邪竜ロッシュローブ(5/6)
邪竜ロッシュローブの爪が片翼の竜シェダルの胸に食い込む。
シェダルの竜翼による打撃で邪竜の鋼の鱗がへこむ。
竜と竜の殴打の応酬。
乱暴な殴り合いは二体の周囲にも被害を及ぼしていた。地面は雪と土が交じり合って汚れた色になってしまい、石造りの要塞は半壊して元の形を失いかけている。針葉樹の何本かも軋みながら倒れてしまった。
「シェダル。貴様のような竜が甘やかすからヒトはいたずらに自然を壊すようになったのだ。見たか、切り倒されていく森を、排煙に塞がれる空を、油に汚染されていく海を。いずれ大地は枯れるぞ」
ゼンとディアはじゅうぶんに距離をとった位置で立ちすくんでいる。
ハロルドも請け負った役目を忘れて棒立ちのまま。
「竜は存在せねばならんのだ。無法の抑止として。秤の均衡を保つ錘として。ヒトを恐怖に陥れ、邪竜とまで呼ばれるようになった俺こそが竜の模範なのだ。その点において逆鱗のアークトゥルスは惜しかった」
悪臭をかいだシェダルがとっさに距離をとる。
ロッシュローブから吐き出された酸の飛沫が要塞の壁にかかり、何十年もかけてはびこったコケやサビを溶かす。硫黄と腐敗の混じった臭気があたりに立ち込めた。飛沫が数滴かかってしまったシェダルの鱗にも、やけどに似た生々しい傷が斑点となっていた。
「天敵を欠いた生物は堕落を極めて腐る」
「何を口走ろうとお前の暴虐は正当化されない。今までいくつの町を焼き、どれだけのヒトを食らってきた。私はヒトの正義を代行し、未来の憂いを断つ」
首根っこに食らいついたシェダルが、アゴの力でロッシュローブを放り投げる。地面にこすり付けられたロッシュローブの鱗は擦り傷まみれになり、金属特有の冷たい光沢を失っていた。
「竜はヒトの天敵であらねばならん。それが唯一の存在意義。貴様のように敗者に甘んじる軟弱はゆるりと死ねばよかろう。だが、かつての栄光を望む猛者は多い。貴様やアヴィオールがヒトの救世主ならば、俺は竜の救世主なのだ」
しっぽで足を払ってシェダルを転倒させるロッシュローブ。
大きく息を吸い込む。
腹部がへこみ、酸の液が喉を伝って口までせり上がってくる。
様子を窺っていたゼンがついに『善』を抜いて駆けた。
黒い残光が一閃、雪原に引かれる。
ロッシュローブが酸の液をシェダルに浴びせかけようとしたそのとき、一瞬で間合いに入ったゼンがロッシュローブの鱗の隙間に漆黒の刀身を差し込んだ。
肩を絞り、両手に力を込めて柄を押し、めいっぱい刃を食い込ませる。
甲高い悲鳴を上げるロッシュローブ。
刃を差し込まれた片足が折れて姿勢を崩した。
酸の液が逆流する。
立ち直ったシェダルが前足の爪でロッシュローブの腹を突く。
鱗と皮膚が貫かれる。
爪を素早く抜き取る。
噴出する体液。
酸を作る臓器が破裂し、溢れた酸が内臓を溶かしていく。
致命の一撃であった。
身体の内側から襲いくる逃れようのない激痛にロッシュローブは悶絶し、狂ったようにのた打ち回る。血走った水晶の眼球が裏返り、酸混じりの唾液が吐き散らされる。発狂から次第に動きが緩慢になり、痙攣しだした。
そして最期には絶命した。
ハロルドは震える指をカメラに這わせてシャッターのスイッチをさがしている。
ディアは息を呑んで立ち尽くしている。
ゼンは太刀に付着した酸の跡をしきりに気にしていた。
邪竜の死骸から立ち昇る煙と刺激臭。
崩れていく死骸は解けゆく雪だるま。徐々にかたちを失っていく。
シェダルは死骸の目に爪を滑り込ませて水晶の瞳をえぐり取った。戦利品の獲得は間一髪で間に合い、そのすぐ後にロッシュローブの死骸は酸で溶けて金属のかたまりと化してしまった。
邪竜の眼球二つをゼンたちの前に並べる。
