やがて過ぎ去る者(1/1)
それは、貧困層居住区の汚れを洗い流す大雨が降った日の出来事であった。
「今晩のスープ、ベーコンが入ってるぞ!」
泉のごとく澄んだスープに浮かぶ四角いかたまりに、ディアは大喜びでフォークを突き立てた。フォークに刺さるほど厚みのある肉を食べるのは久しく、ディアは上から下から横から、さまざまな角度からそれを眺めていた。
興奮して落ち着かないのか、脚の揃っていないイスをがたがた揺らして遊んでいる。貧乏人向けのオンボロ部屋で床の板も薄いだろうから、下の階の住人はさぞ迷惑しているだろう。ゼンはあえて幼児相手の言葉を選んで「お行儀が悪いですよ」とたしなめた。
「スープが冷めます、師匠」
ディアは宝物を探り当てた子供みたいに目を輝かせたまま、ベーコンを口に入れようとしない。
と、そこで何かに気づいた彼女の表情は一転して、疑るように眉をひそめる。
訝る視線がベーコンからゼンへと移る。
「ゼンのスープにはベーコンがない」
「僕はもう食べました」
「ウソつけ。最初から入ってなかった」
「煮ているときにつまみ食いしたんです」
「そっか。なら安心だ」
ディアはアゴが外れるくらい大きく口を開けた。
そのときであった。木材の割れる乾いた音と共に、ゼンの視界に映っていた彼女が忽然と消失したのは。
どすんと地面が揺れ、ホコリが巻き上がる。
立ち込めていたホコリが収まってから、ゼンはテーブルの下を覗き込む。
そこには脚が折れてぺしゃんこになったイスと、尻餅をついて目じりに涙を浮かべるディアがいた。満身創痍になりながらも右手のフォークだけは死守していた。
一難去ってまた一難。
天井の軋む不吉な音がする。
ディアが上を仰いだのと同時に腐った天井が抜け、溜まりに溜まった雨水が濁流となって降り注いで彼女を水浸しにし、宝物まで強奪していった。
「わたしが何か悪いことでもしたっていうのか!?」
風穴の空いた天井に拳を振り上げ、どしゃ降りを浴びながら神さまを非難した。
翌日は昨夜の豪雨とはうって変わって、青空が広がる清々しい買い物日和であった。
漆喰が剥げ落ちた貧困層向けの集合住宅と、時代遅れの個人商店が押し込められた狭苦しい路地裏を抜け、開放的な城下町を二人は歩く。新しいレンガ造りの建物と旧来のハーフティンバーが混在している帝都は、まさに繁栄の只中といった様相であった。
露店や旅芸人、楽団が噴水広場をにぎやかにしており、通行人の足をしばしば止めている。巡回中の警官まで車両を降りて同僚と談笑にふけっていた。
通りかかったディアも足を止める。
帝都に住む者なら見慣れた光景であったが、このときばかりは違った。
楽団の大人たちに混じって、竜の翼を生やした少年がバイオリンを弾いている。
巧みに弓と弦を操って音楽を奏でている。
優雅に、ときに激しく。
物語的な緩急が取り巻く人々をとりこにする。
打楽器や管楽器による合奏の行方は、彼のバイオリンが先導していた。
彼らを取り巻く輪はみるみる厚くなっていく。
旅芸人たちがやがて彼らの演奏に合わせてパフォーマンスを披露しだす。
広場は大きな一体感に包まれた。
夢見心地のディアと目が合った半竜の少年は、彼女が同胞だとわかると楽器を掲げて微笑み、隣にひとり分の場所を空けて目配せしてきた。
白昼夢から覚めたディアは反射的に目を伏せる。
そして異形のバイオリンケースを抱え、足早にその場から逃げ去った。
曲がり角を曲がってゼンが追いつくころには、無邪気な笑顔を取り戻していた。
