マーガレット・ノキア(2/3)
新進気鋭の作家マーガレット・ノキアを自称する二刀流の老人は血に飢える。
その凶刃を振りかざし、青ざめた月光に閃かせた。
ゼンの投げ放った鎖分銅を首の捻り一つで避け、間合いの内にもぐりこんで短刀を真横に薙ぐ。
ゼンは片手で抜刀した漆黒の太刀『善』でとっさに防御した。
十字の衝突に散る火花。
脳を貫通する鋭い金属音。
骨の芯を痺れさせる衝撃。
老人が怯んだ隙にゼンはグスタフ警部の場所まで飛び退いた。一太刀浴びせ返すこともできたが、袈裟斬りにされた老人の死体を見た陪審員が正当防衛を認めてくれるかはまた別の話であるのを考慮して退いたのであった。
取り囲む警察官たちに銃口を向けられた老人は、忌々しげに武器を足元に捨てて両手を挙げた。
いくらか冷静になったようすで周囲をぐるりと見渡す。
「ワシの読者たちはどこへ消えた」
「とうに逃げた」
「殺し損ねたか。まあよい。これで奴らは『花の香』の新刊を手にする機会を失ったわけだからな。当初の目的は達したといえよう」
「順番待ちが早まったのだけは感謝するか」
「若造、まだ新刊を買うつもりか! あんな駄作によくも執着する!」
グスタフ警部が激憤の老人に手錠をかける。
「おじいさん。あなたノキアを騙ってどういうつもりですか」
「騙るも何も、正真正銘ワシがマーガレット・ノキアだ。これはペンネームで、本名はヨゼフ・ノキアだ。住所も教えてやろう」
「ヨゼフさん。マーガレット・ノキアは髪の長い妙齢の美女でしたよ」
「それはワシの影武者、娘のマリーゴールドだ」
「……あとで医者に診てもらったほうがいいな。ヨゼフさんを車へ運べ」
老人は警察車両に乗せられて警察署へ連行された。腹を抱えてうずくまる団長は病院に搬送され、ゼンは警察署で調書を書いて夜を明かした。
翌日、依頼の失敗を侘びにゼンはバルシュミーデ家を訪問した。
カタリナは残念がるどころか逆に興奮しており、そのときの話を詳しく聞かせてほしいとせがんできた。ゼンが詫びのつもりで昨夜の珍事を語ると、彼女はベッドで腹を抱えて転がりながら大笑いし「私もいっしょに並べばよかったよー」と目じりの涙を拭った。口元はまだ小刻みに震えていた。ちょうど紅茶とケーキを運んできたメイドがきょとんとしていた。
「団長さんかわいそー」
「そこがウケたのか」
「だって、だって『マブダチ』って」
「そこがウケたのか」
本棚にはやはり『花の香』の新刊が並んでいた。
午後、ゼンとディアは郊外の村へと向かった。
中世から幾重もわだちを刻まれ続ける街道を馬車で往く。
線路沿いの、でこぼこの田舎道。
農家の荷車を流用した乗合馬車で野菜の代わりに運ばれていく二人。互いに背中合わせに座り、手すりに肩をもたれ、流れゆく雲を数えて退屈をしのぐ。騾馬も御者も寝ぼけまなこ。木製の車輪は軋む音を鳴らしながら回り、小石に乗り上げるたびに、くぼみにはまるたびにゼンとディアの尻が浮いた。
華の帝都も一歩外に出れば時代を100年は遡ってしまう。
「小説家なんかがわたしの武器を直せるのか?」
ゼンの肩に頭をちょこんと乗せるディア。
「あの夜、マーガ……いえ、ヨゼフ・ノキアは『サナトス』と類似した突出機構のナイフを持っていました。修復する手がかりを得られる可能性があります」
「実はサインをもらいにいくための口実じゃないだろうな」
「僕はノキアの小説は嫌いです」
「そんなこと本人の前で口走ったら神経逆なでするぞ」
「留置所で一字一句同じことを言ったら『見る目がある』と褒められました」
「やっぱヘンなじいさんだ!」
ディアのかたわらに置かれた異形のバイオリンケース。
底部は真っ黒に焦げ付いており穴が空いている。突出機構の要となるスプリングは取り外されており、スイッチを押したとしても仕込まれている鋼の刃が飛び出すことはない。邪竜ロッシュローブ打倒のため一度きりの火薬式に改造されたサナトスは、もはや捨てられる定めのガラクタと化していた。
