し、新経大の選手は三人で攻め上がっている。
まず、歩が相手の十番の選手にプレスをかけに行くが、歩はフットサルのことをよく理解していないので、簡単にワン・ツーパスで抜かれてしまった。
その行為はまるで、栞のドリブル主体のサッカーが古いと言わんばかりに見事なパスサッカーだった。
いよいよディフェンスは唯一人になった。唯は先程の十番の選手のディフェンス方法である、相手のスピードを殺し、コースを限定していくボールの奪取法を試みていた。
つまり、十番の選手の利き足であろう右方向を切るのだ。こうして左方向にしか行かせないようにすれば、必然的に右方向にいる七番の選手へのパスの選択肢が消え、残っているのは、左にいる六番の選手だけになる。
十番の選手は唯のディフェンスを見て、それ以上ドリブルはしなかった。簡単にボールを六番の選手に渡す。
唯は、十番の選手こそ一番の要注意人物であると見抜いていた。そのため、六番の選手にパスが渡ったことをチャンスと思い、スピードを上げた。しかしそこで、しまった! と直ぐに自身の行為を後悔した。
六番の選手は、ダイレクトでパスを十番の選手に戻し、十番の選手はそれをまたダイレクトパスで、右方向にドフリーでいる七番の選手にパスを送る。
パスを受けた七番の選手はトラップをし、正確に葵の立ち位置を確かめ、シュートを打とうとした。葵はそのシュートを止めるために飛び出して行ったが、あっさりと抜かれ、無人のゴールにシュートを打たれてしまった。
三対二――。
葵は悔しそうにボールをゴールの中から取り出し唯に渡す。唯は唇をきつく噛みしめ、ボールをセンターサークルに送る。
ボールはセンターマークに収まり、万代フットサルクラブのキックオフで再開される。
笛が鳴り、ボールを受け取った栞は、ドリブルで相手を抜きに行くが、いい加減スピードに慣れ始めた新経大選手は、簡単には抜かせてくれない。仕方なく中央にいた歩にパスを渡す。
歩はボールを受け取り少し攻め込んで行くが、マークがきつく一度唯までバックパスをする。
唯は左右を見渡し、そのボールをフリーの香織に預ける。ゆっくりで取りやすそうなパスを送った。
当の香織はもう何がなんだか分からなくなっていた。自分のところに来たボールはゴールに向かって蹴れば良いという、明彦の指示をなんとか思いだし、インサイドでパスを出すが、香織の放ったボールは弱く、あっという間にパスを取られてしまった。
再び、新経大の攻撃が始まる。ボールをカットした六番の選手はライン際をドリブルし、センタリングを上げる。
センタリングはゴール中央にいる七番の選手の足元に届く。
七番の選手は一度トラップをする。トラップが大きかったが、それでもシュートを放つ。シュートは枠内を捉えていたが、トラップが大きかった分、軸足の踏み込みが浅く、威力が弱かった。
今度は葵がそれを弾き、ゴールを許さなかった。葵が弾いたボールを、歩が蹴りだしクリアをする。しかし、運悪く、歩がクリアしたボールはペナルティエリアと、センターサークルのちょうど間くらいの位置にいた十番の選手に渡ってしまった。
十番の選手は葵の体勢が悪いと見るや、ダイレクトでシュートを放った。火花が散るような強力なシュートがゴールに向かって飛んで行く。
強力なシュートであったため、誰一人全く動けず、倒れ込んだ葵の横をボールは過ぎ去って行き、ゴールネットを派手に揺らした。
三対三――。
明彦はレフェリーをしながら、試合を眺めていた。
後半始まってまだ五分少々といったところであったが、万代フットサルクラブは防戦一方であった。
万代フットサルクラブは、組織でのパスワークによる戦術を理解していない。それもそのはずで、彼女たちはそういった練習をしていなかったからだ。
彼女たちがこの一カ月で練習して来たのは、パス・トラップ・シュートの基本的な動作だけだ。だから、栞の個人技に頼るのは、試合前から目に見えていたし、明彦はある程度この状況を予想していた。しかし、予想以上に栞が止められるのが早かった。
否、想定外だったのは、十番の選手の存在である。
新経大の攻撃、守備はすべて彼女から始まっている。恐らく経験者だろう。
そうでなければ、あそこまで的確に栞をマークできないだろうし、味方を上手く使い、パスを回せないはずだ。
明彦はそう考え、栞の姿を眺めた。
彼女は気が付くだろうか? ジュニア (小学生) とジュニアユース (中学生) のサッカーで、決定的に違うのはなんのなのかということに。
それは個を使うのか、組織を使うのかということだ。ジュニア世代のサッカーは、足が速かったりドリブルが上手かったりする選手が圧倒的に優位だ。
小学生は体も小さいし、成長が個人によってバラつきがあるため、足が速く、大きい選手が強いのだ。
中学になるとそういった状況は変わる。ドリブル主体のサッカーからパス主体のサッカーに変化するのだ。
これは体も大きくなり、コートも広くなっていった時、ドリブルという攻撃方法だけでは攻撃自体が成り立たなくなるためである。そのため、パスをして、攻撃のオプションを増やして行く必要がある。
その結果、なんのためにパスを出して、どうやって攻撃を組み立てて行くのか考えながら、サッカーをすることになる。
こういうサッカーを感じながら、選手はサッカーのスタイルを次第に変えて行くのであるが、栞は不幸にも中学サッカーを経験する場所がなかった。だから、いつまでも小学校のスタイルを続けていたのだ。しかし、明彦は今回現れた十番の存在が、栞にとって僥倖になると思っていた。