「今日はいちだんと賑やかだったなっ。あの男の子――って、実際は300歳くらいかもしれないけど、見事な演奏で胸が躍ったぞ。うらやましいよな。誰かをしあわせにできる力を持ってるの。わたしにも音楽の才能があれば竜狩りなんて野蛮なマネしなくて済んだろうに。なあ、どうしてわたしは半竜に生まれて竜を……。おっ、そういえば話は変わるんだがなっ、カタリナの店に」
「師匠は別に悪いことなんてしていません」
「……ゼンはいいヤツだよな」
偽物の笑顔がぐにゃりと歪んだ。
ゼネラルストアで旅路での保存食を調達し、鍛冶屋でクギとカナヅチを買った。それから家路に着くついでにカタリナの店を冷やかした。古物商の看板娘は今日もレジスターを枕代わりに居眠りを決め込んでいた。
ゼンとディアの住む集合住宅の狭い一室は、雨のにおいが残っていて生臭かった。
立て付けの悪い窓を力ずくで開けて新鮮な空気を取り込むと、カビ臭さもいくらかマシになった。
「借金を清算したら郊外の戸建てにでも引っ越しては? あまり長居していると次は床が抜けかねませんよ」
屋根と天井に応急処置を施し、大家が手配した大工が来るまでとりあえず雨風を凌げる格好にはした。イスも素人ながら修理した。背中の翼が引っかかってじゃまだというディアの要望により、背もたれはつけなかった。
「あったかい海辺に家を建てたいな。そしたら毎日海で泳げるぞ」
「海水浴も捨てがたいですが、温暖な気候なら果物を栽培できそうですね。竜狩りから足を洗ったらオレンジ園でも開きますか」
「それは名案だ! 毎日オレンジ食べ放題だ……って、竜狩りをやめたらゼンと離れ離れになるんじゃないのか?」
「そんな約束でしたっけ」
「そもそもわたしたちが出会ったきっかけを忘れた。なんでゼンはわたしの借金返済に付き合ってくれてるんだ?」
「しいて言うなら恩返しかと」
合点がいったディアが両手を合わせて頷く。
「そういや家出したゼンを雨宿りさせてやったんだったな。あの日は昨夜と比べて小雨だったが。あんなのに恩を感じてたのか。普段は薄情なくせにお前、変なところで義理堅いよな」
「師匠の行く末が心配なのもあります。身寄りのない女の子をほったらかして野垂れ死なれたら、さすがに寝覚めが悪いですから」
「わたしはお前より80年は長生きしてるんだぞ。年下扱いするな」
「なら年齢相応の態度をとっていただかないと」
「とってるぞ」
「……」
ゼンは窓辺に肘をかけ、夕陽に暮れる帝都の路地裏に目をやる。
茜色のまぶしさに目を細める。
登記簿に載っているのか怪しいツギハギだらけの建物が無計画に乱立する、雑然とした町並み。
噴水広場が賑わう表通りが光ならば、貧困層居住区のここは影。
そんなこの場所も昼と夜の狭間に至った一瞬だけ、美しいほどの哀愁を帯びる。
「まあ、もうしばらくはご一緒します」
「もうしばらくってどれくらいだ? 100年くらいか? そんなに早くないよな? な? いきなりいなくなったら怒るぞ。ぜったい許さないからな。いなくなったりしたら、ぜったいいやだからな」
「さて、僕はそろそろ夕食の支度をします」
「おなかぺこぺこだと思ったらそんな時間だったのかっ。ベーコンはあるのか?」
「ベーコンはないです」
今晩のスープはキャベツの切れ端がコンソメの水面に浮くさびしいものであった。ごちそうを洗い流された悔しさがよみがえったのかディアはゼンの制止を振り切り、魚の缶詰にクギとカナヅチを立てた。
旅の携帯食糧として買ったはずの缶詰が献立に加わってしまった。
ご機嫌のディアが今日一日を振り返るようにおしゃべりする。路地裏で遭遇した猫の集会、ハチに刺されたみたいな鼻をした大家、鍛冶屋の頑固親父、カタリナの古物商店で見つけた先住民族の変な飾りについて――話題は無尽蔵。
