マーガレット・ノキア(1/3)
透き通った黒い空に星が音もなくまたたいている。
本屋の前でコートの襟を立てるゼンと団長。
午前2時。
おぼろな月明かりが寒々しさの演出に一役買っている。
開店まであと7時間。
「俺たち、そのマリーゴールドって人の小説を買うために並んでるのか?」
団長が腕組みしながら歯をかちかち震わせている。その格好のまま膝を高く上げて足踏みしているが、冬の夜の寒さは紛らわせるには足らず気休め程度。
ゼンと団長のほかにも十数人ほどの大人たちが店の前に陣取っている。うなだれて文庫本を読みふける者、コートに包まって横になっている者、声をひそませて談話する者、タバコをくわえて冬空を仰いでいる者……。皆、夜が明けるのをじっと待っている。待ちあぐねることなく重く夜を過ごす彼らはさながら、野営地の疲弊した兵隊であった。
「マリーゴールドではなくマーガレット。マーガレット・ノキアです」
ゼンの訂正など団長にとってはそんなことどうでもいいらしく、震える指をコートのポケットに伸ばしてタバコとマッチ箱を取っていた。店のレンガの壁にもたれながら、風からかばうように手を添え、震える指でタバコに火をともした。
「ここにいる連中全員、敬虔なるノキア信奉者ってトコか」
「文芸界の一大勢力ですよ」
「恋愛小説なんて何が面白いのか俺には理解できねえな」
「団長の村だって、娯楽といえばお酒か賭博か、あるいはどこの家の誰々が付き合っているとかそういう噂話がもっぱらだったでしょう?」
「言われてみればなるほど」
「ノキアの小説にはそういう要素が全部入っているんです。酒飲みの博徒と、どういうわけかそんな男に惚れてしまった貴族の令嬢……。そういった作風から特に女性のファンが多いとのことです」
妙に納得したのか団長はしきりに頷いていた。
乾いた泥に汚れた歩道であろうとお構いなしに尻をつき、丸まって寒さに耐える人々。皆一様にフードを目深にかぶっているようすが怪しげな儀式めいており、信奉者というのもあながち比喩ではなかった。
「しっかし、カタリナお嬢ちゃんくらいの金持ちなら、俺たちを使い走りにしなくなたって手に入れられるもんじゃないのか? いくらベストセラー作家の新刊とはいえよ」
「ノキアの新刊記念パーティーにバルシュミーデ家も出席しているから、そのときに一冊もらっていてもおかしくないですね。出版社とも懇意にしてるでしょうし」
「金持ちの考えはわからんな」
タバコの煙を吐く。
「俺やルイーズがごちそうにありつけるのなら何だっていいけどよ。駄賃代わりに招待してくれるっていうパーティー、衣装は借りられるんだっけか? 眼帯も外さなきゃダメか? この眼帯は俺のプライドにも等しくてね」
このお使いはカタリナなりの気遣いであった。
いくら裕福な家庭の娘であれど彼女は未成年。ゼンとディアの借金返済を支援するには『依頼と報酬』という建前がどうしても必要であった。しかも直接的な金銭の受け渡しは親に咎められる。だから食事や観劇への招待といった、文化的でささやかな報酬が彼女のせいいっぱいなのである。
貧困層。
異邦の男と、半竜の少女。
債務者。
竜狩りという野蛮な職業。
そういった数々の偏見を両親から晴らしたいという、カタリナの個人的な思惑もおそらく含まれているのをゼンは察していた。バルシュミーデ夫妻はゼンとディアにも親しく接してくれるが、一線を引くところは引いている。
カタリナは親をどうにか説得してゼンたちと竜狩りの旅をしたがっているのだ。
「モテる男は苦労するよな。共感できるぜ」
団長が馴れ馴れしく肩を叩いてくる。
「旅には連れてってやらないのか?」
「連れていくわけないでしょう」
「もう一人の新聞記者見習いの子は連れてくのに」
「ノーラは勝手についてきてるだけです」