初夏とはいえ、屋上のコート内の気温は三十℃に近かった。そのため、コート内でボールを追いかける少女たちの体力は、限界を迎えようとしていた。全員が激しく肩を上下に揺らし、呼吸をしていた。
サッカーはパスを回される程、そのパスを追わなければならないので、体力の消耗が大きいのだ。
試合時間はもうほとんど残っていない。 恐らく残り二、三分といったところだろう。
現在のスコアは三対七――。
残り時間から考えると、勝負はついていた。万代フットサルクラブの逆転はもう不可能だろう。
それでも、少女たちは汗だくになりながらボールを追いかけ続けていた。
後半開始早々に得点を入れられ、その後も次々に追加点を加えられ、結果的に七点も入れられてしまった。
その攻撃の基盤となっているのが、十番の学生の存在であった。
栞を始め万代フットサルクラブのメンバーは、彼女のことを止められなかった。そんな中、万代フットサルクラブに最後のチャンスが現れた。
葵が弾いたボールを唯が上手くクリアをし、ルーズボールとなったボールを、左サイドにいた歩と六番の選手が競り合い、カットしようと歩が足を出した際、誤ってボールを蹴り出してしまったのである。しかし、偶然にもそのボールが六番の選手の脛部分に当たり、パスコースが変化したのだ。
変化したパスコースの先には、栞がフリーで待っていた。十番の選手はあまりに意外なパスコースの変化であったため、対応が遅れていた。
必死にボールを追いかける十番の選手であったが、明らかに栞のシュートの方が先だと思われた。しかし、そこで栞は意外な行動をとった。それはボールが右足の方向に流れて来たので、一旦左足に切り替えシュートを打ったのだ。
その結果、シュートは十番の選手に弾かれラインを割ってしまったのである。もし仮に右足でそのままシュートを放てば決定的なチャンスになったであろう。しかし、栞は左足に固執するあまり、プレーの優先度を無視したため、得点を決められなかったのだ。
こうして万代フットサルクラブは決定的なチャンスを逃してしまった。
コート内では、ボールがタッチラインを割り、万代フットサルクラブのキックインにより試合が再開され、ボールは栞に渡った。
さぁもう一度攻め上がるぞという時に、試合終了のホイッスルがコート内に甲高く鳴り響いた。
明彦は、試合が始まる時と同じように、センターサークル内に両チームを集める。
両チームは整列し、挨拶をしてそれぞれ散って行く。
結果は三対七で惨敗であった。
万代フットサルクラブ内の雰囲気は暗い。クールダウンの最中も、皆口数が少なく、全体的にどんよりとした空気が流れていた。
そんな中、栞はクールダウンを終え、コート上でストレッチをしながら、スポーツドリンクを飲み、先程まで行われていた試合のことを思い返していた。
前半はハットトリックを決め、絶好調であったのに、後半になったら一点も取れなかった。
それはなぜか?
決まってる。あの十番の人間の存在だ。自分はあの人間を抜き去れなかった。良いように止められて、逆にカウンターをかけられ、何度も点を取られてしまったし、最後のチャンスも逃してしまった。戦犯を挙げるなら、確実に自分だなと栞は思っていた。
栞はふとコートの脇で帰り支度をしている新経大の選手の姿を眺めた。
その中に、十番の選手の姿が無かった。良く探してみると、別のコートの整備をしている明彦のところで、明彦と何か話しているようだった。
何を話しているのか気になったが、疲れの方が大きかった。栞は大の字にコートの中に倒れ込んだ。
時刻は午後五時――。
試合を終え、シャワーを浴びた万代フットサルクラブのメンバーは、スポーツジムの出入り口で別れ、それぞれが自宅へ向かって歩いていた。
歩と葵は帰る方向が一緒なので、いつも一緒に帰っていた。
いつもと同じ道を二人で歩いていた。行き交う人は違っても、目に映る風景は慣れ親しんだものに違いなかった。
少なくとも外見上はいつもと同じであった。
違うことがあるとすれば、どんなことがあっても明るい葵が、神妙な顔つきで黙り込んでいることだろう。
その姿を見て、歩がぼそりと言った。
「負けちゃったな」
葵は答える。
「うん。そうだね」
「なんか、らしくないじゃん。元気出してよ。仕方ないよ、向こうは大学生でしかもすごく上手な人がいたんだし」
「うん……」
葵は試合のことを思い出した。後半何度も相手選手に抜かれ、点を奪われた記憶が蘇る。
「私がもっと上手かったら、あんなに点を取られなかったよ」
「そんな、葵だけが悪いわけじゃないよ」
「そうかもしれないけど、心にしこりがあるみたいっていうか、すごく悔しいよ」
葵の口から「悔しい」という言葉が零れたことに意外さを感じた。同時に、歩自身も試合に負けたということをとても悔しく思っていた。
「あたしも悔しいよ。ほとんど何もできなかったからな……」
一方、栞と香織は一緒に帰っていなかった。
いつもは一緒であったが、今日の香織は用事があると言い、先に帰ってしまったのである。そのため栞は、一人でとぼとぼと道を歩いていた。思い出すのは、あの十番の選手のことばかりであった。
年齢は分からないが、二十歳位だと想定すると、栞より七歳年上ということになる。
七つ上だとしても、栞は自分よりもサッカーが上手い女子を間近で見たことがなかった。だからこそ、十番の女子大生の存在がものすごく気になった。
一体、どこでサッカーをしていたんだろう?
