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殺しの才能(1/1)

「『コロシノサイノー』って何ですか?」


 数式の羅列を前にして頭を抱えていたノーラがついに教科書を放り出して「ぷはーっ」と息を吐き出したのは数秒前。それからすぐさまそんな突拍子もない質問をしたのは、ゼンに先んじて小言を封じるためであろう。


「寝言でたまに口にするんですよね。ディアちゃんから聞いたんですよ。っていうか不躾な質問かもしれませんが、お二人って同じ部屋で寝てるんです?」


 にやりと薄笑いを浮かべていやらしい冗談を繰り出す予備動作をしたノーラであったが、ゼンの表情を見るや己の無謀を悟り「な、なーんちゃって。あはは……」と顔面を蒼白させて目を逸らした。


「勉強に集中しろ。何のために僕が家庭教師をしていると思っている。カネのためだ。そして今回の家庭教師の仕事は成功報酬。僕と師匠の食卓に煮込みハンバーグが並ぶか、あるいは皿が透けて見えるほどの薄いパンケーキが並ぶかはノーラ、お前に次第だとゆめ心得ろ」


 理不尽な重圧がノーラの背中にのしかかった。

 彼女にイスを寄せるゼン。


「とにもかくにも解法を暗記しろ。そこより先は数学者の領分だから、理屈など知らなくていい。写真を撮る仕組みがわからなくてもカメラのシャッターを押しているのと同じだ」

「カメラ! なるほど! つまるところ使いこなせればそれでいいわけですね。ノーラ・カーレンベルク、やる気が出てきましたよ」


 ノーラは机に突っ伏していた上体を起こして再びペンを握った。

 とはいえ、気合や熱意で補いきれるほど勉強というものは容易くはない。血眼で教科書を睨むノーラの意気は目に見えて消沈していく。まさしくしぼみゆく風船。精神由来の偏頭痛が彼女を悩ませる。ペンよりもティーカップやビスケットを手にしている時間のほうが長くなってくる。

 ゼンは教科書を指差しながらあれこれ手ほどきするも、口を半開きにして呆然とする彼女の顔から焼け石に水だとさじを投げた。

 日が暮れてきた。

 ゼンは壁の照明スイッチに手をやる。

 天井に明かりが点り、夕暮れの茜に染まっていた部屋に本来の色合いが戻った。この部屋だけ時間が巻き戻されていくかのように、たそがれの哀愁が二人の胸から引いていった。


「殺しの才能」


 物寂しさの残りかすとともにゼンはその一言をそっと吐き出した。


「だからなんなんですか? 殺しの才能って。もったいぶらないで教えてくれたっていいじゃないですか。私とゼンさんの仲でしょう」

「……僕が子供のころ、祖父に言われた言葉だ」


 ゼンは開けっ放しの窓辺に遠慮なく腰かけた。

 夕焼けの風にポニーテールをなびかせながら高級住宅街の街並みに目をやる。


「雪が吹きすさぶ盆地の山里――そこが僕の故郷だった。雪が照り返す月明かりを頼りに本を読み、かじかむ手で(すずり)に筆をひたしていた。行灯を点けていられる時間が限られていたからな。油をむやみに使うと父が嫌な顔をするんだ」


 ノーラの私室には最新式の電気照明が備えられている。おまけに屋外に設置された石油ボイラーのおかげで浴室のシャワーからは温水が出て、冬になれば暖房が部屋全体を暖める。


「剣士の家系でありながら医者になりたいという僕の志に、父は理解を示さなかった。兄が協力的だったおかげで強く咎められることはなかったが」


 昼夜、寒暖――自然の摂理を覆す文明はすでに裕福層に及んでいる。昔に比べれば石畳を叩く蹄鉄の音もなりを潜め、もっぱら自動車のエンジン音が幅を利かせだしている。政府は自動車の普及に対応する新たな交通法の整備に取り組んでいる。馬を駆って弓を引く時代は過ぎ去ったのだ。

 人々の誇りの象徴は剣から銃に変遷した。

 世界は着実に羽化の瞬間へと近づいている。

 未だ文明の及ばぬ辺境の村落も、やがて時代の流れに呑まれる。


「もやに霞むほど遠い昔のある日、僕は薬の調合に必要な昆虫を庭で見つけた。捕まえたその昆虫を棒と鉢ですり潰していたとき、祖父がこう言ったんだ」


 ――ゼン。お前には殺しの才能がある。


「あの日から僕を見る目が変わった」


 精神鍛錬の一環となった今日の剣術とは異なり、ゼンの故郷で子供たちが習わされていたのは実戦的な殺人術だった。ゼンが8歳になるころには、拙いながらも人体の急所を破壊する手段を会得していた。


