竜のたまご(1/3)
帝都は深い霧に包まれていた。
立ち込める濃霧は、つま先から前の景色を白で覆い隠している。
天を塞がれ陽も遮られ、昼間であるにもかかわらず真夜中の様相。
自動車と馬車の相次ぐ交通事故。商店は早々に店じまい。観光客はホテルでコーヒーを味わいながらカードで暇つぶし。窃盗犯は今こそ稼ぎどきだと張り切っており、警察はこの混乱を収めんと東奔西走していた。
「みんな両手を前に伸ばして手探りで街を歩いてる。幽霊の行進だ」
ゼンとディアの部屋に立ち寄ってきたグスタフ警部の面持ちはすっかり憔悴しきっていた。ゼンがコーヒーを入れた携帯ポットを渡すと警部は「助かる」と受け取ったが、アルミの弁当箱に詰めた煮込みハンバーグは「こんなおいしそうならディアに食べさせてやれ」と苦笑交じりにゼンに返した。
ディアが今、満面の笑みで口の周りをソースで汚しているのは、そういう経緯があったからである。
「ゼンはいいお嫁さんになれるぞ」
「それはどうも」
「子育てもきっと得意になるだろうな」
「自覚していたのですね」
「どういう意味だ?」
ピンクのエプロンを雑に丸めて洗濯かごに放り込み、ゼンはディアの正面に座る。台所を片付けている刹那に、テーブルにあったはずの2個のハンバーグはひとつ残らず消え失せていた。
「おいしかったぞ。またつくってくれよな」
ゼンは残っていた添え物のナスをソースに絡めて空腹を紛らわせた。
「しっかし、すっごい霧だよな」
「竜の霊峰に登って雲海の中を冒険したのを思い出させます」
「楽しかったよな」
「霧に惑わされ、迷子の果ては餓死か凍死か。あるいは霊峰の主に食われるか。僕は死ぬ思いでしたが、師匠は案外そうでもなさそうでしたね。冒険を楽しめたのならなによりです」
「あの昆虫とか雑草とか、食べてだいじょうぶだったのかな」
「今こうして生きているのですから大丈夫なのでしょう。しかし、あの芋虫はやはり止めて正解でした。図書館で調べてみたところ、人間の脊椎に害をなす寄生虫が宿っていたようです。逆にあの蜘蛛は見た目とは裏腹にタンパク質を豊富に含んでいて、熱帯地方の先住民族の貴重な栄養源になっていたとのことです」
「パンの代わりに蜘蛛を食べてたのか?」
「もしくは、パンのおかずに蜘蛛を食べていたのかもしれません」
竜狩りの冒険の思い出話に花を咲かせているうちに好奇心がうずいてきたのだろう。ディアは上着を一枚重ねて玄関の前に立って「行くぞ」とゼンを手招きした。
「霧の帝都を冒険するぞっ」
「よしてください」
「霧にまぎれて竜が出てくるかもしれないぞ――なんてなっ」
「今日はおとなしくしていてください。グスタフ警部に叱られます」
「平気だぞ」
「そりゃあ、叱られるのは僕ですからね」
グスタフ警部はディアには甘い。そしてゼンには厳しい。顔を合わせればおおよそ三度に一度の頻度で「まっとうな仕事についてディアを安心させてやれ」という説教を一時間かけてした挙句、警察署に彼の席をあてがおうとしてくる。
「ゼンがお巡りさんになったら泥棒なんて『斬り捨て御免』だろうなっ」
笑いながら玄関を出ようとしたディアは、何かにぶつかって跳ね返されてしりもちをついた。よそ見していたせいで、ノックしようとしていた客人に気付かなかったらしい。
「まあっ、たいへん! ひ、ヒビは入ってないかしら……。いえ、それよりも……おじょうちゃん、おしり痛くない?」
客人が手を差し伸べると、ディアは濁音交じりの悲鳴を上げて四つん這いで逃げ、ゼンの脚に抱きついてしまった。
「竜人間だ!」
客人の容姿をディアは簡潔に言い表した。
玄関の前に立っていた客人は分厚いコートを羽織っていた。頭もフードに覆われており、極力肌をさらすのを避けている。それはこの寒い冬を耐え忍ぶというよりは、爬虫類の皮膚を隠すためだとゼンにはたやすく推測できた。
頭は、これまで幾度となく狩ってきた竜の頭。
半竜――ではない。
半竜とは明らかに違う。
半竜は背中の竜翼や水晶の眼球など、竜の特徴が部分的にしか顕れない。それに対してこの客人は竜が服を着て二足歩行している、竜の要素が大部分を占めている、まさしく『竜人間』であった。同胞なら判別がつくのかもしれないが、少なくとも人間であるゼンには、この客人が女性であるのは声色でしかわからなかった。
竜翼を出すためのスリットは背中になかった。
「このような外見で、しかも突然の訪問、驚かれるのも無理はありません。わたくしはミモザと申します。この度は容易ならぬお願いのため、ゼンさまとディアさまのもとへと参りました」
ミモザと名乗った竜人間は、抱きかかえていた楕円の物体をゼンとディアに差し出した。
「たまごを……。わたくしの子供を育ててください」




