ファンタジスタ・ガールズ
プロローグ
そのボールは、少年たちの夢を乗せて、綺麗な放物線を描き、空高く舞った。ボールの直径は僅か二十センチ程度しかない。しかし、その小さなボールが、少年たちの行く末を決めるすべてだった。
夏の暑い日差しの中、新潟市阿賀野川にある河川敷公園のサッカーグラウンドで、四号サイズのサッカーボールを追い駆ける少年たちの姿があった。
そこでは、二千四年度、全日本少年サッカー大会、新潟県大会の一回戦が行われている。
グラウンドの中には、緑のユニフォームと青のユニフォームの少年たちが、汗まみれになりながら、勝利を求め、懸命に走り続けていた。
グラウンドの周りを取り囲む、選手の母親たちの間から、甲高い声援が飛びかっている。
そんな中、青のユニフォームを着た万代FCの、背番号十の選手が、ペナルティエリアのギリギリ外から、左足でシュートを放った。
放たれたシュートは威力こそないが、キーパーが取りにくいであろう、ゴールマウス左上ギリギリに飛んで行く。
試合のスコアは一対〇で、青のチームが一点リードされていて、試合時間は既に、アディショナルタイムに突入していた。
つまり、青のチームにとって、この少年が放ったシュートが時間的に、最後のチャンスといって良いだろう。
しかし、運命というものは非情なもので、少年の放ったシュートは、左上側のゴールバーに当たり、「ゴン」という鈍い音を上げ、跳ね返った。
跳ね返ったボールを、緑のユニフォームの選手が、大きくクリアする。
クリアされたボールは、ちょうどセンターサークル付近まで飛んで行き、そこで試合終了のホイッスルがグラウンド全体に鳴り響いた。
勝利した緑のユニフォームの選手たちは、皆で手を取り合って喜び合った。
反対に青のユニフォームの万代FC選手たちは、下を向き、中には泣いている選手もいるではないか。
そんな彼らの姿を見て、グラウンドを取り囲む父母たちの間から、自然と拍手が零れた。
試合後の挨拶を終え、万代FCの選手たちは、クールダウンしながら、皆泣いていた。
その中に、あの最後にシュートを放った少年の姿があった。
身長は百六十センチ程で、体型はやや細身だ。髪は男子にしてはやや長く、整った顔立ちの中、若干切れ長の大きな目がとても愛らしい。いわゆる美少年風の小学生であった。しかし、彼は美少年ではない。
彼は彼ではなく彼女。そう、十番の選手は少年ではなく、少女なのだ。
少女の名前は、幸田 栞 (こうだ しおり) 小学六年生。万代FCのエースストライカーである。
彼女はこの大会に賭けていた。
この大会で負けると、六年生である彼女は引退が決まってしまうのだ。そして、彼女にはもう一つ特別に、この試合に賭ける大きな理由があった。
それは彼女にとって、少年たちに入り混じり、サッカーをする機会が、小学生である今しかないということであった。
中学に上がれば、恐らくサッカー部に女子は入れない。
運動能力の差は次第に広がって行くだろうし、もちろん、公式戦にだって出られないであろう。
だからこそ、彼女は仲が良く、何年も共に闘って来た、万代FCの少年たちと、できるだけ長くサッカーをしていたかったのだ。
一番長くて、八月の中旬。全国大会の決勝戦がある日までだ。
彼女はそこまで勝ち続けてやろうと、密かに誓っていたが、今日、こうしてその目的はあっさりと破れた。
クールダウンの中、栞は人目も気にせず泣き続けていた。
不憫に思ったのか、選手たちが集まり、励まし合ったり、再びもらい泣きしたりしていた。
周りからは、なんとと愛らしく、ほほえましい光景に見えたであろうか。
がむしゃらに、ひたむきにボールを追い続けた彼らの姿勢は、勝ちだろうが、負けだろうが、そんなことは関係ないくらいに美しいのだ。
栞は、仲間に励まされ、泣くことを止め、近くにあったポカリスエットを一気飲みした。
飲み終えた後、彼女はさっきまで戦っていたグラウンドを眺めた。
蜃気楼のため、景色がぼんやりと揺らいで見え、それはまるで、試合の熱気がまだそこに残っているようであった。
その様子を眺め、栞はずっとサッカーをやりたいと願いを込め、近くにあったサッカーボールを空高く蹴り上げた。
こうして、彼女の小学校サッカーは終わりを告げた。
同時に、サッカーを続けていく意志の強い栞にとっては、茨の道の始まりでもあった。
第一章
栞が住んでいる、新潟県新潟市の万代という地域は、新潟市が県外に誇ることのできる繁華街である。
ここにいれば大抵のものは手に揃うし、生活に不自由しないだろう。
サッカー用品店も多く、品ぞろえも悪くはないし、サッカー用の天然芝グラウンドも点々と存在しているため、サッカーを行う環境もそれほど悪くはない。
ただ、これはあくまで男子の話であった。
新潟市には、女子校が少ない。だから皆、基本的には、自分の住んでいる学区内の公立の共学の中学校へ進学する。
栞の学区内には万代中学がある。
ここのサッカー部は強くないが、一応部として存在している。但し、入部できるのは男子だけである。
サッカーをより良い環境で続けたい人間は、クラブチームへ進むことができる。
新潟市には、アルビレックスジュニアユースを筆頭に、いくつかクラブチームが存在しているが、そこへ入会できるのも男子に限られている。
故に、女である栞にとって、自分の住んでいる一帯は、サッカーをするという環境が全く整っていないのだ。
そのため、関東や首都圏の女子サッカーができる環境を求め、十二歳単身で引っ越そうかとも、本気で考えた。しかし、これには両親が大反対した。それはそうだ、栞はまだ一二歳で、しかも女の子なのだ。
一人暮らしであろうと、学校の寮であろうと、両親は反対し、栞の説得に力を注いだ。
栞が選ぶ道の一つとして最も有力なのは、普通に公立の万代中学に進学することである。
もう一つの選択肢として、私立の女子校に進学し、そこで女子サッカー部を創部するという手段もあったが、学校見学で、この旨を質問した際に、創部すること自体は可能だが、部として昇格するのに最短でも二年は掛かると言われ、泣く泣く、諦めることにしたのだった。
なんであたしだけこんな目に遭うわけ。チームで一番サッカーが上手いのはあたしだったし、この地域でだってあたしよりも上手い選手はほとんどいないのに。そんな優秀な選手であるあたしが、女であるってだけで、なんで好きな道を断たれなければいけないのよ。
彼女は次第にそう考えるようになり、自身の境遇と運命を激しく呪った。学校の授業も怠慢になり、小学校卒業までに成績もかなり衰えた。やる気が著しく削がれていた。
このままサッカーができなくなっちゃったらどうしよう。
これは、たまらなく恐怖であった。
それでも、たまにグラウンドで見る後輩たちの姿を見ると、サッカーに対する情熱が、萎むどころか、逆に煌々と光り輝いて行くのが分かった。
やっぱりやめたくない。だってサッカー好きだし。
小学校を卒業し、栞は当初の予定どおり、万代中学へ進学をすることになった。
当然だが、女子サッカー部なるものは存在しない。
一応、サッカー部の顧問の先生に、男子サッカー部に入部できるか聞いてみたが、マネージャーとしてなら認めているが、選手としては認めていないと言われた。しかし、マネージャーをしながら、練習に参加することはできるようだ。少し心が動いたが、結局辞めた。なぜなら、試合には一切出られないからである。
練習ならともかく、試合となると、相手の選手だけでなく味方の選手に対しても、同じことが言えるが、男子選手自身が激しく「女」である栞に対して気を遣うことになる。
触っちゃまずいとか、倒して怪我をさせたらどうしようとか、健全な男子中学生としては、由々しき問題が多い。そうなると、相手チームから苦情が出るだろうし、味方の選手だって良い気持ちはしないだろう。
結局、最後に傷つくのは栞自身なのだ。分かってはいたが、栞にとっては辛い現実であった。同じ、万代FCでプレーした少年たちが、次々とサッカー部へ入部していく中、彼女はその姿をただ、黙って見つめているしかなかったのだ。
不幸なことに、万代中学では、何かしらの部活動に必ず入部しなければならないという校則がある。そのため、栞も何かの部活動に入部しなければならない。しかし、サッカー部に入部することができない栞にとって、他のどの部活動も魅力的には思えなかった。
一体、何をしてるんだろう? こんなはずじゃなかったのに。
そんな気持ちの中、様々な運動部を見て回った。というより、栞には複数の女子運動部からのオファーがあった。
理由は簡単である。
栞は、体育の時間の五十メートル走の測定日に、男子顔負けの七秒六という、驚異的なタイムで走ったからだ。
この記録は全学年の女子の中ではトップの成績であって、これが噂になり各部活動からオファーが殺到したのであった。しかし、サッカーに対するあくなき情熱的な気持ちが、逆に栞自身を苦しめていく。
例えば、陸上部に入ったら、体力も付くだろうし、サッカーのためには良いかもしれないとか、女子バスケットボール部なら、同じ球技だから、もしかしたらサッカーに役に立つのかもしれないとか……。
考えたくないのに、いつもどこかでサッカーに結び付けてしまうのだ。いっそのこと何にも関係の無い文化系部活動に入ってしまえば楽になるのかもしれないと思ったが、できなかった。
とりあえず、部活なんてしたくないと考えている女子に人気のある部活動を調べられた。
一、調理部。文化系の部活で一番人気。
理由は、部員が女子しかいないし、放課後、合法的にお菓子を食べまくることができるためである。
顧問の先生もほとんど現れない。だから、実際は調理など、週に一、二回程度で、ほとんど調理室で喋くっている部活だ。
デメリットは卒業までに数キロ太るということ。
二、美術部。文化系の部活で二番人気。
理由は、調理部と似ている。実際は活動より、教室で絵を描きながら喋くるのだ。
但し、調理部と違い、月に一度、作品を顧問の先生に提出しなければならないという制約が付く。
三、パソコン部。ヲタク系少女には人気。
但し、倍以上の数の男性ヲタク達と一緒に活動しなければならない。
この部活のメリットは、幽霊部員でも許されるということだ。
