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 それはシダーナにとって、まだ9回目の夏だった。シダーナは、最初の仮面をかぶった。

 草原で、弟のガ・アニ・ドュレイ、例のミ・アニ・リースナーヤたちと遊んでいた。ドュレイは、ただ駆けまわることが楽しくて仕方のない様子だった。かくれんぼをしても、鬼が目を開ける前にドュレイの忍び笑いが聞こえるものできちんとした遊びにならなかった。2つ年下とはいえ幼すぎる印象のドュレイを、シダーナはひそかに軽蔑していた。周囲がドュレイにつられて笑うのが我慢ならなかった。何といっても、シダーナが他人を笑わせることなどほとんどなく、リースナーヤの笑顔を正面から見た日は必ず思い出になっていたのに、ドュレイはその自分の能力に全く無自覚だった。

 かくれんぼをしないなら帰る。そう宣言して、自分の家に向かった。引き留める者もおらず、シダーナが小枝につまずいたタイミングで、後ろで笑いが起こった。振り返ると、全く関係ない話題でドュレイが笑わせていたのだった。木の幹を蹴飛ばして、家とも別の方向、森の少し奥まったところへ向かった。人の声は聞こえず、かといってエイペスの声が聞こえるはずもなく、足元の葉が砕けた。ライビットの呼び合う声、固い葉の擦れる音、阿路鐘鳥の低く気品のある歌声に、少しずつ気分が晴れた。神官たるもの森で迷うのは言語道断、と、迷わないための技術だけは前もって教えられたので、陽が見えづらくなっても自分が今森のどのあたりにいて、どちらがどの方角かはわかった。自分にしかできないことだ。そう思い、方向感覚の確かなぎりぎりまで足を運んでいった。

 いつしか周囲は木の陰が生み出したとは思えない暗さに覆われていた。依然として葉は陽気に擦れ、阿路鐘鳥は同じように歌っているはずだったが、シダーナには不気味に聞こえ始めた。ある木の根元に、乾いた血が、暗いのにはっきりと見えた。ぎょっとして、立ち去ろうとしたが、その血の周囲は動いた。恐る恐る近づくと、太ももの付け根に大きな噛み傷を得て足を引きずった兎だった。シダーナはその兎の動きを息もつかず見守った。弱っているが、今すぐ死にそうな風でもない。

 はっと我に返ったシダーナは、平たい石を見つけて、その上でいくつかの草をすり合わせた。そこに木の皮をはがし、樹液を混ぜ込む。草は不気味な紫色に変色したが、怪我をするとよく、傷口にこの紫を塗るのだった。それから、シダレナタカミという樹木を探した。硬くて細長い葉をつけるので、患部を固定するのに使う。それらの準備が完了しても、兎はまだ次の木の根元にすらたどり着けていなかった。嫌がって力なく抵抗する兎を抑え、紫の軟膏を傷の周辺に塗る。上からシダレナタカミの葉を巻き付けて、あぐらをかいた上にのせて兎の様子を見る。幾度もシダーナは物思いに沈みそうになったが、慌てて目の前で繰り広げられる、この空想の入る余地のない現実を直視した。

 シダーナの腕の中にいると、兎は急に弱ったように見えた。軟膏の効き目は確かなはずなのに、目を徐々に閉じていき、動く意志を失っていくかのようだった。そして最後は物になった。

 こうしてこの兎を、泣きながら家に持って帰り、埋葬の1つでもしてやったなら、麗しい子供の、貴重な、ほろ苦い成長の1頁に過ぎないのだろう。兎が物になった時、シダーナの胸に去来したのは、最も近い感情を言葉にするならば、必ずしもそれ自身ではないにせよ、征服感のようなものだった。そのことにシダーナは自分で気づき、また激しく嫌悪したが、しかし事実はそうであった。シダーナは周囲を見回した。まるで、自分が今犯した兎殺しの罪を、誰にも見られていないことを確かめるように。当然、誰もいない。そっと、傷口を包んでいたシダレナタカミをほどいた。大骨羊の姿が浮かんだ。紫の軟膏は、化膿部の近くで少し黄色くなっていた。噛み傷自体ではなく、それと共に体内に入った毒のせいで兎は死んだ。穢らわしい傷口に、人差し指を差し込むと、染み込むように濃厚な血が絡んだ。その指をシダーナは恐る恐る天に掲げた。血が垂れて、一滴が右頬にこぼれた時、我に返ったシダーナは叫び声をあげ、屍体を放り投げた。そのまま絶叫しながら、草原まで駆け戻った。そうして、悪いことには、夢中で走っていながら途中の清水で人差し指と顔の血を洗い流すことを忘れなかった。

 この一連の事件は、すぐにシダーナの無意識に潜り込み、決してそのものとして思い出されることはなかった。しかし、この経験が、シダーナの少し遅い失楽園であった。

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