天使の歌声(2/2)
その晩はノノの手料理が振舞われた。
外見こそ幼い少女。
その実は夫を支え、娘を育て上げた妻にして母。
彼女の料理は味も愛情も申し分なく、ゼンは黙々と箸を動かしていた。
とはいえ、炊いた米を主食とした山菜料理は大人好みの薄味で、わんぱく少女真っ盛りなディアには物足りない様子。二口ほど食べたあたりで自分の口に合わないとわかったのか、明らかに食事のペースが落ちていた。
鉛のように重くなったフォークを動かしてどうにか小皿を空にするたび、ノノが「食欲旺盛じゃのう」と嬉々として大皿からおかずを取り分けてきてディアに終わりなき絶望を味わわせる。賽の河原で小石を積んでは鬼に崩される子供の姿がゼンの脳裡によぎった。
「食事の後は三人で風呂に入らんか? こうしてお前たちとテーブルを囲んでいると、娘がディアくらいの小娘だったころを思い出して懐かしくなったぞい」
ゼンもディアも丁重に断った。
そしてノノの更なるおせっかいで、二人は同じ寝室にベッドをあてがわれた。
「子供扱いしやがって。同い年だろうが」
「半竜の身でありながら伴侶を得て子まで産んでいるのですから、精神的には彼女のほうが大人でしょう」
「……まあ、そうだな。それにしても娘か。びっくりだぞ」
あの娘も昔はディアみたいに小さくておてんばだった。今では工場地帯になってしまったが、町外れの原っぱを毎日のように駆け回って虫を捕まえていた。そんな愛娘ももう80歳のおばあちゃん。視力も足腰も弱まり、孫夫婦の家で介護されている――そんな具合で、夕食はもっぱらノノの娘の自慢話に終始していた。
あのおかっぱ頭の半竜の少女に娘どころか孫までいるのだ。
「今とは違う道を歩いてたら、わたしもお母さんになれたかもしれないな。結婚して子供産んで、それで順調にいけば今頃ひいおばあちゃんくらいになっててさ」
うつ伏せのディアはベッドを転がって仰向けになる。
細めたまなざしは、象牙色の天井を透かして遥か遠くの夜空を見つめている。
「復讐のために戦って死んだエリカ。結婚して子供を産んで母親になったノノ。そんでもって借金背負って竜狩りに明け暮れるわたし。ホント人生いろいろだ」
美しい満月も間近で見ると、穴と岩だらけの荒廃した表面が明らかになる。
バルシュミーデ家の晩餐会に招待されたある夏の夜、バルコニーでディアは食い入るように望遠鏡を覗き込んでいた。
空すら飛べない人間や半竜にとって宇宙は心躍らす未知なる世界。
宇宙ってふしぎだよねー。太陽があるのにずっと夜なんだって。好きなだけ寝てても怒られないなんて、ちょっとしあわせかも。えへへっ。
カーテンに包まって遊ぶカタリナらしい発想だった。
宇宙には重力がないからね、ふわふわ浮くんだよ。翼ある者もなき者も。神さまが創造した原初の世界――摂理の円環の中心では、僕らは平等なのさ。
山頂に登ったあの日、飛竜ミルファークはそう言っていた。
「まともな仕事に就かないゼンにさ、グスタフ警部が『普通の人生を送ろうとは思わないのか』ってたまに説教するだろ?」
「しょっちゅうしてきますね」
「『普通』って何だ? 竜狩りの旅でいろんな国のいろんな町でいろんな人たちと出会ってきたけど、みんなそれぞれ違った、いろんな暮らしをしてたぞ」
普通とはすなわち平凡。会社員や公務員、それか工場の作業員、あるいはパン屋や鍛冶屋といった家業の跡取りなど、凡百の一に加わって生涯を過ごすことを言う。グスタフ警部の、竜の鱗よりも固い頭の中では少なくともそうなっている。
ゼンは皮肉たっぷりに断言した。
「どっちかっていうとわたしは、人よりも竜に近いのかも」
