国境線警備(4/4)
異形のバイオリンケースを床にどすん、と置くディア。
ささくれ立った床が嫌な音を立てて軋む。
靴を脱ぎ散らかしたディアは、半竜特有の驚異的な身体能力を最大限に発揮し、玄関から直線状にいる居間のゼンまでひとっ飛びした。
自分の胸まで飛び込んでくる彼女を受け止めるゼン。
軽い衝撃。
右足を半歩後ろにずらして姿勢を保つ。
「おかえりなさい、師匠」
「ただいまっ」
離別の日数分を埋め合わせるかのようにゼンを力いっぱい抱きしめる。
「報酬はちゃんと口座に振り込んでもらったぞ」
「情にほだされて無償で請け負っていないか心配していました」
「ゼンは国境線の警備、ちゃんとできたか?」
「妙な連中の不法入国を許してしまいました。不甲斐ないです」
「ゼンが失敗なんて珍しいな」
「底意地の悪い手合いでしたから」
ディアは左腕をゼンの首に回して宙ぶらりんになりつつ、右手をポケットに伸ばし、写真の束を取り出した。
「ほらほら見てくれよ。きれいな夕焼けだろ。ノーラに撮ってもらったんだ。貝殻も拾ったからあとで見せてやるぞ。んで、こっちは床屋のオッサンが飼ってた犬で、ほら、毛がめちゃくちゃ長くて目が隠れてるんだ。こいつ、ちょっと目を離したスキにわたしのビスケットを食べやがったんだ。目隠れのくせに抜け目がないぞ。それでそれでそれでな、こっちは気球の――」
興奮気味のディアを引き剥がして一旦持ち上げ、垂直に降ろす。
「そんな密着状態でまくし立てられましても、僕の後頭部に目はついていないので写真は見えません」
カタリナが口元に手を当てて肩を揺らしている。
「ゼンくんの顔真っ赤」
「絞殺の瀬戸際まで抱きつかれればこうもなる」
ゼンの手に渡った旅の写真。
茜色の浜辺。おびただしい足跡。泡立つ波打ち際で遊ぶ裸足のディア。はじける水しぶきに健康的な少女の手足がまぶしい。ディアはカメラに向かって利き足を蹴り上げるポーズを取っており、丸い影が砂浜に落ちている。シャッターを切った次の瞬間に、撮影者のノーラがボールの垂直急襲に見舞われたのは想像に難くない。躍動感が清々しく、情景がありありと思い浮かんでくる一枚であった。
神妙に腕組み仁王立ちしていたエクレールがついに口を開く。
「おぬしが同胞――ディア」
透き通った水晶の瞳に映る、もうひとつの水晶。
「オマエも半竜か。ゼン、なんなんだこいつら」
「件の不法入国者の一味です」
「は? どどどどどいうことだっ!?」
「白状しましょう。この私エトガーとエクレールは共和国の差し金でございます」
「スパイがこんなボロ部屋に何の用事だ。っていうか警察に通報するぞ」
「グスタフ警部なら先ほどお帰りになりましたよ」
ゼンの嫌味にエトガーが悪乗りして混乱が極まる。そのせいでディアは「意味がわからんっ」と頭をかきむしって髪の毛をめちゃくちゃにしてしまった。手のかかる妹の世話役を果たさんと、カタリナはディアの髪型を指で整えてやった。
「おてんばで快活な少女ですか。私のエクレールには及ばないものの、ディアちゃんはディアちゃんでまた異なる味がありますね。ああっ、純真無垢。あけすけでむじゃきなところが背徳心をくすぐります。あの写真、焼き増しして――」
エクレールの肘鉄が脇腹に食い込み、エトガーの至福の顔が苦悶に歪む。
「幼い少女を肴に妄想を膨らませる癖、いい加減直してはどうでござるか」
「誤解をまねく発言はよしなさい、エクレール」
「一般的な殿方はバルシュミーデ嬢の美貌に見とれるはずでござろう」
「一般から逸脱した私に言われても困りますねぇ」
満足のいくまでおちょくってからエクレールの手を引く。
「よいのでござるか。マゲの返答がまだでござろう」
「私もそこまで意地は悪くありません。出る幕のない役者が舞台に残っていては劇も台無しというものです。悪役は引き際をわきまえてこそ一流なのです」
新しい家族が増えると思って内心喜んでいたのだろう。主人に追従するエクレールは、後ろ髪引かれる様子で幾度もディアのほうを振り返っていた。
恋しがる同胞のせいでディアに濡れ衣同然の罪悪感が芽生えてしまったらしい。
「そっちの胡散臭い男がエトガーで、オマエがエクレールだったか。これもなんかの縁だ。たまには遊びにこいよ。出し殻のお茶くらいなら出せるぞ」
エクレールは刹那に笑顔の花を咲かせてから、堅苦しくお辞儀する。
「かたじけない」
「ディアちゃん、ご主人が大変渋い顔をしておりますが?」
「ゼンはだいたい一日の半分くらいこんな顔だぞ」
少し間を置いてから思い出したように「それと」と付け加える。
「ゼンはわたしの主人じゃないぞ。どっちかっていうとゼンが子分だな」
「愉快な関係ですね」
「ああ、楽しいぞ」
「竜を殺す日々が?」
「ゼンがいるからな」
差し金の奇襲をたやすく跳ね返す。
つぎはぎの天井をしばし仰いでからエトガーと向き直る。
「ドーナツ屋とか警察官とか銀行員とか――わたしの悩みは働いてる人なら誰でも抱えてる『ジレンマ』なんだ」
「ほほう」
「ゼンは竜だけじゃなくてジレンマとも戦ってくれるいいヤツなんだぞ」
しきりに頷くエトガー。
「よいパートナーと出会えたのですね」
散々首を縦に振ってから、こうセリフを読んだ。
「しかし、皆目理解しがたい」
悪役の矜持を忘れずに。
半月後、ゼンとディアは黒狼駆除の仕事でアウグスト大佐と会った。
線路に沿って荒地を走る軍の装甲車両。
不規則に上下する車内。
ひどい揺れ。
ひどすぎる揺れ。
後部座席のディアは車酔いを催しており、先ほどからずっと青ざめてうなだれている。大きめの石をタイヤが乗り上げるたび、盛大に跳ねて尻が浮く。抱きかかえている異形の大剣『サナトス』がいつ誤作動を起こしてドアを貫通してもおかしくない状態。
大佐は巧みなハンドルさばきでサスペンションを手なずけ、石ころやくぼみを乗り越えていく。憔悴する二人とは裏腹に、暴れ馬とのロデオに夢中であった。
延々と続いていた線路が忽然と途切れる。
もう少し走れば黒狼の群れが巣にしている岩場へと到着する。その群れをゼンとディアが駆逐すれば、滞っていた鉄道敷設工事を再開できる。
岩場の前でブレーキが踏まれ、二人はようやく暴れ馬から解放された。車を降りてからもしばらくは意識が朦朧とした状態が続き、夢遊病者めいた足取りでその辺を徘徊していた。
意識が明瞭になって平衡感覚の調子も戻ると、背伸びして開放感を噛みしめる。
ゼンはライフルの準備をしていたアウグスト大佐にこう頼んだ。
「よろしければまた国境線警備任務に加えていただきたいのですが」
「相当食い詰めておるのですな」
「いえ、手こずる相手が近々トンネルを抜けてくるはずですから」
〈『国境線警備』終わり〉