「男のそんな言い訳、女には通用すると思っていたら甘いぜ」
「僕らは男だの女だのといった関係ではないので」
「やっぱ甘いぜ」
異性との経験は俺のほうが勝っているようだな。
と言いたげでに余裕の笑みと肩をすくめるしぐさ。ゼンが無視して懐のペーパーバックを取り出すと、白けた団長も新しいタバコに火をつけた。一筋の煙が黒い寒空へと立ち昇っていった。
真夜中に静寂が舞い戻った。
そう思いきや、それは嵐の前の静けさであった。
「おい、じいさん。後から来たなら後ろに並べよ」
声を張り上げる団長に人々の視線が集まる。
店舗の壁に沿った列を断ち切るように、一人の老人が割り込んできていた。しかも団長の目の前に。年齢のわりに筋肉のついた、練達の老兵といったその老人は団長に一瞥をくれるだけで悪びれもしないばかりか「ワシにたてつくか若造が」とあからさまに毒づいてきた。
団長がタバコを道端に吐き捨てて腕をまくる。
老人もにらみ返す。
周囲がにわかに騒ぎだし、整然としていた列が崩れていく。
「どうして仲裁しないんだ、ゼン!」
聖典降臨を待ちわびるノキア信奉者たちを監視する警察車両から、グスタフ警部が飛び出てきて二人の間に割って入った。獣のような獰猛な眼光を前後から向けられる警部は、かたわらでなおもペーパーバックを開いているゼンに助けを求めた。
「一般市民がいたずらに介入してはかえって迷惑かと思いまして」
「面倒ごとに巻き込まれそうなときに限って謙虚になるな。お前の友人だろ」
「そういえばそうでした」
「薄情だな……」
「いいや、警部さん。ゼンはよくわかってくれてるぜ」
力ずくでグスタフ警部を押し退けた団長がかたく拳を握る。
「売られたケンカは買う――そんな俺の主義をな」
「ワシのケンカを買ったお前さんはともかく、そっちのポニーテールの若造は物騒な物をぶら下げているくせに腑抜けだな」
「俺のマブダチをバカにしやがって!」
拳を振り上げる。
不敵にニヤつく老人。
おもむろに背中に腕を回す。
そしてそこに隠してあった長方形の得物で、団長のみぞおちに返礼の一撃をみまわせた。最小限の動作から繰り出される高速の打撃は完全に不意をついたかたちとなり、団長に白目を剥かせ、気絶に至らしめた。
達人めいた一瞬の動作でやられた団長が崩れ落ちる。
「老いぼれと侮って油断したな、青二才」
「何者だ」
ゼンが腰の太刀に手を添える。
カラスのように高笑いする老人。
「ここに並んでおきながらワシを知らんとは、やはり若造よ」
得物を握る手をぶんっ、と振る。
カシャッ、と金属同士が滑らかに擦れる音がし、長方形の物体内部に仕込まれていた刃がスライドして姿を現した。手首から肘までの長さはある刃渡り。ペーパーナイフだなんてもちろん、果物ナイフと言い張るの不可能な、殺傷力を追求した明らかな『武器』であった。戦車とライフルで戦争をするこの時代に、血に飢える老剣士が現れたのだ。
取り囲む警察官たちが拳銃を構える。
悲鳴を上げて散り散りに逃げていく人々。
グスタフ警部が武器を捨てろと警告するも、老人は不敵ににやつくばかり。刃の切っ先を軽く横に振って警察官がたじろぐのを楽しがっている。
「先ほどの身のこなし……。この老人、ただ者ではない殺人者ですよ、警部」
「そりゃあ殺人なんて正気の沙汰ではないからな!」
「おそらくこの距離では銃弾すらいなすでしょう」
「冗談はやめろ!」
老人がゼンに躍りかかってきた。
ゼンは鎖分銅のチェーンを両手で張って刃を受け止める。
「往来ではカタナを抜けんか。やはり腑抜け。やはり軟弱」
「里の刺客か」
ゼンの蹴りを飛び退いて回避した老人は、もう片方の手にも同じ武器を持った。
「ワシの名はマーガレット・ノキア!」
長方形の物体から刃が突出し、二刀流が完成する。
「恋愛小説なんぞにうつつを抜かす貴様らを今宵、皆殺しにする」