「いい機会だからピストルを買ってくれよ。グスタフ警部みたいにばーんって撃って悪いヤツをやっつけてみたくなったんだ。ガンマンってカッコイイよな」
「警察かガンマンかどっちですか。いずれにせよ師匠に銃なんてもったいないです。いろんな意味で」
竜に銃など通用しないし、人間相手では半竜のディアなら素手で事足りる。
「僕はサナトスの威嚇能力を買っています。師匠のような小さな女の子があの異形の大剣を振り回せば、たいていの悪党は回れ右しますからね」
「サナトスをくれた竜も似たようなこと言ってたぞ」
戦いを避ける武器こそ最強の武器であると。
「サナトスは何百年も昔に竜狩りと戦ったときの戦利品だそうだ」
「だとすると相当古い代物ですね。竜狩りが英雄ともてはやされた時代のものでしょうか。ヒトと竜の距離が今よりはるかに近く、地上の覇権をかけて敵対していた時代の」
「体が大きくて寿命もヒトよりずっと長いのに、だんだん数が減っていったせいで住む場所をヒトに譲ることになっちゃったなんて、ちょっとかわいそうだよな」
「個体の優劣程度では自然の淘汰には抗えないのでしょう。竜は彼ら自身がよく口にする『摂理の円環』の外に弾き出されたのです」
竜は間違いなく地上で最強の種族であった。
それでも遠心力には抗えなかった。
正面から走ってきた機関車がすれ違いざまに強風と砂埃を馬車にみまわせた。さきほど追い越していった列車であった。御者は目をつむって鳥打帽を押さえ、騾馬は天の雲と同様、相変わらずのんきに歩を進めていた。
荷車で運ばれた野菜もとい、ゼンとディアは麦畑のひなびた村に卸された。
水車の涼しげな水音が時代に取り残されたのを物語っている。
あくびと背伸びで木漏れ日の曳き船道を行く。
ディアは陽だまりの部分だけを踏む遊びをしながら道を進んだ。
曳き船道を進んだ先にあったマーガレット・ノキアの住居も何の変哲もないレンガ造りの民家であった。相当年季が入っており、ドアを壊してしまわないよう、錆びたノッカーを慎重に叩いた。
「あら、どなた? 新聞社や出版社の方とは違うみたいだけど」
現れたメガネの美女はゼンを見て訝り、次いで隣のディアに視線を移すとにこりと微笑んだ。それから背中の小さな竜翼に気づいて目を見張った。
マリーゴールド・ノキアにふるまわれた紅茶にほっと一息つくゼン。
湯気と共に立つ香りが窓に縁取られた曳き船道の景色と調和し、みすぼらしさを芸術に昇華させている。素朴な村ならではの味わいであった。ゼンは味と温度と見た目で紅茶を堪能した。
「見事な手並みです」
「お店で売ってるふつうのお茶よ」
マリーゴールドは赤面する。
「すっごいおいしいぞ」
ビスケットでいっぱいのほっぺをもごもご動かしながらディアも同意した。これにはマリーゴールドは素直に喜び、ふたつめのビスケットの袋をディアのために開けてくれた。
「おじいちゃんはね、恋愛小説なんて書きたくなかったのよ」
マントルピースに飾られた調度品を指でもてあそびながらマリーゴールドは苦笑する。彼女は火かき棒で暖炉の薪を八つ当たり気味に突いて火の粉を散らせていた。ゼンたちではなく祖父に憤っているのが慣れた手つきでわかった。
「おまけに著者が男性の老人だとウケが悪いから女性を装え、だなんて出版社に命じられちゃってね……。生活費のためにしかたなくその方針に従って書いてるのよ。それで世間の評判がいいものだからふてくされてるの」
「あなたが代わりに書いてるわけではなくて?」
「私は一文字たりとも書いていないわ。読者たちの理想の『マーガレット・ノキア』として表に出てるだけ。といっても、私はおじいちゃんの一番のファンだから、作品について訊かれてもばっちりよ」
「嫌々書かされてる鬱憤晴らしに通り魔とか、オマエのじいちゃん過激すぎるぞ」
「おじいちゃん、気難しいの」
孫娘は肩をすくませる。
そのとき『本物のマーガレット・ノキア』は現れた。
「美学を愚弄された男が怒らずして男であるものか」
血走っていた昨夜と違って、眼には理性が宿っている。
昔かたぎな男の魂が透けていた。