先に紹介した二つの部活動は、両方ともある程度の出席率を求められる。しかし、パソコン部にはそういった制約が全くない。
これは、部活動をしたくないのに、校則のため、無理にどこかに入部しなければならない人たちを救済する、暗黙の了解的な処置である。だから、絶対にPCなんて興味のなさそうな、ちょっとギャルっぽい女子や、ヤンキーっぽい男子が、なぜかパソコン部に入部しているのはそのためなのだ。
まぁ。そういう人間達は、入部するが、それ以降、卒業まで一度も部活に顔を出さないのではあるが……。
栞自身、全くサッカーに関係の無い生活をすれば、このもやもやとした気持ちを忘れられるのではないかと考えていた。けれど、栞の気持ちとは裏腹に、サッカーに対する気持ちは全く消えなかった。
万代中学入学して三週間が経った。
新入生である一年生は、今週までにどの部活に入部するかを決め、入部届を各部活動の顧問の先生に提出しなければいけなかった。
もちろん、栞も例外ではない。
朝のホームルームを迎える前、栞は窓辺の席でぼんやりと入部届用紙を見つめていた。
そこにある少女がやって来た。
「あ、栞ちゃん。やっとどこに入部するか決めたんだ?」
栞は聞き慣れた声の方向を向く。
そこには、幼稚園からずっと一緒である幼馴染の森 香織 (もり かおり) の姿があった。香織は背が小さく、少しぽっちゃりとしており、セミロングの少し茶色い髪の毛で丸顔にたれ目の可愛らしい女の子だ。
栞は答える。
「ううん。決めてない。ぶっちゃけ、どこでも良いんだけどね」
「そっか、サッカー部、入部できないんだもんね」
「うん。仕方ないよ」
香織は、栞の境遇を不憫だと思っていた。
それは、栞のサッカーに対する真剣な姿勢を小さい頃から見てきたし、栞が出る試合には毎回足を運んで応援して来たからだ。
サッカーをしている栞は、いつも輝いていて、チームのエースだった。香織は、輝いている栞の姿がとても好きなのだ。それが今では、不抜けて元気がなくなってしまった。
いつも放課後になると、グラウンドが見える教室の窓から、サッカー部の活動を眺めているのだ。可哀想だ。なんとかしてあげたいと、友達である香織は思っていた。
「ねぇ。じゃあさ、私と一緒に調理部入らない?」
「調理部?」
「うん。調理部。そんなに大変じゃないと思うし、とっても楽しいよ」
「でもあたし、あんまり料理とか興味ないし、やる気もあんまりないっていうか」
「大丈夫。今日一度行って見よ。ちょうど今日活動日なんだ。私ね、もう仮入部してるから一緒に行こう」
「ま、まぁ香織がそこまで言うなら、良いけど」
「じゃあ、約束だよ。放課後ね」
香織がそう言うと、ちょうど担任の先生が教室に入って来た。香織は慌てて自分の席に戻って行く。
栞は再び物思いにふけながら、これから始まる一日を考え、憂鬱そうにノートを開いた。
放課後――。
帰りのホームルームを終えると、やる気のある運動部の生徒たちは、一斉に教室を飛び出し、それぞれの活動場所へ向かって行く。
その後に、ちょろちょろと人が消えて行く。今この教室に残っているのは、数人の文化部所属予定の生徒たちだけだった。
栞のもとに、香織がやって来る。
「じゃあ、調理室行こう」
やる気の無い口調で、栞は答える。
「うん。分かった」
二人は一緒に教室を出て調理室へ向かう。軽やかな香織の足取りとは真逆で、栞の足取りは重い。
調理室は一階の一番奥の部屋にある。元給食室だった一室だ。給食用の調理室を改築して作られた部屋であり、そのためなのかやたらと広い。
調理台は横三台、これが縦に六列あるから、全部で十八台もあることになる。
部員は一から三年生まで合わせて二十名弱なので、ほとんど一人一台使えるが、そんな風には使わない。
三つのグループに分かれ、先頭の三つの調理台を使って作業は行われる。
そうしないと、いちいち片付けが面倒になるし、教室が広いため、先生が全員を見て回るのが大変だからだ。
教室には、既に数人の生徒が準備を始めている。
「あのね、今私たちは仮入部なんだけど、正式に入部したら、調理器具とかの準備は全部、一年生がやるんだって」
「へぇ」
案外体育会系なんだな。なるほど、女の世界は怖いって言うもんね。
栞はそう考えながら、準備をしている生徒の姿を見つめた。
荷物を後ろの方の空いている作業台の上に置き、栞と香織の二人が準備を手伝おうとすると、一人の少女が後ろから現れた。
「おーっす! カオリン。今日は早いね」
そう言うと、彼女は香織の肩を強引に揉む。男だったら完全にセクハラだ。
「ああ、ちょ、ちょっと、葵ちゃん」
「あはは、ごめんごめん」
葵と呼ばれた、少女は片手を頭の後ろに置き、舌をぺろっと出し、あたかも謝っている仕草を見せる。
香織とは正反対でスラリと背が高く、ショートヘアーの明るく元気な少女だ。そんな二人のやりとりを、少し冷めた目線で栞は見つめていた。
その視線に葵は気が付く。
「あれ、カオリン。この少年は誰?」
「あ、葵ちゃん。栞ちゃんは女の子だよ。ほらスカート穿いてるよ。あ、でも男の子にも見えるのかなぁ? 男の子だったらカッコ良いよね」
「ええ、何それ。ボケをボケで返すわけ? もっとしっかりとツッコんでよ。ウチが寒いじゃん」
再び、栞はこのふざけた中途半端な漫才を冷めた目線で見つめる。
その視線に気が付いた香織が栞に向かって答える。
「あ、あのね。こちら三島 葵 (みしま あおい) ちゃん。一組だから、クラスは違うんだけど、私たちと同じ一年生なんだよ」
葵が言う。
「よろしく。あ、でもホント男の子みたいだなぁ。あ、ごめんごめん、それで名前は?」
栞は答える。
「はぁ。あたしは幸田 栞。栞で良いよ」
「栞かぁ。じゃあ、カオリンと同じでオリオリコンビだなぁ。え、待てよ。シオリンじゃカオリンとちょっとかぶるかぁ。あだ名とかないの?」
「え、あだ名。強いて言えばシオとかかな」
それを聞いた、葵の目が輝く。
「え、塩? 良いじゃん! そのあだ名。よし決定。君のあだ名は塩 (シオ) だ」
イントネーションが違うんだけど、と思いながら、栞は仕方なく承諾した。
顧問の先生がやってくると、それぞれのグループに分けられ、先輩に混じりながら、栞は今日の創作メニューであるアップルパイを作りたくもないのに、作らされる羽目になった。
栞は全く料理をしたことがないので、卵かきまぜたり、皮をむいた林檎を適当な大きさに切ったりする作業を担当した。
ああ、ホントに何やってんだろうと、栞は考えていた。
リンゴの甘い香りに包まれ、和気あいあいのムードの中、栞だけが絶海の孤島のようにその場から浮いていた。
一時間程で、アップルパイは完成した。どうやら、完成したものを切り分けて、各々で談笑しながら食べるようだ。栞らは、三人で窓辺の席で話しながら、まだ暖かいパイを食べ始めた。
葵がパイを食べながら、栞に話しかけた。
「へぇ。じゃあシオはサッカーやってんだ。だから体育の時、あんなに足が速かったのか。でもさ珍しいね、女の子でサッカーする人って」
栞は答える。
「まぁね。あたしもあんまり女子でサッカーやってる人には会ったことないかな」
「そうかぁ。じゃあ、運動は得意なんでしょ? 陸上部とか入ろうと思わないの?」
「うーん、最初はそう思ったけど、なんとなくね」
「それで、調理部に? なんだかもったいないなぁ」
何も知らないくせに、と栞は内心感じていたが何も言わず、目の前のパイを頬張って我慢した。
それを見た、香織が葵に向かって言う。
「ち、調理部には私が誘ったんだぁ。だから、栞ちゃんが自分で選んできた訳じゃないの。そ、その、だから……」
そんな風には言わないで、と言いたいのだろうなと感じた栞が言う。
「香織。別に良いよ。あたし何も気にしてないよ。調理部だって、そんな悪くはないと思うし……」
葵が二人のやり取りを見て、答える。
「ふーん。まぁ色々やるのは良いんじゃない。そうだ、ウチのクラスにも体育少女が一人いるよ」
栞が訝しそうに答える。
「体育少女?」
「そ、小学校が一緒だったんだけど、足が速くてさ、地域の陸上教室みたいなのに通ってて、中学に上がって陸上部に入った子がいるんだ。ウチらってさ、合同体育のクラスが一緒じゃん。今度紹介するよ」
「え、ああ、うん」
万代中学では各学年四クラスしかない。そして、中学に上がると、小学校の時と違い、体育が男女別々になる。そのため、単独クラスで男女別の授業を行うと、人数が少なく授業になりにくいため、二クラス合同で体育の授業を行うことで、人員の不足を補っているのだ。
そんな話をしていると、窓辺から夕焼けが差し込み始めた。それが、どことなく放課後という空気を醸し出していた。
栞、香織、葵の三人が、調理室でアップルパイを食べ、談笑している頃、グラウンドでは各運動部が練習を重ねていた。
掛け声がグラウンド中に響き渡り、異様な熱気が漂っている。
そんな中、陸上部に所属している、谷崎 歩 (たにざき あゆみ) は短距離のスタートの練習を終えて、水飲み場で水を飲んでいた。
黒髪の長髪を後ろで束ねポニーテールにして、水が、かからないように手で避けながら水を飲んでいる。顔を上げると、そのポニーテールが揺れ、やや痩身のしなやかな体が太陽に照らされて輝いて見える。
彼女は小学三年生の頃から、陸上競技を始めた。種目は百メートル走と二百メートル走を専攻し、トレーニングを重ねてきたのである。
歩は再び、水を飲みながら、先日の体育の出来事を思い返していた。
新入生の女子の中で一番運動神経が良いのは自分だと思っていた。けれど、それは自惚れで間違っていた。
体育の授業の、五十メートル走の記録で、あの女は驚異的なスピードを叩き出したのだ。
歩は、その姿を呆然と眺めているしかなかった。タイムが出た後、皆があの女の周りに集まって、キャーキャー言っていた。男子の数人も授業を抜け出し、あの女を褒め称えていた。
悔しかった。ただ、それ以上に許されないのは、そんな驚異的な走力を持ちながら、あの女は、各部活動のオファーをことごとく蹴り倒し、未だどこの部活動にも所属していないということである。
なんで? バカにしてんの。こいつなんなの。生意気すぎ!