ディアにかかれば日常の些細な出来事すら胸躍る冒険譚として語られる。
粗末な食事が並んだささくれ立ったテーブルも、彼女の笑顔さえあればパステルカラーに彩られるのであった。
しかしゼンは、唐突にこう言って彼女のおしゃべりを止めた。
「僕は人間ですから、どうあがいてもあと80年程度しか生きられません」
ディアは押し黙る。
「健康な身体で不自由なく動ける期間となるともっと少ないです」
不安をもたらす胸騒ぎに顔を曇らせ、水晶の瞳を揺らす。
「僕は喫茶店で夕立をしのぐ、ふらりと立ち寄った雨宿りの客。コーヒー一杯限りの『やがて過ぎ去る者』でしかありません」
「……ゼンはどうして」
「寿命と時間の価値観を共有できる仲間に出会えれば、オレンジ園も末永く続けられるでしょう」
「ゼンはどうしてそんなイジワル言うんだ!」
それきりディアはベッドに頭からもぐってふて寝してしまったので、食べさしの缶詰の後始末はゼンがするハメとなった。油がもったいなかったのでランプを消し、彼も早々に就寝した。
「さっきはごめんな……」
浅い眠りの中、少女のささやく声が耳をくすぐった。
「明日のスープはベーコンを入れましょうか。色合いも考えてブロッコリーとニンジンも加えれば、貧乏人なりに体裁は整えられるかと」
「そっ、それはうれしいが……お金」
「僕らの道のりは長いんです。せめて楽しんで歩みましょう」
それが彼なりの仲直りの表現だと気づいたディアは、ゼンのベッドにもぐりこんで背中に抱きついて甘えてきた。
翌日、半竜の少年と噴水広場で再会した。
昼下がりの、演奏が終わった頃合であった。
広場に集まっていた見物人たちが散り散りになっていくその隙間から退化した竜の翼がちらついて、ディアは「あっ」と小さく声を出した。
同胞との二度目の再会に運命を感じたのか、少年は息を弾ませてディアに駆け寄ってきた。反射的に回れ右をしたディアであったが、逃げ遅れて手首をつかまれてしまった。
仲間のもとへと手を引いてくる半竜の少年。
ディアがバイオリンケースを大事に持っているのを見た仲間たちは、楽器を片付ける手を止めて手招きしてきた。
興奮する半竜の少年は矢継ぎ早にディアに話しかけてくる。名前を名乗るところから始まり、バイオリン演奏が好きなこと、仲間たちと旅をしていること、人口の多い帝都でしばらく路銀を稼いでいることなど……。
この広い世界。
ほんのわずかしか残っていない仲間と出会えただけでもうれしい偶然なのに、その仲間もまた楽器を持っていたのだから、少年がこの出会いを運命と思わないことなどあろうか。翼をはためかせて喜ぶのも当然であった。
少年はケースにしまわれた楽器に興味を示しており「中身を見てみたい」としきりにせがんでくる。
少年は夢見ている。
ディアが抱える、身の丈ほどある異形のバイオリンケース。
その中にしまわれた楽器で合奏するのを。
まくし立てられて頭が真っ白になっていたディアは「あ、あう」と吃音を出すばかりで、名前も言うのもおぼつかない。彼女が『恥ずかしがりや』なのは昨日の出会いで知っていたから、少年はがぜん積極的になっていた。仲間の人間たちはそんな二人のやりとりを微笑ましげに見守っていた。
少年に手を引かれたディアの足がもつれる。
つまずいて前のめりになった身体が――
ふわり。
ポニーテールの青年に抱きとめられた。
「すまない。先客は僕なんだ」
ディアを抱き寄せたゼンが言った。
〈『やがて過ぎ去る者』終わり〉