Ⅴ
エイペスとは別に、海と島における様々な働きを司る小神を人々は信じていた。これは天幕へ上れなかった神話の登場人物と関係を持っていたり、まったく別種の創世神話の片隅から浮かび上がってきたり、あるいは先祖の勇敢な漁師がその列の末端に加えられたりした。彼らの言葉には「存在する」に近い3つの動詞があり、存在する(ワーダ)とは今呼吸し、あるいはたった今殺され人々の生に寄与している魚たちがこの世にある様、存在する(マーミラ)とはすでに居なくなった、かつて存在した(ワダーダ)島の人々や生き物たちの、自分たちの心に住まう様、存在する(ディラーサ)とは不可思議な能力でもって存在する(ワーダ)人々に働きかける、エイプスや小神の存在様式のことを指した。「存在する(ディラーサ)者は皆、世界のごく初期にその属性を一部に受けて彼の岸へ参られた」という1行が、ヒディア島の創世神話を記した古文書に遺っている。人々は、世界の続く限り、あらゆる場所に、この第3の在り方でもって小神が存在していると信じていた。
また無論、彼らは、無限に続く塩辛く波打つ平面の上に、自分たちの島だけが、法則を外れてぽつんと存在しているわけではないということは知っていた。というのも、創世神話における世界の始まりの泥水は、水と土と木が完全に等しい割合ずつ混じっていたため、ヒディア島と同じような土と木でできた塊が他にいくつもないと釣り合いが取れないからだ。漁師たちはより南の方に、いくつかのヒディア島と同じくらいの大きさの島、そこの住人がいることを経験しており、物々交換のための特殊言語で交流しさえした。また、神官の家の白紙材の書物によって、ずっと北の、冥界の少し手前には、岩ばかりが固まってできた、ヒディア島よりも何倍も大きな「大陸」というものがあり、そこでは人々は、寒い北風の侵入を許さない頑強な石造りの家に住んでいるということも人々に知られていた。極端な変わり者、好奇心の強すぎる者、時間をかけて周囲との関係を修復するよりはむしろ死を選ぼうと決意した者など、数世代に1人か2人の割合ではあるが、ヒディア島から北の「大陸」へ向かう者もおり、また生きて再びヒディアの土を踏む者もままあった。特に周囲との軋轢に耐えかねたはぐれ者は、生きて帰ってくるならば十分に禊を果たしたと考えられ、温かく迎え入れられた。
北の「大陸」に着くまでの距離の何倍も長く東に行くと、太陽の登る島があるという。そこでは時間は進まず、戻らず、毎朝星々が太陽を追放した神話の風景を再現していると言われていた。ただ、その島に1歩足を踏み入れてしまうと2度と元いた世界には戻れなくなるそうで、それが証拠に、その伝説のある島に近づくと、砂浜の砂が、積み木のように縦に、何本も何本も積み上げられているのだという。これは、時間の進まぬ島に取り残され、まったくすることのなくなった哀れな漁師が無限の時間をかけて試みているらしい。シダーナは時折、その漁師が砂粒を積み重ねるに至るまでの無限の時間と、また少し積み上げては崩れ、また積んでは崩れを繰り返すうちに天に届くまでになるほどの技能の熟達、それに費やされた無限の時間に思いをはせ、なんとも神妙な気持ちになった。そうして、自分が以前神妙な気持ちになったのは何日前だろう、と考えて、その日から今までの無限に思える時間の長さと、砂積み漁師の今も経験している文字通りの無限の差を思い慄然とした。
実際、シダーナの性格は神官に向いているとは言えなかった。自分の中に深く深く沈静し、誰も考えないようなこと、何の得にもならないことを見つめ続ける態度には確かに、ある種の宗教性は認められたが、ヒディア島の人々にとって神秘とはエイペス、小神であり、それと交渉する神官の能力であった。また時として、神官は家系の間のいざこざや、物をめぐっての争いを治めなければならなかった。寄合の場に足を運び、気難しい老人と血気盛んな若者の間を、互いに憎み1人の女を慕う若者の仲を、何時間もかけて取り持ち、全員が同じ気持ちを共有するように仕向けなければならなかった。ガ・アニ・マーレイシュは、近い年の子らと交わればシダーナの物思いに耽る傾向も良くなるだろうと思っていたのだが、さほど改善されなかったので、シダーナが13になる頃、諦めて、神官としての専門知識の教育を始めた。