そう思いながら、歩は結んだ髪を解き、水道の蛇口から勢い良く流れ出ている水を、頭からかぶりタオルで拭き、再び髪を結び直し練習に戻る。
歩は栞のことを余程意識しているためなのか、最近練習が上手く行かなかった。
慣れているはずのスタートを何度もミスをするし、タイム自体も思うように伸びて行かなかった。挙句の果てに、顧問の志賀教諭に、その怠慢を注意される始末だ。
「谷崎、どうした。調子が悪いのか?」
「いえ、違います。すいません」
「最近、らしくないミスが多いじゃないか。入部したばっかりの時は、もっと伸び伸びしていたぞ」
「は、はい」
「そうだ谷崎、お前一年一組だったよな?」
「そうですけど」
「じゃあ、体育二組と合同だろう?」
「はい。そうです」
「ほら、すごい一年がいるらしいじゃないか。名前、なんて言ったかな。あの子まだどこの部にも所属していないんだろ。誘ってみてもらえないか? あの実力なら全中出場確実だろうし、努力次第では全国制覇だって……」
唇をきゅっと嚙みしめ、歩は俯きながら答えた。
「あたし、あの人とクラス違いますし、仲良くないんで、他の人に頼んでください。それじゃあ失礼します」
歩は足早にその場から離れ、憮然とした顔で練習に戻る。最近、校内の各運動部ではこの話題で持ちきりなのだ。
何よ! ちょっと人より足が速いからってちやほやされちゃって。
なんでも新聞部か何かが、彼女のことを取り上げようとかなんとか言ってるという噂も聞いたことがある。
何それ。バッカじゃないの。どうせ、今だけでしょ。それにタイムだって機械じゃなくて、人が測っているんだから、少しくらいズレててもおかしくないはずだし。
そうだ。今度の体育は確か千五百メートル走を測る日だ。あの女、短距離は得意かもしれないけど、あたしは中距離だって行ける。よし、これで絶対に挽回してやる。
いつしか歩は、そればかり考えていた。
不思議なことに、練習でのタイムは一向に伸びて行かなかった。
午後六時になると、学校全体に終業のベルが鳴り響く。
このベルが鳴ると、大抵の文化系の部活動の生徒たちは片付けを始め、帰り始める。しかし運動部の生徒たちは、部活によって違う。帰り始める部活もあるし、休憩を入れ、もうしばらく練習を続ける部活動もあるのだ。
歩の所属している陸上部は七時まで練習があるため、少し休憩した後、もう一頑張するのである。
そんな中、歩は下校していくあの女の姿を見た。しかも、葵と一緒にいるではないか。
え、何。どういうこと? 葵ってだって、調理部に入ったんじゃ……。それって、あの女も調理部に入ったってこと? 何それ、あんなに足早い調理部員なんて、普通いないでしょ。くっそぉ、バカにしてるのかぁ。幸田 栞。次の体育では、絶対あたしが勝ってやるんだから。
歩は、唇をかみ切れる程に強く噛み、心にそう誓った。
金曜日――。
一年一組と二組の時間割では、三限目と四限目に体育がある。
体育の授業は、女子にはあまり人気がない。
着替えなければならないし、季節によって暑かったり寒かったりがあるし、運動が苦手という生徒が多いからだ。
そんな中、今日の授業を一際楽しみにしているちょっと変わった生徒がいた。
そう、谷崎 歩だ。
彼女は、以前行われた五十メートル走の測定で、完膚なきまでに、あの女こと、幸田 栞に敗れており、今回の千五百メートル測定では、絶対に勝つと心に決めているのである。
歩は、煌々と燃えたぎるやる気と闘争心を密かに胸に秘め、着替えを済ませグラウンドに向かって行く。
その後ろから、一人の少女が歩に声をかける。葵である。
「おいーっす。あれ、なんか今日のアユっちはピリピリしてんね。どうかした?」
歩は振り返って答える。
「別にピリピリなんてしてないけど、それより、ねぇ葵。そのアユっちって言うの、いい加減止めてよ。小学校の低学年じゃないんだから」
「ええ、良いじゃん。なんかそっちの方が可愛いしさ。あ、そうだ、今日はね、アユっちに紹介したい人がいるんだ」
「え、誰?」
「うふふ、着いてからのお楽しみぃ。結構カッコ良いんだよ。ウチはね、案外二人は相思相愛だと思うよ」
そう言われると、歩の頬が赤く染まる。
「べ、別にあたしは、そ、そう言うことには興味ないから」
目が点になり葵は答える。
「え、そう言うことって?」
二人がグラウンドに着くと、目的の人間は既に到着していた。
葵が歩に紹介したい人物というのは、言わずもがな、幸田 栞のことである。
ただ、これは少し厄介なことになりそうである。なぜなら猛烈にライバル心を燃やしている歩に対して、栞を紹介するわけなのだから。
体育教師はまだ来ていない。時計を見ると、まだ五分程、授業開始まで時間がある。
葵は歩を連れて、香織と話している栞のもとへ近づく。皆仲良くなって、今日のお昼は四人で一緒に食べられれば良いと思っていた。
歩と、小学生から一緒である葵は、当然だが彼女のことを良く知っている。小さい頃から二人は仲が良く、家が近所であったので、いつも一緒に遊んでいたが、歩が陸上を始めてからというもの、次第に遊ぶ機会は減っていき、友達付き合いも少なくなった。
もともと負けん気が強く、とことん陸上に打ち込む歩のことを理解し、共に切磋琢磨しようという人間はいなかった。だから、陸上を始めて以来、歩はいつも一人で過ごすようになったのだ
そういう歩を見ていて、葵は誰かスポーツが好きな子で、気が合いそうな子がいれば良いのになと思っていたのである。そして、ちょうどそこに現れたのが栞なのだ。
彼女のような少女であれば、きっと歩と仲良くなってくれるに違いないと思っていた。
言われるがままに、葵に引き連れられて、歩が向かった先は、奇しくも幸田 栞のところであった。
え、なんで? 一瞬、驚きと恥ずかしさでテンパった。
それは、葵に誰かを紹介すると言われた時、咄嗟に男子生徒のことだと思っていたためだ。それが堪らなく恥ずかしく思え、情けなくなった。しかし、これは宣戦布告する良いチャンスなのではないかと考えた。
葵が言う。
「おいーっす。カオリン、シオ」
呼ばれた二人は、軽く手を振る。それを見て再び葵が言う。
「ほら、この前部活で言ってたじゃんか。例の体育少女。連れて来たよ。じゃーん、谷崎 歩ちゅあんでぇーす」
そう言われた栞が挨拶をしようとすると、なにやら怪しげな視線に気が付いた。
視線の先の谷崎という少女の目は、まるでアニメのようにギラギラと輝いているではないか。
あれ、あたし、何かしたかな? いや、ってか、今逢ったばっかりだし。
考えを巡らしながら、栞は言う。
「あの、幸田 栞です。よろしく。陸上部に入ってるんだよね?」
歩は、ギラついた目で答える。
「どうも、谷崎です。幸田さん、足が随分速いんですね。陸上部でもその話題で持ちきりですよ」
「え、そうなの? あはは、そんなことないよ。ホント、たまたまだよ」
歩はきゅっと唇を絞め、心の中で舌打ちをした。
チッ。絶対嘘。自分は速いって知ってるくせに。やっぱ生意気。
意を決し、歩は栞に言う。
「ねぇ。幸田さん。今日の体育、千五百メートルじゃない。どっちが速いか勝負しない?」
栞は、驚き答える。
「勝負?」
「そう、勝負」
「え、なんで。そんなことするの?」
再び歩はテンパる。返答を全く用意していなかったためだ。
「え、そ、それは、だから、そ、そうあたし五十メートルでは、あなたの次だったの。だから長距離ではどっちが早いか勝負しましょってこと」
普段の栞ならば、こんな馬鹿みたいに子供じみた勝負など、ハナから受けるつもりはないが、今の彼女の心境は違っていた。サッカーをできないという鬱憤が積もり、それをどこかで爆発させたいと思っていたのだ。
意気揚々と栞は答える。
「良いよ。同じ組で走れるか分からないから、記録で勝負ってことで良いの?」
「できたら、同じ組で走りましょ。そうした方がより優劣がはっきりするでしょ」
「分かった。何か賭けたりするの?」
「じゃあ、勝った方が、負けた方の言うことを、なんでも一つ聞くってのはどう?」
「分かった。それで良いよ」
各々の両サイドで、ボクサーのセコンドのように立ちつくしていた二人は、逢って数分でなぜこんなことになったのかと頭を抱えていた。
香織が葵に向かって小声で言う。
「ど、どうしちゃったんだろう、栞ちゃん」
葵が答える。
「分かんない。それを言うならアユっちもだよ。ああぁ、もしかしてウチ、とんでもない二人を引き合わせちゃったのかも……」
先生がやってきて、各クラスに分かれて点呼を取り、出席を確認した後、準備運動を始め、その後に記録測定が行われることになった。
恐らく男女含めこの千五百メートルの記録測定というのは、体育の授業の中で最も嫌われている種目である。
千五百メートルという距離は、陸上競技の中では中距離という位置づけであるが、あくまでその概念は、陸上選手に限られている。
なぜなら、現代の中学生は、まずこんな距離を走らないからだ。故に、走ったことの無い距離は、必然的に長距離へと変わる。だから皆、走ることを恐れ歩いてしまったり、果ては授業を欠席したりするという手段に出る。
今日の記録測定も、前から連絡をしてあったが故に、数人が謎の欠席をし、出席している生徒の顔も穏やかではない。
地球の終わりのような顔で、皆グラウンドを眺めている。
ただ、ある二人を除いてだ。
お察しのとおり、栞と歩だけが、異常なやる気を見せていた。二人の様子に、次第にクラスの人間たちは、気が付き始める。そのやる気が功を奏したのか、栞と歩は同組で測定を行うことになった。
その姿を、葵は黙って見ていた。
ああ、もしかしたら、万代中の女子の千五百メートルの記録測定史上稀に見る、名勝負がこれから巻き起こるのかもしれない。
葵は、砂埃が舞うグラウンドを眺め、そう考えていた。
合同体育での女子の合計人数は、二十九名である。その内、今日は五人が欠席していたので、二十四名ということになる。
二十四名が一斉に走るとなると、測定がしにくいため、AとBの二つのグループに分けて、測定をする。
