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 初めての入聖(アウダ)は、18歳の夏の、昼の最も長い日と決まっていた。その日、次世代の神官は、エイペスの「声」を聴き、ジュレル・ラ・エイペスと対面する。シダーナは、その日の前の晩、夜入りの閃光が光った後、1食も取らず、足を組み目を閉じ、儀礼用の祈りの文句を呟き続けた。日の出とともに祈りを止め、肉の入っていない薄い粥を食す。服を身に纏い、18年怪我のない処女の髪を入れたというお守りを懐に入れる。髪は、奔放なリースナーヤのものでないのは確かだ。シダーナは、むしろ、走り回って怪我をしても笑っている少女にむしろ守ってもらいたいものだとふと思う。両耳の付け根に赤い印を付け、右足に3本のハカタリ(厄を除ける効果のあると言われるミサンガのような紐)を巻く。そうして家を出る前に再び祈りを捧げ、1人で聖地へ歩いていった。

 1歩歩くごとに、森の表情が険しくなる。傾斜は徐々にきつくなり、時には這うように、とび出た岩に手をかけて、暗い中を登り進める。大神鳥(バトロス)のしゃがれた声が聞こえてくる。まもなく聖地だ。暗さに徐々に目が慣れ、日常と異なる、紫の視界を作る。絡みつく濃厚な大気をうまく身体に溶け込ませていく。目印となる対の三叉樹が、きつい傾斜の上からこちらを見下ろす。大きく息をつく。エイペスの御前に出るのに息を荒げていてはならない。幸い、聖地から溢れる気が絶えず頬を撫でるおかげで汗はさほどかかない。

 対の三叉樹の、地面に張りだした太い根を踏み越える。木々に張り付けられた黒曜石のプレートの、黄金や紗金で彫り込まれた無数の象形がぼんやりと光り始める。その正名(マテュエル)をラュ・オという大鷲の紋へ、一定の形式に則って指を触れる。赤色の輝きが、心持ち増す。この輝きが、エイプスらには人間側の発した「声」として認識され、直接光が視覚に届かずともその存在を検知できる。そうして、エイペスに愛された神官ならば、最初のプレートで彼らの「声」を聞き取ることが出来る。

 その正名(マテュエル)をミフ・ミフという大鼠の紋へ、指を触れる。彼女(ミフ・ミフ)は47世代前の大工ガ・ダーダ・イディオの訴えに伴って、聖地に封じ込められた。儀礼用のプレートとしては最も新しいものだ。緑色の輝きが、心持ち増す。父ガ・アニ・マーレイシュはここで、エイペスの「声」を耳にしたという。……エイペスの声は聞こえない。その正名(マテュエル)をナバヤという大海蛇の紋へ、指を触れる。海のモノは基本黒曜の封じと相性が悪いため、確かにそのプレートは分厚く、姿は深く彫り込まれている。青色の輝きが、心持ち増す。……まだ、エイペスの声は聞こえない。祈るような気持ちで、シダーナは最後の紋へ触れた。正名(マテュエル)をプファンニヒという夜の霊。目に見える存在ではないため、その働きを代表する稲妻が紋様化されている。黄色の輝きが、心持ち増す。声は聞こえない。こうなる者は、決していないわけではない。……有史以来87代、うち、エイペスの声より先に姿を目にしたものは16人。8代目フェンレ、17代目ミ・アニ・ミカジャ、18代目レイセウ、…………。

 これほどに勉強した自分が、エイペスから好まれなかったという事実、恐れていた事態を迎えてしまったことに動揺しながらも、シダーナは歩みを続ける。最後の紋の後ろには、ヒディア島の至宝、ジュレル・ラ・エイペスが控えている。目を閉じ、大きく深呼吸し、その18年間見たいと願い続けてきたものに歩みを進める。紫の靄が流れる先に、ぼんやりと光り輝くもの。

 それは、シダーナの腰の高さほどにはめ込んであった。碑自体が、思ったよりもずっと小さかった。確かにその石碑は欠けても崩れてもいなかったが、圧倒的な存在感を感じられず、実際にはしないものの、股の下にくぐらせるような冒瀆も容易に可能に思えた。シダーナは拍子抜けした。腰をかがめ、ジュレル・ラ・エイペスを凝視する。赤黒い。聞いた通り、見える部分はこれまでの生で見たことがないほど見事な曲面を描いており、傷1つなかったが、美しいという実感が伴わなかった。儀礼通り、それにも手を触れた。誰でも見られるわけではない至宝を目にしている満足より、エイペスの声を未だ聴けていないという切迫感、挫折感が勝った。石碑を前に、見通せない視界の紫空を振り仰ぎ、シダーナは古代のヒディア語で小さく呟いた。

「我に与え給え……」

 聖地を出、ユーテル川に行くと、ガ・アニ・マーレイシュが清めの炎を焚いて待っていた。彼はシダーナの表情を見、エイペスとの交流の首尾については言及せずに、前もってシダーナに伝えてあった清めの手順をまた繰り返した。ドュレイはその傍で友人と他愛ない話をしていた。伝統的に、たとえ長男がエイペスに愛されなかったところで、神官職が次男以降に継がれることはなく、またそういう先例があってもドュレイは神官など断るというわけで、儀式はつつがなく進むのだった。シダーナの弟はこの頃浜で生きたいと頻繁に口にし、ほんの少し覚えた正名(マテュエル)も魚に関するものだった。

 シダーナは、切れずに残っていたハカタリを身体から外し、それで処女髪のお守りを結んで火に投じた。次いで、衣服を身に纏ったまま耳が浸かるまでユーテルの流れに入った。シダーナは、一瞬、急な水勢の変化でこのまま陸に戻れなくなればいいのに、とまで思ったが、ユーテル川はいつも通り極めて穏やかに流れていた。耳の付け根の印を洗い流し、水から出た若き神官は、火の傍で身体を温める。

「ジュレル・ラ・エイペスは見れたか?」

「はい」シダーナは、あの靄の中での光を思い出す。すると不思議なことに、あの赤黒さはいつまででも眺めていたくなるような、素晴らしい魅力を発していたことに気づいた。シダーナは目を閉じた。

「決められたとおりに入聖(アウダ)を繰り返していれば、いつかはエイペスも声を聞かせてくれるさ。それに声を最初から聴けない神官というのは、」

「シダーナ、声聞けなかったの?」マーレイシュの慰めは、ドュレイの無神経な発言に遮られた。しかしシダーナは微笑んだ。マーレイシュの言葉を継ぐ。

「最初から聴けない神官は、後に大事を為し遂げることが多かった、ですよね」最初エイペスに愛されないことと、後に偉大な業績を上げることの間に論理的なつながりはないが、エイペスや小神は、自分たちの思考を越えた遥かな地平で、世の中を良くするように導いてくださる。そう考えて、シダーナは、それが自分の中に元々あった想念でなく、フラメルのもたらした「神」に関する理屈に近いことに気づき慄然とした。

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