Ⅱ
ガ・アニ・マーレイシュは息子シダーナが6歳になると、漁師の息子や機織りの娘と混じって遊ぶよう勧めた。エイペスたちに会わせるにも神官としての勉強を始めるにも幼いシダーナが、森の中の、職人や漁師らの住まいと切り離された神官の住まいで、時々何かに憑かれたようにじっと木目をみつめ、それをなぞることを、彼は良しとしなかった。そしてまた、倉には貴重な白紙材の本があったが、動植物や天体に関する限り、それらはほとんど役に立たず、実物を見るに越したことはないという理由もあった。
シダーナは、褐色人種でありながら、赤みの強い不思議な肌を持っていた。神官の住まいを訪れる人々と自分を比べ、それに気づいていたシダーナは、そのことで他の子供と関わることに気が進まなかったが、間もなくそれは余計な心配だったとわかった。島の子らはほとんど同じ生き物の、手と足のごとく、繋がっては離れ、楽しく遊ぶのであって、それは少し肌の色が変だったり、親が別の仕事をしているからと言って変わることではなかった。
子供たちが遊ぶのは、砂浜の、小神像と物見櫓に挟まれた一帯や、上で相撲のとれるほど大きな切り株、その周りの花咲き乱れる草原、大人に内緒でユーテルの細い支流を越えて向かうごつごつの岩場だった。夏には手のひらより少し小さいくらいのセガワグソクがのろのろと海に向けて這うのを見、ヤドシラズの脱ぎ捨てた殻を無数の砂の中から拾い上げた。あるいは、海から早く引き上げた漁師の作る、焼いたメナギのはらわたを食べた。メナギは身体のサイズに比べて胃袋が異様に大きい青魚で、焼くとちょうど消化しかけの中身がシチューのようになって美味だった。多くの子供は抵抗なくそれを食べたが、シダーナは少し抵抗があった。というのも、メナギの直前の食事によってシチューの色は変わるため、それが気持ち悪かったのだ。たまに食べてみれば、必ずと言っていいほど歯が貝核(アイド貝などが作る宝石の一種)にぶつかり、しかも驚いて呑み込んでしまうために、メナギは一般の子供が喜ぶほどにはシダーナを満足させなかった。
春の草原には「大陸」の詩人マルテーの愛したミカタガツジや、内側が紫で、外側に行くにつれて白くなる小さい花弁を無数につけたアミタキヨウシベが咲き誇った。潮風を受けない内陸の家の庭にはたっぷりと蜜を蓄え、頭をさげた樋枝垂れ、輝球根花、豆要などが日の祝福を受け、褐色の杢層材でできた建物と美しいコントラストを成していた。島の中央、聖地に囲まれたヒジュレイラ山へ続く斜面を登っていくと、次第にウジレイ木やヒディア陽木が太陽を隠し、カイドリや見閊のような小型の鳥が愛を歌う。零れ落ちた光に眩し気に目を瞬かせる小竹鹿。落ち葉からライダイやサカミシロといった昆虫が跳ね出で、木のうろには耳の垂れたライビットの家族が巣を作った。シダーナは、枝の多いモガリヨガリに登ったり、仲間同士でユツケの粘着質の実をくっつけて遊んだりしながら、時々森の最奥の、聖域のことを考えた。
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ヒディア島の神官は、他の人々が入ることを許されない聖域に赴き、エイプスと意志の疎通を図ることが大きな仕事の1つだった。シダーナはまだ入聖を禁じられていたが、母に語り聞かされた本、父親の話す内容から想像はついた。木の葉の作る闇が一層深くなり、辛うじて人の侵入を許されるため木々に埋め込まれた黒曜石のプレートには、蛇や百足のシンボルや五芒星が彫り込まれている。水の中を行くように体の運びは大きな抵抗を伴い、ふと見上げる頭上には目をぎょろつかせた大神鳥が飛び交っている。
そして、最奥には、島をこの世の初めからずっと守ってきた秘宝「ジュレル・ラ・エイぺス」の埋め込まれた碑が立っている。それは如何なる刃物でも傷がつかず、いかなる冷気、熱気にも動かされない、赤黒い光を放つ完全な球体。碑は島の奥を魔物が支配していた時代、力の強い小人ドーフの兄弟によって作られたという。幾千年の時の試練に耐え、周囲を無数の蔦や葉に覆われながらも、碑は欠けず崩れずその不可思議な球体を守っている。無数の魔物がそれを我が物にしようと画策し、無数の人間が、それを防いできた。ジュレル・ラ・エイペスが失われる時、ヒディア島は滅びるという…………。
森の奥に気を取られ、ぼんやり虚空を眺めるシダーナに、遊び飽かない子らは呼びかけ、海蝶花の蜜を吸う。檻烏のしわがれた声が響くようになると、子供らは小川で九十九蛙に気を取られることを止め、散り散りに自分の家へと帰っていく。そうして自分の家の庭で、あるいは波の音を聞きながら、徐々に姿を現す空の輝きを、すきっ腹を誤魔化すために眺めやる。頭の真上に赤みがかった輝きを持つ東極星。紫の天幕に、東極星を中心とする黄色の同心円が現れる。春の小さな月が水平線から姿を現すとともに、黄線はその色を薄く、幅を広くしてゆき、背景となる天幕も刻一刻と紺の色を強くしていく。物見櫓から大銅鑼が打ち鳴らされ、それに老若男女反射的に目を閉じる。するとにわかに月の輝きが鋭くなり、島中を一瞬、閃光が包む。恐る恐る目を開けると、天幕は漆黒に変化しており、赤や黄色の、大小さまざまの針穴が、天幕の向こうの光をこちらに投げかけている。それを見ながら子供は、天に上った様々な人、半神、獣の話を聴く。英雄シダーナに傷を負わせたワニは、秋の西の空に姿を現す。針穴の在りかは日々微妙に変化し、翌日の人々の運命や、海の向こうの冥府のあり方を伝えていた。