万代中のグラウンドはそれほど広くないため、千五百メートルを図る場合、グラウンドを七周走る必要があった。
最初に走るのは、Aのグループだ。そして、そこには栞と歩の姿があった。彼女らの周りだけ、体中から溢れ出るオーラが見えるようであった。
彼女たち以外の生徒は皆萎縮し、それが余計に彼女らを浮いた存在に仕立て上げていた。
Aグループの各々が、スタート位置に着く。
緊張が高まり、ざわざわという話声が消えると、辺りはしんと静まり返る。
栞と歩は、もうお互いのことを見てはいない。ただ、真っ直ぐとグラウンドのコースを見ている。
体育教師の掛け声と共に、一斉にスタートする。走り出した生徒の中で、ひときわ速い二人の存在があった。
もちろん、栞と歩だ。両者、互いに全く譲らずに、恐ろしいハイスピードで並走している。
Bクラスになった香織と葵は、コースの外から、二人の激走を見守っていた。
一周を走り終えたが、全く差はなく、依然ハイペースを維持したまま、二人は変わらず並走している。彼女たちの遥か後ろで、他の女子生徒が団子になり、亀のような低スピードで走っている。
葵が、香織に向かって言う。
「うわぁ。ウサギとカメつうか、チーターとナメクジだよぉ。それにしても、シオってホント速いなぁ。アユっちとタメ張って走れる人がいるんだぁ。まぁ当然かぁ」
香織が答える。
「栞ちゃん。万代FCっていうサッカーチームの中で一番上手だったし、運動神経も一番だったんだぁ」
「えっ。そっかぁ、確か男子に混ざってサッカーしてたんだもんね。そりゃ速いわ。でも、アユっちの通ってた陸上クラブも男子が多かったって聞いたな。お互い似てるんだよね」
「もっと仲良くしたら良いのにね」
「さぁ、似てるからこそ譲れないものがあるんじゃないの?」
『速い』歩はそう思いながら、走り続けていた。
歩自身、短距離が専門だが、幾度となく中距離も走って来たのだ。しかし、同じ女子でここまで速く走れる人間はいなかったし、こんなにハイペースで走ったことがなかった。
それでも得意の短距離で負けた手前、今度は絶対に負けるわけにはいかなかった。
今四週目に入ったから、残りは三週。よし、残り二周になったらスパートをかけよう。ここまで並走していて急にスパートをかけられたら、あの女だってキツイはずだし、付いて来られるはずがない。そうなれば、あたしは確実に勝てる。
こういうのは案外、最初に仕掛けた方が勝つもんなのだ。大事なのは、その仕掛けるタイミングだ。
そう思いながら、団子になって走っている女子生徒たちを周回遅れにし、二人は颯爽と走り抜ける。
残り二周に差し掛かろうとする時、並走していた歩のペースが上がった。コーナーを曲がりながら、歩はスッと栞の前に飛び出した。
コース外でその様子を眺めている生徒たちから「おおお」とか「キャー」とかの声援が漏れた。皆、先日の体育で栞と歩の実力を知っているのだ。
差が少しずつ開いて行くかと思われたが、結局差は二メートル程しか開かなかった。栞も歯を食いしばって、そのペースに合わせていたのだ。
歩に比べ、若干のブランクがある栞の体力は限界に近かった。同時に歩が感じているのと同じような感想を抱いていた。
それは『速い』ということだ。こんなに体力のある女子には、今までで逢ったことがなかった。
そりゃそっか。だって陸上部なんだもんね。このくらい走れて当然なんだ。
そう思い、諦めかけ、心が折れそうになった時「負けたくない」という感情が、栞のある記憶を呼び覚ました。
あの、小学校の最後の試合だ。
引退をかけた試合の思い出は、どこか心に残るしこりのようなものである。
例えば、あの時パスを出せば良かったとか、あっちのコースを狙えば良かったとか、もっと走れば良かったとかということだ。そういうちょっとした後悔を、永遠に忘れない。
チームの皆が、あたしを信頼してパスをくれるのに……。あたしは最後にその期待に応えられなかった。絶対に負けたくないって誓っていたのに。あたしにとっては、男子の皆とプレーできる最後の試合だったのに。あっさりと負けてしまったんだ。そうだ、もう負けたくない。
サッカーというスポーツは、バスケットボールや陸上、バレーボールと違い、女子のプロ組織はあっても、それを育てる下部組織が充実していない。そのため、地方になればなるほど、栞のような生徒は増える。
泣く泣く別のスポーツをする人もいるのかもしれない。または、諦める人だっているのかもしれない。だから、普通に女子部があるバスケやバレーや陸上の選手には負けたくない。
絶対に負けるわけにはいかない。
プロサッカー選手は、一試合に十キロ以上走るんだ。それなのに、こんな千五百メートルでへばって堪るか!
「残り一周」という、体育教師の声が聞こえる。
栞は、残った力をすべて振り絞って走った。
僅かに前を走っていた歩を一気に抜き去り、彼女との差を次第に広げて行く。
その手に汗握る大熱戦に、ギャラリーからは熱い声援が零れる。しかし、最後のコーナーを曲がった時、既に勝負は付いていた。強靭なスパートを見せた栞が、歩との差を決定的なものへと変えていたからだ。
ゴール――。
栞の体からは、温泉がわき出るように汗が流れ出ていた。ぽたぽたと汗を滴らせると、それが足跡のように地面に残った。
走り終えた栞のもとに、タオルを持った香織が近づく。
「栞ちゃん。すっごい、陸上部の子に勝っちゃったよ」
タオルを受け取りながら、肩で息をする栞は答える。
「ハァハァ……当たり前じゃん。サッカーって結構走るんだよ」
栞のゴールから、五秒ほど遅れて、歩もゴールをする。
走り終え、同じように汗びっしょりな歩は、膝に手を置き、息を切らせながら、栞の姿を遠くから眺めていた。
最後、栞が見せたスパートに歩は全く付いて行けなかった。
というより、最初にスパートをかけ栞の前に出た時、安堵したのだ。まだ勝負の途中なのに「勝った」という甘えが生じた。目の前が霞んで見えた。それが汗の為なのか悔し涙の為なのか分からなかった。
その様子を見ていた葵が、彼女のもとに近づいた。
「アユっち。おっつー。惜しかったね」
葵が声をかけても、歩は全く答えずに俯いたままだ。地面には、ぽたぽたと汗が滴り落ちている。
葵は黙って、歩の頭にタオルをかけた。
「アユっち、日陰行って休もうよ」
葵は歩の背中に触れ、日陰に案内しようとする。
歩の背中はびっしょりと濡れていて、それが葵には涙のように思えた。
栞のタイムは、四分五十五秒という一年女子の、体育の記録では凄まじいものであった。
二位だった、歩のタイムも五分三秒だった。これが体育の記録であると考えれば、二人とも恐ろしく速い。
拮抗した実力の持ち主が、互いにしのぎを削り合うと、結果として良い記録が出るものなのだ。
体育の授業も終わり、皆着替えようと教室へ戻っていく中、グラウンドに残っている生徒の姿があった。
栞と歩である。
彼女たちは遠目に見ると、まるで男女のカップルのように見えるがそうではない。
お互いを見つめ合っているが、それは男女の色恋沙汰の甘い雰囲気ではなく、もっと、殺伐とした空気だった。そんな空気を感じ、他の生徒はさっさと教室へ引っ込んで行ったのだ。
香織と葵だけが、少し離れたところから二人の様子を見つめていた。
歩が栞に近づく。
「約束どおり、言ってくれればなんでも言うこと聞くわ」
栞は答える。
「え、あ、そうか。そういう約束だったもんね。でも、良いよ別に。そんなやってほしいこととか無いしさ。あんまり気にしないでよ」
その言葉を吐いた栞にとっては、言葉のとおり気にしないでという何げない一言であったのかもしれない。しかし、これが歩の心を深く傷つけた。約束を破られたということが、どこか侮辱されたと感じたのだ。
歩は唇をかみ切れるくらいに、強く噛みしめた後に言う。
「……んないでよ」
「え?」
「調子に乗んないでよ」
栞もようやく事態の重さに気が付く。
「ちょっと、どうしたの?」
「早く言ってよ。なんでもするって言ってんじゃん」
「待ってよ。そんなすぐに考えられないって」
「何それ、ナメてんの。ちょっと足が速いからって調子に乗らないでよ」
「ちょ、調子になんて乗ってない」
「乗ってるじゃん、足速いくせに、どこの部活からオファーきても断ってるし、そうやって心の中で、できない奴をバカにしてるんでしょ。ああ、嫌だ嫌だ」
「そ、そんなことないよ。あたしはただ、入りたい部活が無いから入らないだけだよ」
「入りたい部活って何よ?」
「サ、サッカー部だけど」
「はぁ。サッカーなんて女子のスポーツじゃないでしょ。そりゃ体育とかではあるかもしれないけどさ、部活であるわけないじゃん。バカじゃないの」
そう言われた、栞の目の色が変わる。
「バカにすんな」
「え、何よ……」
歩がすべて話す前に、栞は大声で言う。
「バカにすんなって!」
その声の大きさで、香織と葵は気が付く。
何やら穏やかな空気じゃない。一触即発なムードが漂っている。おまけに二人は今にも飛び掛かって掴み合いの喧嘩をしようとしているではないか。こんな体育少女たちが喧嘩したら、自分たちじゃ止められない。
そう思った葵は、そうなる前に彼女たちの仲裁に入る。
「はいはい。そこまで」
歩が、葵に向かって言う。
「葵、そこ退いてよ。この女、マジでナメすぎだって」
「だからって喧嘩はダメだよ。カオリン、シオを連れて行ってよ。ウチはアユっちとちょっと散歩するから」
葵はそう言うと、歩の手を掴み、強引にその場を離れようとする。言われたとおり、香織も栞のことを連れてその場から立ち去る。
誰もいなくなったグラウンドには、栞と歩の汗の跡だけが残っていた。
更衣室に戻った栞と香織は着替えをしていた。更衣室には香織と栞しかいない。
一・二組どちらの女子生徒も更衣室を利用して着替えるため、栞と歩がかち合ってしまう。なので葵が気を利かせ、歩と共に校内をぶらぶらしていたのである。
その間に、香織と栞はさっさと着替えを済ませて出て行くことになった。