新経大には、女子サッカー部なんてないはずだ。というより、新潟県に女子サッカー部がある大学なんて言うものは、聞いたことがなかった。そして、自分が少し天狗になっていたということを恥じていた。
自分は断然力不足だった。栞はそう思っていた。
十番の選手と今の自分を比べると、個人的な力の差だけでなく、チームを動かし、まとめるという点で圧倒的に負けていた。
新経大の選手は十番の選手以外、まだフットサルを始めてから間もないはずだ。
パス回すことはできても、精度やスピードはまだ甘かったし、トラップも大きく、シュートをフリーでもキーパーの真正面に飛ばしたりして、技術力はそれ程高くなかったからである。
だけど……。仮に十番の選手と自分をトレードし、試合を行ったら、果たして勝てたであろうか?
自信が無かった。負けるかもしれないと栞は思っていた。
それだけ、十番の人間のゲームメーカーとしての技術は高かったのだ。
午後六時を回る頃、唯は自宅へ戻っていた。スポーツクラブでもシャワーを浴びてきたが、家に着きもう一度浴びた。
唯の家は超豪邸であるが、それは外見だけで内面はひどく寂しいものだった。
祖父、父は仕事で常に家にはいなかったし、母は有り余る資産を駆使し、自分でジュエリーブランドを立ち上げて、そこのデザイナーとして仕事をしていた。兄は学校の後、家庭教師を付け勉学に勤しんでいる。
実際にこの超大豪邸にいるには、数名の家政婦だけなのだ。食事も大抵一人で食べることが多かった。だからこそ、フットサルを始めてたくさんの人間に出逢えたことは、唯の孤独な生活に花を添えたのであった。
今日は運よく兄が一緒であった。兄である弘には、今日フットサルの試合があると言っていたので、弘はそのことを聞きたがった。
弘は夕食を食べながら尋ねる。
「そうか、負けてしまったのか、それは残念だったね」
唯は答える。
「はい。相手の選手で一人ものすごい上手な人がいたんです」
「女性でそこまでの経験者って言うのも珍しいね。どこでサッカーをしていたんだろう」
「分からないです。新潟の高校には女子サッカー部がある高校が無いので、クラブチームか、もしくは県外の高校で活動していたのかもしれません」
「うん。それで唯は楽しかったかい?」
問われた唯は考えた。楽しいか楽しくないと言われれば、答えは決まっていた。
「はい、楽しいです。でも今度は絶対に勝ちたいです。その、負けて悔しかったですから」
「楽しいってことは、良い証だよ。……その気持ちを忘れなければ、次はきっと勝てると思うよ。次の試合は僕も見に行きたいなぁ」
唯と弘がサッカー話に花を咲かせている頃、香織は一人、晩ご飯も食べずベッドの中でうずくまっていた。
香織は栞に対し、用があるから先に帰るとは言ったものの、本当は用なんて何一つなかったのだ。ただ、栞と顔を合わせ辛かった。いや、栞だけでなくメンバー全員の顔を見るのが怖かったのだ。理由は、自分が一度もプレーを上手くできなかったからである。
客観的に見ると、今日の試合の万代フットサルチームの出来は、前半の最初に栞が三点を入れ、唯が何度かピンチを防いだ以外、目立って良いところは無かった。
後半なんて全員がダメダメで、特に香織だけがミスを連発しているのではなかった。しかし、当の香織は明彦に言われたことを一度も上手くできなかったので、とても後悔し、さらに、試合に負けたのは自分の所為だと思い込んでいたのだ。
栞から何度かメールが来たが、香織は返信せずにずっとベッドの中で泣き続けた――。