「どういう意味ですか」
「そのまんまの意味だぞ」
「その意味がわからないのです」
「ゼンは未熟だな」
「思わせぶりなことを言って師としての威厳を保ったつもりですか」
子分をおちょくって満足したディアは、あっという間に寝入ってしまった。
ランプの灯を消し、ゼンもベッドに入った。
旅立ちの前に二人はノノの娘を紹介された。
ノノ宅からそれほど遠くない場所に孫夫婦の家はあった。庭付きの広い一戸建て。仲睦まじげに寄り添う中年夫婦と、車椅子に座る白髪の老女がそこでは暮らしていた。夫婦の息子たちは自立して帝都で暮らしているという。
「ノノおばあちゃん、久しぶりね。元気にしてたかしら」
「ワシはあと900年は元気だぞい」
祖母の冗談か本気かよくわからない返事に夫妻はとりあえず笑っていた。
車椅子の老女は心からにこにこしていた。
ノノが老女の手を取る。
遠い記憶に思いを馳せるように、親子の絆を確かめるように、しわくちゃの節ばった手に未成熟な子供の手を重ねる。
老女は入れ歯の入った口をもごもごと動かしていたが、発せられた言葉はゼンたちの耳にまでは届かなかった。ノノだけが「よかったな」だとか「そうじゃな」とか健気に意思疎通していた。途中から黙り込んで、言葉にならぬ言葉に静かに聞き入っていた。
「なあ、ノノばあちゃん。前も言ったけどさ、俺たちと暮らさないか。独りぼっちの暮らしなんてさみしいだろ。俺や家内に遠慮してどうするんだ。母さんだってきっと、ばあちゃんと暮らしたがってる。なあ?」
同意を求められた車椅子の老女はにこにこと頷いた。
ノノは困ったふうに苦笑いしながら首を横に振った。
ゼンとディアの旅立ちをノノは駅まで見送りにきてくれた。
「娘も孫も竜の血は混じっておらんかった」
どうして孫夫婦の提案を受け入れないのかと、あの後ディアが散々問い質してきたのをノノは「大人になればわかるぞい」といい加減にあしらっていた。その理由を彼女は別れ際になっていきなり明かしてきた。
「人間には人間の時間の流れがある。そこにワシが割り込んだところで摂理の円環に弾かれる定め。人と竜がわかたれた本質じゃ。お前たちだって同じじゃよ。やがて来る運命の瞬間にどう立ち向かうか、ゆめ覚悟しておくのじゃ。さもなくば――」
鳴り響くベル。
汽笛の甲高い音が夕暮れ空の遠くから響き渡ってくる。
立ち昇る蒸気が線路の先から見えてくる。
プラットホームに人が群がりだす。制服の駅員たちも慌しく動きはじめる。
その無数かつ無秩序な足音は出会いと別れの兆し。
ゼンとディアはノノに礼を述べ、別れのあいさつを交わした。
旅の安全を願ったお守りを二人に握らせるノノ。
そのままずっと手を握り続けていたせいでディアに訝られ、ノノは照れ笑いを浮かべながらバツが悪そうに手を離した。「遠慮せずまた遊びにくるといいぞい」「手紙をよこすのじゃぞ」と隠していた未練を涙といっしょにうっかりすっかり出してしまっていた。
「ところで、あの子の歌はどうじゃった? ……何首をかしげておるのじゃ。あのときお前さんたちの前で歌っておったじゃろ。若い頃は歌が得意でな、おてんば娘のくせにオペラ歌手なんておしゃれなものを目指していたんだぞい。結局は歌となんも関係のない郵便局に勤めて結婚してしまったがの」
困ったディアが目配せでゼンに助けを求めてくる。
「かすれ声で何を言っているのかすらわからなかった」
率直に感想を述べたゼンに「バカっ」とディアは蹴りをかます。
「ああ、そうじゃろう。あの子の歌を聞けるのはワシだけの特権なんじゃ」
思いの外、ノノは満足げであった。
〈『天使の歌声』終わり〉