昼休み、一緒に昼食を取っている時、香織が何を言っても栞はほとんど答えなかった。
答えるとしても「うん」とか「まぁ」とかの一点張りであった。
栞ちゃん、どうしちゃったんだろう。いつもなら、誰とでもすぐ仲良くなるのになぁ。やっぱり、サッカーができないのが原因かなぁ。あ、もしかしたら、私が無理矢理、調理部になんて誘ったからかなぁ。
香織はそう考え、張りつめた重苦しい空気の中、栞と共に昼食を食べ終えた。
昼休みを終えると、栞はふらふらと具合が悪いと言って早退してしまった。
優しく友達思いの香織は、早退した栞のケータイに何度かメールを送ってみたが、返って来なかった。こうなったのは全部自分の所為かもしれないと思い、香織もどんよりとした気分になった。今日は授業が終わったら、部活には顔を出さずに直ぐに帰ろうと思っていた。
放課後――。
いつものように、運動部の生徒たちは活気に満ち溢れ、それぞれの活動場所に向かって行く。
ざわざわという喧騒の中、香織は教室の窓から彼らの姿をぼんやりと眺めていた。そして、帰ろうと思い立ち上がると、教室の戸の所に葵が立っていることに気が付いた。
葵は、香織に向かって手を振っている。
「カオリーン。ちょっとちょっと」
香織は仕方なく葵のもとへ向かう。
「どうしたの? 葵ちゃん」
「あれ、シオは?」
「具合悪いって、帰っちゃった……」
そう言うと、香織は何か悲しくなって涙が出そうになった。
それを見た葵は慌てて答える。
「ちょ、ちょっとカオリンどうしたの? ああ、ここじゃあれか、ちょっと屋上行こう」
葵は強引に香織を屋上に連れて行く。
万代中の屋上は、危険防止用の柵の周りに転々とベンチが設置されている。ちょうど屋上には数人の生徒しかいなく、何台かのベンチが空いていた。適当なベンチを選びそこに座り、葵は香織の姿を見る。変わらずどんよりと泣きそうになっている。
「カオリン、ごめんよ。ウチが調子に乗って二人の気持ちを考えずに紹介なんてしたから」
香織は答える。
「ううん。そんなことないよ。誰も、悪くないよ」
「でもさ、どうしちゃったんだろう。ホントはこんなはずじゃかったんだけど」
「相性が悪いのかな?」
「そんなことないよ。相性は一番良いはずなんだ。あ、聞いた? シオとアユっちの記録って歴代最高クラスらしいよ。特に一年女子で四分台って驚異的らしくて、でも一人で走るとそこまでのタイムは出ないんだって。なんでか分かる?」
「え、えーと、競う人がいると速くなるってことかな?」
「そう、実力が拮抗していると、タイムは伸びるんだって、特に実力が拮抗しているだけでなくて相性が良いと、もっと記録が伸びるんだってさ」
「やっぱり、サッカーができないってのが辛いんだと思う」
「サッカーかぁ……。部活なんて作れないし、ウチらじゃ、協力はできなそうかな」
「ううん、確実じゃないんだけど、実は一つだけサッカーができるかもしれない方法があるの」
「え? 何それ」
「私も昨日知ったんだけどね、私のお父さんが通っているスポーツクラブで、今度フットサルっていう五人制のサッカーの教室ができるんだって。お父さんが言うには、そこは別に男女関係ないんじゃないのかって」
「へぇ、ちなみどこのスポーツクラブ?」
「駅前の万代スポーツクラブだよ」
「ああ、あそこか。あの巨大な施設ね。それならこっからも近いじゃん。じゃあさ、今日この後、行ってみない?」
「こ、これからぁ? あ、でも良いかも。もし女の子も大丈夫なら栞ちゃん喜ぶよ」
「よし、決まり。じゃあ行こう」
二人は立ち上がり、屋上を後にした――。
話しは変わって万代スポーツクラブの従業員室。そこでは何やら、入社式のようなものが行われいた。
「今度、屋上に新設されるフットサルコートでコーチを務めてもらう、与謝野 明彦 (よさの あきひこ) 先生だ。なんと元Jリーガー。きっと良い指導を行ってくれるだろう」
万代スポーツクラブのオーナーである夏目 稔 (なつめ みのる) は、社員に対しそう紹介をした。
紹介をされた明彦が、やや緊張した面持ちで答える。
「どうも、与謝野です。来月より新設されるフットサル教室のコーチを務めさせていただきます。至らない点もいくつかあると思いますが、よろしくお願いします」
「じゃあ、早速、コートの方に案内しましょうか。どうぞこちらへ」
与謝野 明彦 (二十三歳) は、身長百八十四センチ、体重七十三キロと恵まれた体格を持った、新潟県出身の元プロサッカー選手だ。二十三歳であるのに関わらず、元というのには理由がある。
彼は昨年戦力外通告を受け、引退を余儀なくされた選手であったのだ。
ここで、彼の経歴を少しだけ紹介しておこう。
明彦は中学まで新潟県で暮らしていた。進学した中学も、新潟県の中では有数のサッカーの強豪校であったが、全国的に見れば全く強豪ではなかった。
そのため、彼は中学を卒業後、関東圏のサッカー名門校へと進学をし、レギュラーを勝ち取り、その後大学へと駒を進め、大学四年次に、あるJリーグのチームよりオファーが掛かり、晴れてプロサッカー選手となったのだ。
決して常に順風満帆であったわけではないが、それなりの結果を残して来た。高校時代はU‐17の代表候補であり、大学でも大学選抜のメンバーに選ばれ、世界を相手に戦って来たのだ。だが、彼にとっての茨の道の始まりは、プロになってからだった。
Jリーグでは、契約内容によっても異なるが、およそ一チーム三〇人程度の選手が所属している。
J1では十八チーム。J2では二十チームあるため、合計で約千百四十人。
つまり日本には、千人を超えるプロサッカー選手がいるという計算になる。さらに、毎年新人選手と、海外や他のJリーグチームから移籍して来る選手がいるわけだから、当然、出て行かなければならない選手もいるのだ。
契約期間が終了した選手は、結果次第で再度契約が可能であるが、結果を出せなかった選手に対しては契約を結ばないこともある。
俗にいう、戦力外通告というものである。
プロの世界は厳しい。戦力にならないと判断されたものは、如何に経験を積んできたベテランであっても、容赦なく切られてしまう。
そう、ゆるくはないのだ。厳しいからこそ、プロという自覚が芽生え、皆生き残ろうと努力をする。それが、リーグ全体のレベルアップにつながるのだ。
明彦は入団二年目の去年。契約更新の際に、来期は契約を結ばないという戦力外通告を受けた。
他のチームからのオファーはなく、トライアウト (関係者の前で自分の能力をアピールし契約を目指す場のこと) に参加するも、結局最後までどのチームからも声が掛からなかった。
彼のJリーグでの二年間の通算成績は、わずか一試合のみであった。
二年間のほとんどをサテライトリーグ (出場機会に恵まれない選手や、新人の育成を目的とされたリーグのこと) で過ごしていた。そして、とうとう今年、彼はどこにも行く宛がなくなった。そのため、明彦は二月に地元新潟に帰り、そこで就職活動を行っていた。
当初、サッカー関係の仕事に就こうとは全く考えていなかった。それは、変に未練を残したくないと考えていたためだ。彼はまだ二十三歳と若かったため、いっそのこと、全く違う業界に進み、そこで新しく根を下ろし、仕事に励もうと思っていたのであった。
両親の紹介で小さな印刷所で働くことになった彼は、毎日一生懸命に働いた。働くことでサッカーへの情熱を忘れようとしていたのだ。しかし、そんなことは全くなかった。忘れるどころか、情熱は次第に肥大化し、彼を苦しめていった。
休みの日、小学生のサッカーを何気なく見てしまったり、本屋でサッカー雑誌を永遠と立ち読みしたりしていた。そして、サッカーを忘れられないということに気が付いたのだ。サッカーに携わりたい。そう思い始めた。
そんな時、神は彼にサッカーの仕事を与えた。
偶然、明彦の経歴を知っている印刷所の社長が、万代スポーツクラブで新設されるフットサルのインストラクターの募集広告を教えてくれたのだ。
社長は、明彦のサッカーに対する気持ちを知り、うちの工場で働いてくれるのは嬉しいが、まだ若いのだから好きなサッカーを、仕事としてやってみるもの悪くないんじゃないのかと勧めてくれたのだった。
元プロという経歴が功を奏したのか、コーチの資格を目指しながら、指導を行うことで採用が決定され、彼は晴れて万代スポーツクラブのフットサルのインストラクターになった。
インストラクターになったといっても、毎日サッカーだけを教えるというのではなく、会場の整備や、会員の管理など、総合職的な仕事も行わなければならない。
彼は十二時に出社で、主に夕方四時頃までは室内で事務や清掃の仕事を行い、夕方から、フットサルのインストラクターの仕事を行うのである。但し、明彦は全く指導経験がないので、研修を受けた後、彼は主に初心者コースの指導を担当することになった。
再来週から、開講するという四月の暮れになっても、明彦の担当する初心者コースの受講者は定員に満たなかった。
定員以上の応募があったため、早々に募集を締め切った、中級・上級コースとは正反対であった。
初心者コースは定員二十名に対し、まだ六人しか集まっていない。五人は小学五年生の男子児童、一人は中学一年の女子生徒であった。
最低十人はいないと開講できないため、明彦は頭を抱えていた。
ああ、後四人かぁ……。といっても再来週からだぞ。締め切りは明後日だし。ホントに人が集まるのか。うわぁ、最初からこんなんでやっていけるのかよぉ。
明彦がそんなことを考えながら、休憩室から出て行くと、ちょうど上司に出くわした。
「おーい。与謝野君、ここにいたか」
「は、はい。なんでしょうか」
「いやね、今受付で中学生の女子生徒がね、フットサルのことを聞きに来ているんだ。どうだい、もしかしたら入会してくれるかもしれん。ちょっと行って来てくれないかい?」
「わ、分かりました」
明彦は受付へ駆け出す。
うおぉ、ラッキー。神はまだ僕を捨ててはないみたいだ!