「せっかくのお膳立てを台無しにしてしまいました。せめてこれだけでも受け取ってください。オークションにかければひと財産得られるはずです。ハロルドのカメラで死骸と共に撮影すれば本物だと鑑定されるでしょう」
「こんなものでは師匠の借金生活が100年ぽっち縮むだけだ」
「そんなに怒るなよゼン。わたしは気にしてないし」
「気にしてください。せめて僕が生きている間に――いえ、なんでもありません」
「前払いのお金でじゅうぶんだろ」
「それはそれ、これはこれです」
「がめついぞ」
雪原に平穏が舞い戻り、鳥たちがさえずりだした。
ゼンが汚れた太刀の手入れをしている間、ディアとハロルドはシェダルとおしゃべりしていた。申し訳なさそうにしていながらも、シェダルはどことなく肩の荷が下りた、ほっとした口調であった。
「人間の味方をしてくれたのはありがてぇが、他の竜たちからするとシェダルの旦那は敵ってことになっちまうのか」
シェダルが首を横に振る。
「あんなもの、私を動揺させて精神的優位に立つのを狙ったでまかせです。あの邪竜が自然環境や同胞を心配するわけないですし、人間社会などなおさらです」
「傷が治ったらアイツ、どうせまた人間を襲ったろうからな」
「まあ、よしんばそうなったとしても、帝国軍の近代兵器であえなく木っ端微塵にされていましたよ。ヤツが拠り所にしてた力においてももはやヒトには叶わぬのです。原始的な力に頼っている限り、あくまで竜は獣の範疇なのです」
自壊したロッシュローブの死骸をちらと見やる。
食い散らかされたように骨格が露出したその姿に、かつての邪竜の面影はない。同胞への憐憫が湧いたのか、シェダルは黙祷した。
「皆、分際くらいわきまえています」
水晶の瞳が二つだけ、そのかたわらに転がっていた。
壊れたバイオリンケースにディアは腰かける。
水晶の瞳の一個を両手に抱えてもてあそぶ。
「サナトスを修理するにしても新しい武器を調達するにしても金がかかるから、コレを売ったところでちょびっとしか借金返済には充てられそうにないぞ」
「本当にごめんなさい」
「シェダルは悪くないぞ。お前のおかげでロッシュローブを倒せたんだからな。むしろゼンの代わりに戦ってくれて感謝してるくらいだ」
「ディアさんはやさしいのですね」
ディアはくすぐったそうにはにかみながら頭をかいた。
カメラのレンズを覗く。
「ハロルドの写真、ちゃんと撮れてればいいな」
「期待してもお嬢ちゃん、肩透かしくらうぜ」
「上手く撮れてたらカメラマンになれよ」
「俺はきこりだ」
ハロルドはもう何度目かの決まり文句をついた。
ゼンはまだ太刀にこびりついた体液を拭っている。
「シェダルとハロルドってどうやって知り合ったんだ?」
雪山で滑落したところを助けられたのがきっかけだったとハロルドは話す。暖かい春の季節のうちにロッジを建ててそれ以来、この命の恩人の片翼を補ってきたのだと彼は続けた。淡々とした口調ながら、尊さや懐かしさが垣間見えていた。
「翼をもがれた鳥は死んじまう。竜だってそうだろう。シェダルの旦那は命をかけてまで俺たち人間を守ろうとしたんだ。俺はそれに報いただけだ」
「何百年もふもとの町を見守ってきました。私の存在を知る住人は少ないですが、私にとって彼らは我が子も同然なのです」
「ヒモカガミやアルゲディも同じようなことを言っていた」
ゼンが口を挟む。
妙案が浮かんだのか、ハロルドがおもむろに立ち上がる。
「旦那もそいつらみたいに町の守護神になればいい。よし、俺が町長にかけあう。旦那の手柄を教えてやれば、みんな歓迎してくれるさ」
「わたしも加勢するぞ」
「守護神だなんて大層な肩書きはよしなさい」
シェダルは苦笑いした。