「実際、僕は村の誰よりも剣術に長けていた。帝都から取り寄せた本で医学の勉強をしながらにもかかわらずだ。親族殺しの罪で追われていたときも、村からの刺客は一人残らず返り討ちにした」


 真摯に聞き入るノーラ。

 それにもかかわらずゼンは言葉を切った。


「つまらんか」

「もっと聞きたいですよ。ゼンさん、今まで昔の話ぜんぜんしてくれなかったじゃないですか。ノーラは興味津々なのですよ」

「興が乗らない」

「そこは乗せてみましょうよ」


 ゼンが黙々と家路につく間も、ノーラは彼につきまとって話の続きをしつこく催促していた。彼女にポニーテールの先っぽを指でつつかれても、ゼンはまるで相手にしていなかった。

 そんな二人が思いがけぬ場面に出くわしたのは、人通りの多い繁華街から離れ、うらぶれた貧困層居住区に入ったときであった。

 曲がり角を曲がった瞬間に視界に飛び込んできたのは、三人の人間。

 一人は住宅の壁にもたれかかって倒れた中年男性。開けっ放しの目はうつろ。もたれた壁にはおびただしい量の血が塗られている。死んでいるか、あるいは幾許もなくそうなるであろう悲惨な有様。

 残りの二人は刃物を手にしたガラの悪い男女。

 人殺しがちょうど片付いた場面であった。

 自然体でたたずむゼンと、彼の背後で震えるノーラ。

 殺人現場を目撃された男女は動揺をあらわにしており、互いに目配せで意思疎通を図っている。それからすぐ罪を重ねることを決心し、血濡れの凶刃をゼンとノーラに向けてきた。

 その程度の小悪党をゼンがねじ伏せるのに十を数える必要もなかった。

 左脚を軸に腰を捻らせて半回転し、襲いくる男の足をすくって転ばせる。それから間髪いれず、女のアゴを太刀の柄の先端で突き上げて昏倒させた。

 太刀を抜くことすら不用だった。くずれた身なりを整える程度の最小限の動作で、またたくまに小悪党二人をねじ伏せた。


「日ごろカタナを持ち歩いている人間が正当防衛を主張したところで、陪審員の信用を得られるかははなはだ怪しい。だから斬るのはよした」


 カメラを首からぶら下げたまま呆然とするノーラをよそにゼンは話を続ける。


「殺しの才能とはすなわち、無我の内にて殺められる才能」


 住民の通報により警察官が駆けつけてきた。その中にグスタフ警部もいたため、ゼンたちが居合わせた殺人現場の顛末をひと目で察したらしかった。小悪党二人には手錠がかけられた。そして哀れな被害者の身元を確認すべく、警察官たちはあれこれと死体を調べだした。


「法や倫理、道徳による葛藤は太刀筋を鈍らせる。迷いの小路から抜け出すことこそ活殺の極致なのだと祖父は語っていた」


 住宅の陰や窓から野次馬が表れだしてにわかに騒がしくなる。湿った陰気な路地裏が奇妙な賑わいを見せだした。

 騒ぎを聞きつけた新聞記者が野次馬をかき分けて乱入してくる。警察官に押し戻されても彼らは果敢に執拗にシャッターを切っていた。薄暗い路地に閃光が連続していた。


「残酷になれるほどの決断力」

「お手柄だなゼン。隣にいるのは――カーレンベルク伯爵の問題児! もう事件現場を嗅ぎつけてきたのか!」

「殺人事件! スラムの無慈悲な殺害現場なのです!」

「目的を遂行するための強固な信念が決断力を揺るぎないものとする。祖父がここにいたのならば、今の僕は腑抜けに映ったろうな」

「異国の剣士が悪を成敗! これはスクープ!」

「以前の僕なら往来だろうと斬っていた」

「子供がこんなものを撮るんじゃない。父上に言いつけるぞ」

「うげっ……。い、いえ、ジャーナリストには真実を公表するという崇高なる使命があるのです。だからソコどいてくださいよ警部さん。スクープなのですよ」

「僕自身の考え方は違う。真逆だ。帝都で暮らし始めてからある意味、僕の『殺しの才能』は研ぎ澄まされたんだ。何故かわかるか、ノーラ」

「こんな特ダネを逃してはジャーナリストの名折れなのです」

「おい、ゼン。このおてんば娘を早く連れていけ。得意だろ。俺には手に負えん」

「それはお前や師匠、グスタフ警部、カタリナといった、僕を取り巻く者たちが――おい、聞いているのか。あれだけせがんでおきながら気まぐれなヤツだ」


 スクープをものにせんと躍起になるノーラと、それを阻止するグスタフ警部との熾烈なせめぎあい。ゼンはとうの昔に蚊帳の外。光の加減か、ストロボの雨を浴びる男の死体はどこかうんざりとした面持ちをしていた。



〈『殺しの才能』終わり〉

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