明彦が受付に向かうと、上司が言っていた、女子中学生らしき人物がいるのが分かった。
彼女たちは二人組で、一人は背が高く髪が短い、もう一人は背が低く髪が長い。一見するとスポーツをするようには見えない。
なんだかデコボコしたコンビだなぁ。
そう思いながら、明彦は彼女たちに向かって声をかける。
「君たちかな? フットサルについて聞きたいって言うのは」
言われた少女の内、背の高い子が答える。
「そうです。あの、女の子も入れるんですか?」
「もちろん大丈夫だよ。君たちは初心者ってことで良いんだよね?」
「あの。ウチらは初心者なんですけど。ウチらじゃないんです」
「え、君たちじゃない? じゃあ誰のことを言っているのかな?」
今度は背の小さい子が答える。
「あ、あの、お、同じクラスのこ、子でサッカーをやっていた子なんです。あ、あの女の子なんですけど」
「うーん。実は経験者向けの中級以上のコースはね、結構人気が高くてもう締め切ってしまったんだよ。だからそのコースに入るには、半年待ってもらわないとダメなんだ。今募集してるのは初心者向けのコースだけでね。でも、今ならまだ人数が少ないからコートが大きく使えるし、女の子もいるよ」
「え? お、女の子が、い、いるんですか?」
「うん。君たちは何中学の生徒かな?」
「わ、私たちは、万代中学です」
「万中かぁ。その女の子は付属中の生徒なんだ」
付属中というのは、新潟大学付属中学の略である。付属中は、新潟市の中学の中で一番偏差値が高い。
背の高い子が答える。
「付属かぁ。じゃあ頭良いんだ。あ、でもその子は経験者なのかな?」
「いや、初心者だよ」
「ええと、まとめると、今は初心者コースしか空いていないってことですよね? 仮に入るとしたらいつまでに申し込めば良いんですか?」
「一応、明後日なんだけどね、実は定員に達していないんだ。だから後、最低でも五人入ってくれないと、コース自体が開講できないんだよ」
「げげ、後五人も……どうするカオリン?」
「どうしよう、後五人でしょ、集められないよぉ」
彼女たちの様子を見て、明彦はやはり神はいなかったと悲観に暮れた――。
体育が終わって、調理部で出逢った葵に紹介された谷崎という少女と、意味の分からない喧嘩をし、具合が悪いと言って早退した栞は、自室のベッドの上で横になっていた。
栞は一人っ子であり、両親が共働きなので、小さい頃から鍵っ子だった。サッカーを始めたのも、両親がいつも家で一人では可哀想だという理由から始めたのだった。
かなり汗を掻いていたので、家に着いたらすぐにシャワーを浴びた。
シャワーを浴びたら、高ぶっていた気持ちも幾分か沈静化され、今は頭の中がすっきりとしていた。
なんで、あんなこと言っちゃったんだろ。うわぁ。我慢すれば良かったな。まだ入学して一カ月も経っていないのに、もっと穏便に済ませれば良かった。
思い返すと、たまらなく恥ずかしくなる。それを忘れるため、誰もいない空間で一人「違う! 違う!」と大声を出して事実を否定する。
ああ、ホントバカみたい。なんでこんなに上手く行かないんだろう。
そう考えながら、部屋の中を見渡す。
壁にかかっている、一枚の集合写真が見えた。小学五年生の時、地域のサッカー大会で優勝したことがあった。この写真は、その記念に万代FCのメンバーで撮ったものだ。雨の中の行われた決勝戦であっため、終わった後、皆泥だらけだった。
でも、楽しかったなぁ。あの試合、あたしはフリーキックで一点入れたんだっけ。
栞は左足を触る。
引退した後も小学校卒業まで期間、体が訛るといけないから、定期的に万代FCの練習に参加してきた。その時、この左足はいつもどこか怪我をしていた。擦りむいたり、蹴られて腫れていたりしていたからだ。
それが今では傷も癒え、綺麗な女の子の足になっているではないか。
なんで傷一つないんだ? 分かりきったことだ。サッカーをしていないから傷が付かないのだ。それを思うと涙が出てきた。
栞は、ベッドにうつぶせになり、声が漏れないように泣いた。
サッカーがしたいよ。
栞の嗚咽が布団から漏れ、部屋の外にも響き渡った。とても悲しく、切なさを帯びていた。だが、その声を聞くものはこの家には誰もいなかった――。
再び、話しは万代スポーツクラブに戻る。
フットサルスクールを探しに来た香織と栞は、自分達が入会するわけでもないのに、フットサルコートや敷地内の設備のレクチャーを受けていた。
真面目な香織は、貰ったパンフレットに何やらメモ書きをしている。
反対に葵は、パンフレットを折りたたんで腕を組みながら、電車の中で親父が競馬新聞を読む体で説明を受けている。
フットサルスクールでは、半年ごとのスパンで指導を行うので、初心者コースで入会しても、半年後に中級コース、一年後に上級コースとステップアップができる仕組みになっている。
練習は初級・中級コースが週二回、上級コースが週三回だ。
屋上には、フットサルコートが四コートあり、二つはスクールの練習用で、もう二つは申請をすれば誰でも自由に使えるフリーコートである。
フットサルコートの規格サイズは、
長さ 最少二十五メートル 最大四十二メートル
幅 最少十五メートル 最大二十五メートル
である。コートは長方形であって、タッチライン (縦の長さ) の長さがゴールライン (横の長さ) の長さよりも大きくなり、右記の範囲のサイズであれば、どういう大きさであっても構わない。
万代スポーツクラブのコートの大きさは、長さ四十メートル、幅二十メートルであり、これは一般的な大きさコートだ。
一通り説明を受けた後、香織と葵は、一階受付の横にある休憩所で会議をしていた。議題は、どうやって初心者コースの入会希望者を探すかということだ。
葵が、ジュースを飲みながら言う。
「とりあえず、ウチの弟に聞いてみよっか、まだ小五だけど、あいつサッカーしてるからさ。ああ、でもクラブで練習してるから無理かなぁ」
香織が答える。
「うん、後は、中学の人にも聞いてみた方が良いかな?」
「うーん。どうなんだろ。微妙かもね。調理部員は全滅だろうし、ってかさ、文化系は全滅じゃないかな? だって運動したくないから文化部に入ったわけだから。かといって運動部は日頃の練習で忙しいだろうし」
「困ったね。どうしたら良いんだろう」
「それかさ、頭数合わせるだけで良いなら、ウチらが入るとか。だって今、六人集まってるわけでしょ、それにシオを入れれば七人。フットサルってのは五人いれば試合ができるわけだから、最悪定員十名ってのをクリアすれば、後はウチらって何もしなくて良いんじゃないかな?」
「でも、でも。私と葵ちゃんが入っても、あと一人足りないよ」
「だね、あと一人かぁ。なんだっけ、もう入会してる付属中の子、その子の連絡先とか教えてくれればねぇ。まぁ今そういうのうるさいから無理だろうけど」
「難しいね」
「うん。締め切りが近いってのが一番痛いね。とりあえず最悪はウチらが入ろう。まぁ後は神頼みで誰か入会するのを待つか、ウチが弟を引きづり込むよ」
「わかった、じゃあ栞ちゃんにも後で電話しておくね」
「うん、お願い」
一段落付き時計を見ると、六時半を回っている。
二人は休憩室を出て、スポーツクラブを出ることにした。それぞれ別の方向に住んでいるのでスポーツクラブの入り口で別れることになった。手を振って別れた後、香織は北へ、葵は南へ、夕暮れの駅前の喧騒の中にそれぞれ消えて行った。
香織と葵が帰ったおよそ四十分後、万代スポーツクラブの筋力トレーニングジムで汗を流している少女の姿があった。黒髪ポニーテールの少女。そう歩である。
彼女は中学に進学したこの春から、ここのジムに通っているのだった。
理由は簡単だ。トレーニングのためである。
お察しのとおり、彼女は陸上部に入部している。しかし、陸上部ではジムにあるようなトレーニング機器がないのだ。そのため、歩は週に二、三回程度、このジムでトレーニングしているのである。
但し、今日はすこぶる体が重かった。それもそのはずで、体育での激走、そして部活の練習後のトレーニングは、疲労が溜まり本来ならば逆効果である。
しかし、中学生の歩にとっては、トレーニングはすればする程良いと思っているので、どんなに辛くでも、頑張ってトレーニングに励むのであった。
特に今日のような日は、何かをしていないと、精神衛生上よろしくないと思っていた。
なんであんなに怒っちゃったんだろう。きっと、絶対あたしのこと、憎んでるだろうな。だって、どう考えたって、あたしが悪かったし。でも、単純に悔しかったし。あんなに走れるのにどこにも入部しないって絶対もったいないって思ったんだ。
歩はそう考えながら、トレーニングを続けていた。
彼女は体育を終えた後、葵から栞の不憫な境遇について聞かされたのだ。
栞は小学生の時、地域のサッカーチームでとても優秀な選手であったということ。その実力を持ちながら、女子中学生がサッカーをする環境が整っていないこと。そして、歩が陸上のことを大好きなのと同じように、栞もサッカーのことが大好きであるということ。
この話を聞かされた時、自分のしたことがとても幼稚に見え、恥ずかしくなった。特に、その人が大好きであろうものをバカにしたということが、たまらなく情けなく思えたのだ。
あたしだって陸上をやってることをバカにされたら、嫌な気分になるし、怒るかもしれない。
そう感じ「はぁ~」と大きな溜息をつき、ジムの壁際に設置してあるベンチに座り、スポーツドリンクを飲みながら、歩はトレーニングしている人の姿を眺めた。多種多様だ。
仕事帰りのサラリーマン、OL、大学生、主婦、歩と同じような中学生の姿もある。
そうか。こういった環境があるってことは、当たり前だって思っていたけど、本当はとてもありがたくて恵まれているんだよね。明日、謝った方が良いのかな? でも逆に、あんなにバシッと言ったのに、次の日掌を変えて謝るってのも、ちょっと変かな?
