Ⅷ
現在でこそ、クルス教は他宗教にも寛容となっており、他の宗教の敬う対象は唯一神イェハウ(YEHW)の影であり、本質的には同じ存在を崇めているのだから、クルス教徒でなくとも敬虔な信者は誰も神の国に行ける、という詭弁にも捉えられる見解をト・カリク教皇庁が発表しているが、ガ・アニ・シダーナの時代のクルス教宣教師は、誤った宗教を信じる野蛮人を正しい教えへ導いてやらねばならない、という使命感に燃えていた。のみならず、野蛮人のみが所有する土地、野蛮人のみが漁をする海、野蛮人のみが崇める至宝のいずれも、最終的には神の御心によって自分たち文明人の手に帰するべきだと信じていた。
彼らにとって、野蛮人どもは自分たちより劣った存在であるのは明らかであった。何故なら、彼らは「大陸」南部では200年も前に廃れたような方法で暮らしている。のみならず、それを「大陸」の文明で少し豊かにしてやると、クルス教宣教師を現人神がごとく奉るのだ。物質的利益で釣られる人間の集まりが、倫理道徳だけ高度なレベルに達するはずがない。肉体的にも精神的にも下等な人間とは、神が与えてくださった、刈り取るべき「自然の恵み」そのものだった。
とはいえ、文明人には文明人たる礼儀がある。先に野蛮人と親しくなり、甘い蜜を吸わせねばならない。「大陸」とヒディア島は完全に没交渉なわけではなかったため、宣教師たちは前もってわずかにはこの島の言語と習俗を学ぶことが出来た。可能な限りヒディア島を威圧しない規模の船で訪れた彼らは、その拙い言語でもって、敵意のないことを示し、島人の顔色を窺いながら岩場の荒れたところを用地に選び、別の島から連れて来た奴隷たちに教会を築かせ始めた。最初の宣教師、パラディーゼ・ドン・フラメルの目から見ると、ヒディア島での布教は最高のスタートを切った。というのも、島人と親しみ、病を直したり効率的な漁業を教えたりして徐々にクルス教を広めていく腹積もりに反して、教会の建設も半ばごろに、「大陸」の言葉や習俗への学習意欲に燃えた、島の宗教家の長男が訪れたのだから。尤も、その若者はクルス教を知識としては蓄えたものの、人々に説いて回ることはせず、結果的には予想したほど容易に布教が進んだわけではなかったが。
本当に石で建物を作っているのかどうか、シダーナはすぐに飛んで行って確かめたかったのだが、島人の目もあり中々実現できなかった。もし宣教師たちと島人の間に諍いが起きた時、シダーナが宣教師らと親しくしていると、マーレイシュの判断が曇るかもしれない。住民たちがそう考えているのを見越して、シダーナは岩場の方に人が来ないタイミングを見計らっていたのだ。
ガ・アニ・ドュレイは誰の目にもそんな配慮ができるようには見えなかったが、教会を見物には行かなかった。というのも、興味がなかったから。彼はこの頃もっぱら物を作る才能を発揮していた。木材の余った物を勝手に拝借してからくり仕掛けを作る。また、夏の小ぶりな花を取り合わせて、花の冠を作る。何にしても、ドュレイの手から生み出される物は見る者の心を動かした。そうしてやはり、自分ではその才能に気づいておらず、最も近くで見ているシダーナがそれを最もわかっており、わかっているがために自分には全く欠けている、手先の器用さと心の扱い方を持つ弟に嫉妬していた。
腕なり髪なり、日によって様々な場所にドュレイの作った装飾品を纏い、もはや直視するのも躊躇われるような眩しい笑顔を振りまくリースナーヤについて考える度に、シダーナの胸は鋭く痛んだ。彼女の像を心から消し去るためにも諸々の勉学を必死に続けるのだが、そうすればするほど彼女との距離は離れ、逆に遊んでいるだけに見えるドュレイが彼女に近づいていった。
「これ、ドュレイがね……」と駆けよって口にする草原のリースナーヤに気づかないふりをして、一旦森に隠れ、シダーナは荒涼とした地の、槌の音の響く作りかけの教会へと赴いた。