歩がそう考え悶々としていると、壁に貼られている広告が目に入った。
あれ、なんだろ?
『フットサルスクール開講。入会者募集』
フットサル……ってなんだ?
それは、Ipod風のシルエットだけを切り取ったようなポスターだった。サッカーをしているらしき人間のシルエットが切り取られている。
内容をよく見ると、どうやら現在募集しているのは初心者コースだけのようだが、女性も可能なようであった。
これ、教えてあげようかな。どうしよう、うわぁ、怒った次の日こんなこと言ったら、余計に怒るかな? あたし、フットサルっていうのがいまいち良く分かんないし。全然サッカーと違ったら、逆効果かもしれない。
歩の頭の中をいろんな考えが巡っていく。とりあえず受付の人に聞いてみれば良いか、それで考えよう。
万代スポーツクラブは午後十一時まで営業しており、受付は十時半で終わりである。
基本的に、夕方から八時頃まではアルバイトの学生や、パートのおばさんに受付を任せているのだが、最後は社員の人が入り受付作業を終えるのだった。
その社員というのも、新入したての社員である。なぜなら、夜遅くまで残らなければならないためだ。
現在、午後九時半。この時間になると、今から受付をして、さぁトレーニングだという人は少なくなる。
大体、夕方四時から五時にかけて一度ピークがあり、その後少し落ち着き、また七時から八時にかけて再びピークに達するのだ。
その後は下り坂で、入店する人よりも退店して行く人の方が多くなる。そんな中、受付でぼんやりと遠くを眺めて、突っ立ている人間がいた。
そう、与謝野 明彦である。そして、彼のもとに一人の少女が近づいて行く。スポーツ少女の谷崎 歩だ。近づいてくる少女の姿に明彦は気が付く。
歩が言う。
「あの、ポスター見たんですけど、ふっとさるってなんですか?」
フットサルのイントネーションが少し変だったが、明彦は気にせずに答える。
「えっとね、五人制のサッカーのことを言うんだ。もしかして入会希望か何かかな?」
「い、いえ、あたしじゃないんです。その、学校の生徒で入会するかもって人が……」
このセリフに、明彦は聞き覚えがあった。夕方にも似たような女子中学生が来たではないか。
明彦は、今日はやけに女子中学生が来るなぁと考えながら答えた。
「もしかして君、万代中学の生徒?」
歩は驚いて答える。
「え、あ、はい。どうして知ってるんですか?」
「いや、実はね、今日の夕方にも同じことを聞きに来た万中の生徒がいたんだよ。二人組でね」
「同じこと?」
「そう、背の高い子と小さい子でね、確か彼女たちもフットサルのことを聞いて、でも入会するのは学校にいる別の生徒だって言うんだよ。ほら、そっくりだろ」
背の高い、背の小さい、二人組で万中? 歩の知っている人間の中にこれらの条件に当てはまる人物がいた。葵と、葵が調理部で出会ったらしき女の子、確か彼女は体育の時、幸田 栞と一緒にいたではないか。
「あ、あのその二人組の内の一人って、三島っていう子ですか?」
「ああ、ちょっと待って、一応施設の見学をしてもらったから、名前を控えてあるんだ」
明彦は、受付の中の資料をごそごそと物色している。そして、何やら資料を取りだしながら答える。
「そうだね、三島さんで合ってるね。もしかして知り合い?」
「はぁ、同じクラスなんです」
「一応彼女たちには資料を一通りあげたんだけど、良かったら君も貰って行く?」
「え、じゃあ一応」
明彦はフットサルスクールの資料一式を歩に渡す。受け取った歩は、一礼をしてその場を後にする。
あの子も入会してくれないかな。そうすれば、今日の二人組の女子と合わせてちょうど一〇人になるんだけどなぁ。
明彦はその背中を黙って見つめがら、夢のようなことを考えていた。
ジムの帰り道、歩は葵に電話をかけた。理由はフットサルのことを聞くためであった。三コール目で葵が出た。相変わらず声は明るい。
「もしもし、アユっち、どうかした?」
「ねぇ、ふっとさるって知ってる?」
「え、どうしたの? 急に。あと、ちなみそれじゃ『なんとか猿』みたいだよ。正式な発音はフットサルだと思うよ」
顔を真っ赤にして歩は答える。
「そんなんどうでも良いでしょ、ってことは知ってるってことね。フットサルのこと」
「まぁ知ってるけどさ、なんでそんなこと聞くの?」
「万代スポーツクラブで募集してるよ」
「え、なになに。アユっちもしかして調べてくれたの? なんだ、やっぱシオのこと考えてくれてんじゃん。良かった、あたし絶対二人は相性が良いって思ってたんだよ。まぁ喧嘩になりかけた時はどうしようかって思ったけどさ、でもやっぱ二人は相思相愛、良かった」
「うるさい、まぁ、それだけ。まだ募集してるみたいだから」
「うーん実はね。ウチさ今日そのスポーツクラブに行ったんだ、あの、調理部のカオリン連れて、あ、カオリンてのは、今日体育でシオと一緒にいた小さい子ね。それで聞いたらなんか募集はしてるんだけど、定員に達していないみたいでね、もしかしたら開講されない可能性があるらしいんだ」
「定員?」
「そ、何かね開講するには、最低十名必要らしいんだけど、今六人しか集まってないんだって。しかも、締切明後日までだしね。結構ピンチっていうか」
「そ、そうなんだ」
「でもね、可能性が無いってわけじゃないんだ。シオが入会して七人、最悪ウチとカオリンが入会すれば九人になるから、あと一人で定員に達するんだけどね。ああぁ、どこかに良い人いないかぁ~。ねぇアユっち、どこかにいないかなぁ。あ、そうだやっぱ何かしらスポーツやってる子の方が良いかな、それでシオと同じくらい運動ができて、負けず嫌いで。そう、体育の時に競争して負けると悔しくて泣いちゃうような、可愛らしい子が良いなぁ」
「あ、あたしのこと言ってんの」
「あれ分かっちゃった? でも嘘、嘘。だってアユっちは陸上で忙しいし、無理して体壊したら悪いじゃん。まぁ後一人だから最悪ウチの弟引きづり込むよ。さっき絶対嫌だって言われたばっかりだけど」
「そう、じゃあ頑張って、あたしも誰かいたら連絡する」
「うん。ありがとアユっち」
その言葉を聞き歩は電話を切る。葵は良く喋るので、タイミングをみて切らないと、永遠と喋り続けてしまうのだ。
空はもう真っ暗だ。星も見えない。
後、一人なんだ、まぁ別に時間さえ合えば、あたしが入っても良いんだけどね。
歩はそう呟き、家路に着いた。
翌日――。
今日は土曜日のため、中学校は休みである。
時間は午前十時。黒のアディダスのジャージに、デニムのミニスカートを履いた少女が、半分にやけたような怪しい顔つきで外を歩いている。
その人物というのは、幸田 栞である。彼女の行先は香織の家だ。栞の足取りは軽くスキップするように歩いている。
昨日の状態そのままなら、鉛の足枷を付けられた奴隷のように足は重かったに違いない。しかし、そうならなかったのには、大きな理由があった。
彼女を変えたのは、昨日の夜に香織から送られて来た一通のメールであった。メールの本文には『フットサル』の文字が綴られていた。
なんで香織からフットサルの話が出るんだろう?
栞は不思議に思いながらメールを返信した。すると、意外なことが分かったのだ。
なんと、香織と葵が放課後に駅前にある万代スポーツクラブに新設されるフットサルスクールのことを調べてくれたのであった。詳しいことは、香織宅で話すということだった。ものすごく気になったが、その分重たい足枷の呪縛から解放されたのである。
香織の家は五階建てのマンションで、その五階にある。
小学校の時は何度も遊びに行った。けれど、中学に上がってからはまだ一度もなかった。
香織の家のベルを鳴らすと、私服姿の香織が現れた。チェック柄で、スクエアネックの縁にレースが叩き付けられ、袖口と裾ティアードがフリルになったガーリーなワンピースを着ている。
香織は直ぐに栞を自室に案内した。久しぶりに入った部屋は、それ程変わってはいなかった。部屋に入った時、今にも笑顔が零れそうになったが、栞はそれに耐え、なるべく神妙な顔つきで香織に向かって言った。
「おはよ、香織。昨日はゴメン」
反対に香織は笑顔で答えた。
「おはよ、栞ちゃん。昨日、あんまり詳しくは言えなかったんだけどね、これなの」
香織はそう言うと、透明のファイルの中からパンフレットやら入会案内のチラシ等を取り出した。
「あのね、実は経験者向けのコースはもう定員に達して締め切っちゃったんだけど、初心者コースならまだ空いてるんだって」
栞はパンフレットの中身を見ながら答える。
「そ、そうなんだ。どうしよっかな……」
「初心者コースに入っても、半年後には中級者コースに上がれるんだって、だから最初だけ我慢できれば、入ってみても良いかもしれないよ」
練習は週二回。水曜日と土曜日である。時間は水曜日が夕方五時から七時まで、土曜日が三時から六時までであった。
週二回しかないのは残念だけど、今のあたしには文句は言えないな。取り敢えず、サッカーができる環境があるだけでもありがたいと思わなきゃ。
そう考え、栞は答える。
「分かった。多分入ると思うけど、今日一応見学に行って見るよ。なんか、色々ありがとう。香織だって忙しいのにね」
「ううん。私は大丈夫だよ。あ、あのね、でも二つ問題があるの」
「問題?」
「そう、問題。実は募集の締め切りが明日までってことと、あ、後は……」
「後は?」
「あのね、初心者コースはまだ定員に達していないんだって。なんかね最低でも十人いないと開講できないんだって」
「そ、そうなんだ」
「あ、でねでね。それが問題じゃないの。人数は多分大丈夫だと思うの」
「え、どういうこと?」
「昨日葵ちゃんと話をしたんだけど、もし人数が集まらなかったら、私たちが入ろうって、そうすればなんとか定員に達するから、開講はできるだろうって、フットサルって五人いれば試合ができるみたいだし。そ、それでも良いかな?」
「うーん。よく分かんないけど、最低定員十名の内、今何人集まってるの?」
「今ね、六人って言ってたよ」
「ってことは、香織と葵と、あたしを入れて九人になるでしょ? 後一人は?」
「ええと、昨日は最後の一人は葵ちゃんの弟さんって言ってたけど」
「あのさ、話はすごくありがたいんだけど、香織たちはそれで良いの?」
「え、それで良いって、どうして?」
「だってさ、香織たちは香織たちで色々あるだろうし、なんかあたしのためにそこまでしてもらうのって、すごく悪い気がしてさ」
「ううん、私は別に大丈夫だよ。だって練習も週二回で調理部の活動には重ならないし、葵ちゃんも、少しくらいは運動した方が体に良いからって言ってたから、私たちのことは気にしないで」
栞は香織の言葉を聞いて泣きそうになった。嬉しかったのだ。溢れ出そうな涙を抑えながら、栞は答える。
「そう……なんだ。ホントありがとう香織」
「うん。じゃあこの後一緒に行って見よう。午後から葵ちゃんが来るから、一緒に三人で入会しよ。私のお父さんがね、あのスポーツクラブの会員なの。だから、紹介ってことで入会金が要らなくなるんだって」
「分かった、あ、じゃああたし一回家に戻るわ、ちょっとお母さんにこのこと話して来る。そしたらまた戻ってくるよ。何時にする?」
「じゃあ一時で良い? 私も葵ちゃんに連絡しておくね」
「分かった。じゃあ一時にもう一回来るよ」
そう言うと、栞は一目散に駆け出して行く。嬉しくてたまらなかったからだ。
やった、これでまたサッカーができる。そう思うと体が綿のように軽くなった。
午後一時十五分に駅前のロータリーに集合という連絡が、たった今香織から届いた。ケータイの液晶を見ながら、葵は頭を抱えていた。
参ったなぁ。どうしよ。今更、後一人いないんですって言えないよなぁ。マズイ、完全にシクった。
葵が頭を抱えている理由とは簡単である。
そう。本当はフットサルスクール最後の一人に、自分の弟を引きづり込もうとしていたのだが、結局無理だったのだ。
葵の弟は現在小学五年生である。そして、地域のサッカークラブに入っている。
そのクラブでは四年生までは、主に平日練習であったのだが、五、六年生は週末に練習試合を行う関係上、同じ曜日に練習があるスポーツクラブの練習に参加できないのだ。それでも、絶大な姉の権力を行使し、怪しげな訪問販売員のように強引に入会させようと試みたが、母親に止められてしまったのだ。
このままでは、葵自身も入会することが危ぶまれると判断したため、泣く泣く弟を入会させることを諦めたのだった。
うわぁ。参った。なんて言えば良いんだ……。後、一人かぁ。もう締切が近いってのになぁ。もしここで人数が集まらなかったら、ウチは最悪に空気読めてないよねぇ。
再び、頭を抱えベッドに横になった。時計を見ると、十一時だった。
もう時間がないけど、とりあえず聞けるだけ聞いてみるか。
ケータイを掲げ、電話帳に登録してある目ぼしい人間に片っ端から連絡を取って見ることにした。
メールで一斉送信しようかとも考えたが、メールでは返信がいつ届くか分からなかったので、一人一人に電話をして回った。十二時を過ぎる頃、ほとんど結果は見えていた。
そう、一人も引っ掛からなかったのだ。
そりゃそうか、皆中学に上がれば、それなりの生活があるもんね。一応、アユっちにも本気で聞いてみようかな? だけど今部活してるだろうしな。まぁ良いや、とりあえずかけてみよ。
そう思い、ケータイで歩に電話をかける。恐らく部活で出ないか、留守番電話に切り替わると思っていたが、意外にも歩は直ぐに出た。
「もしもし」
「あ、あれ、アユっちって今日部活じゃないの?」
「土曜日は午前中だけなんだ。今さっき終わったばかりだけど、何か用?」
「あのさ、アユっちて好きな食べ物ある?」
「ええ、何? 急に気持ち悪いよ」
「良いから、良いから」
「え、じ、じゃあ、じ、じゃがりこ」
「へ、じゃがりこ? 何、お菓子が好きなんだ、意外に可愛いね」
「う、うるさい。からかってるなら切るぞ」
「嘘、嘘、ねぇこれから半年間、毎日じゃがりこ買ってあげるから、フットサル、一緒にしない?」
「あたしは餌でなんか釣られないよ」
「ごめん。じゃあ真剣に言う。フットサルスクールに一緒に入ってもらえませんか?」
「……。人数、集まらなかったってわけね」
「う、うん。そうなんだ。弟がさ、ダメだったもんで」
「でも、あたしが入ったら幸田さんは嫌なんじゃないのか?」
「そんなこと……ないと思うけど」
「昨日、喧嘩したばかりなんだぞ」
「仲直り、できるよ」
午後一時――。
栞は再び香織の家に戻って来た。
栞は笑顔で言う。
「OK、お母さん、別に入会しても良いってさ」
「良かったぁ。じゃあこれから行こう。葵ちゃんには、十五分に駅前で待ち合わせって連絡しておいたから」
「分かった。じゃあ行こう」
二人は家を出て、待ち合わせ場所である駅へと向かう。香織の家から駅までは徒歩十分程で、それ程遠くはない。話しながら、歩いていると直ぐに駅へ到着した。
駅前は土曜日ということもあって、彼女たちのように待ち合わせをしている人が多かった。しかし、その中に葵の姿はない。どうやらまだ来ていないようだった。
香織が言う。
「まだ来てないみたい」
栞が答える。
「うん。後五分くらいあるし、ちょっと待ってようよ」
「そうだね」
「ねぇ。香織……」
「な、なぁに?」
「ありがとう。ホントに。こういうのって本来は自分で探さなきゃダメなのに」
「ううん。そんなことないよ。それに、私が入っても、初心者だから全く役に立てないよ」
「そんなことないよ、フットサルはコートが小さいから力だって要らないし、きっと楽しいよ」
「楽しいのは良いよね」
香織がそう言い終えると、遠くの方から葵が走ってくるのが見えた。
葵は息を切らせながら言った。
「ごめんごめん。ちょっと手間取って」
葵はスキニ―のデニムに、ロング丈のベージュのカーディガンを着ている。背が高いためモデルのように見える。
但し、ここで問題なのは葵の服装のことではない。彼女が引き連れて来た人物のことである。
そう、葵はフットサルメンバー最後の一人に、歩を連れて来たのだ。
香織が驚いて言う。
「あ、葵ちゃん……」
「あ、あのね、弟が急に入会できなくなっちゃってね。急遽、アユっちに頼みました。シオと仲直りしたいんだって」
ベージュのショートパンツに、グレーのスウェットパーカーを羽織った歩が答える。
「お、おい。あ、あたしはべ、別に、ただ人数が足りないって聞いたから」
「まぁ良いじゃん。シオも良いよね?」
栞自身歩と喧嘩をしたことを後悔していたので、きっかけがあれば仲直りしたいと考えていた。
「あ、あたしは構わないけど、谷崎さんは良いの? 陸上部の練習とか忙しいんじゃないの?」
歩が栞に答える。
「え、まぁ。あたしは大丈夫、それにあのスポーツクラブに通ってるから、問題ないし」
栞は言う。
「そ、そうなんだ。ありがとう。あ、あと昨日はゴメン。怒るつもりはなかったんだ。なんか色々上手くいかなくて、むしゃくしゃしてたの。だから、本当にゴメン」
「き、昨日のことはあたしの方が悪かったよ。そ、その悔しかったんだ。ま、負けたの……だから。あたしの方こそごめんなさい」
栞はいつかの約束を思い出し言う。
「そうだ。昨日の約束。今良いかな?」
歩が答える。
「約束?」
「そう。千五百メートルで勝ったら、なんでも一つ言うことを聞くって言うヤツ」
「うん。良いけど、だって約束したんだし。それで何をすれば良いの?」
「一緒にフットサルをしようよ! これでどう?」
歩は笑顔になり、勢いよく答える。
「うん。宜しく!」
二人の様子を見ていた葵が言う。
「はいはい、仲直り完了。握手握手」
葵は、栞の手と歩の手をくっつけ、強引に握手させる。二人はお互いの顔を見てはにかみながら握手をする。
再び葵が言う。
「よし、じゃ出発~!」
万代スポーツクラブに到着し、受付で栞、香織、葵の三人は、まず施設の入会手続きを済ませる。歩は既に入会しているため、その様子を受付から少し離れたソファーに座り眺めていた。
入会手続きが終わると、歩も加わり、フットサルスクールへの受講手続きを行った。締切前日に、ようやく定員に達したのである。レッスン開始日は来週の水曜からということであった。
少女たちは皆笑顔であったが、これから幾重にも困難が待ち構えていようとは、この時はまだ、知る由もなかった――。