天使の歌声(1/2)
「困ったぞい。ひどく困ったぞい」
平野が広がる寂れた街道。
その道端で屈む少女にゼンは出くわした。
普段ならこういった手合いは我関せずを貫いて通りすがるのが彼の常。
今回ばかりは違った。
ゼンは彼女に手を差し伸べたのだ。
とはいえ、涙目で「困ったぞい」と連呼する少女に良心が痛んだされたかといえば、断じてそうではなかった。
雅な柄の生地で身体をくるみ、帯で結ぶ独特の衣装。
ゼンの故郷の民族衣装を少女はまとっていた。
そして背中の切れ込みからは退化した竜翼が飛び出ていた。
「強盗にでも遭ったか」
「違うのじゃ」
顔を上げた少女。
つぶらな水晶の瞳が潤んでいる。
「靴紐がなかなか結べないのじゃ」
「手が不自由なのか?」
「いんや、ワシは生まれて100年、健康そのものなのじゃ。つまりはの、この『すにーかー』というものにの、どうにも慣れなくてのう」
「結びかたを教えてやる。僕の指の動きを真似しろ」
ゼンは少女の隣に屈んで足を並べる。
いったん自分の靴紐をほどいてから、ゆっくりと結びなおしてみせる。
半竜の少女はゼンの指遣いをじっと見つめつつ自分の靴紐を結んでいく。何度も首を傾げながら、わっかをつくり、わっか同士を通したり、こんがらがってかた結びになってしまって涙ぐんだり……。そんな調子で悪戦苦闘しながらも、ゼンの辛抱強い指導の甲斐あって自力で靴紐を結べるようになった。
きれいな蝶々結びがふたつ出来上がって少女は感激していた。
「とんだ道草を食った」
「ありがとうなのじゃ。おぬし、口も目つきも悪いわりには親切じゃの」
「同郷のよしみだ。まさか僕の国にも半竜がいたとはな」
恩人が同じ国の出身だと知って少女はますます感激した。
「ゼンどのとの巡り逢いには運命を感じたぞい。お礼をしたいところなのじゃが、今はこんなものしかなくてのう」
巾着を手探って取り出した物体を手のひらに載せる。
水色の小さな球体が二個。
「半竜の眼球だと」
少女はそのひとつをつまんで口に放り込んだ。
「飴ちゃんじゃぞい」
残りのひとつをゼンの口にねじ込む。
ソーダ味だった。
街でディアと合流し、手帳に記した住所をさがして住宅街を歩く。
上流階級区では意匠を凝らした豪華な邸宅が見せびらかすように立ち並んでいたが、中流層を対象としたこちらでは、同じ形状をした一戸建ての賃貸住宅が群生するキノコみたいに散らばっている。
「なるほどな。そんな馴れ初めのおかげで今晩はその『ノノ』っていう半竜の世話になるわけか」
「せめてもの礼として僕らを自宅に招きたいとのことです」
「宿代が浮いたな。わたしが普段から言ってるとおり、人助けはするもんだろ?」
浮いた宿賃で買った白身魚のフライをディアはかじる。
「ノノはどんな半竜なんだ?」
「師匠と同い年の女の子で、背格好も似ていますね。黒髪のおかっぱ頭です。少々浮世離れしたところが見受けられる、人当たりのよい人物かと」
「旦那さんを亡くして一人暮らしか。もしかしたらさびしかったのかもな。わたしもゼンと出会う前は長いことひとりぼっちだったから共感できるぞ」
キノコの群生のひとつにノノ宅を見つけ出し、チャイムを鳴らす。
階段を下りるやかましい足音。
足音が段々と近づいてくる。
ドアが開く。
「よう来たの。待っておったぞい」
黒髪おかっぱの少女が歓喜に頬を上気させていた。
よく言えば小ざっぱり。
悪く言えば殺風景。
ノノ宅はいたって清潔で、少々さびしさを覚える程度に物が少なかった。
居間のチェストにラジオが置かれており、その隣にノノと同じ髪形をした木彫りの人形が三体飾られている。ディアは「なんともいえない顔つきだな」と物珍しげに人形を手に取っていた。
振舞われたお茶は渋味の強い緑茶だった。
ディアはひと口飲んで渋面を浮かべると「ゼンは大人だから渋いの好きだよな。交換してやるぞ」と有無を言わさずゼンの茶菓子とそれを交換した。「食いしんぼうじゃの」と苦笑したノノが自分の茶菓子もディアに譲る。かくしてお茶会で振舞われた菓子はすべてディアの胃袋に納まることとなった。
緑に濁った水面に茶柱が立っている。
着物にこけし、重みのある湯飲みに緑茶、餡子の詰まった茶菓子。
世間ではエキゾチックと珍しがられるそれらの品物はいずれも、ゼンにとってはノスタルジックをもたらすものであった。
「いやはや仰天じゃ。同郷の仲間ばかりか、同い年の半竜とも出会えるだなんて偶然で済むものか。これも神さまの計らいなのかもしれんぞい」
「ノノはどうして婆さんみたいなしゃべりかたしてるんだ?」
「里の訛りじゃ」
ノノが音を立てて茶をすする。
「それにしても借金のカタに竜狩りとは難儀じゃの。力になってやりたいのは山々なのじゃが、ワシも旦那に先立たれてからはいくばくかの保険金で家計をやりくりしとる身でな」
「心配するなよ。なんだかんだでわたしたち上手くいってるからな」
「ゼンどのとディアはなかよしなのじゃな」
「なんだかんだでいい感じなんだ。なんだかんだ」
くすぐったそうに身体をくねらせるディア。
ノノは憂いを帯びた儚げな笑みを薄く浮かべる。
うらやましいの。
彼女がひそかにつぶやいたのをゼンは聞き逃さなかった。
元の調子に戻ったノノはチェストからカードの束と円錐形の物体を取り出してテーブルに並べる。
「茶の後は花札でもして遊ばんか? べいごまもあるぞい。それともおしゃれな都会っ子はドミノやトランプのほうが好みかの。おはじきとビー玉……なんて性格ではないじゃろうな、ディアは」
玩具をテーブルいっぱいに広げて瞳をきらきら輝かせるノノの姿は、ご主人さまとのボール遊びを心待ちにする飼い犬をゼンとディアに連想させた。
「このツンツン尖ったので遊びたいぞ」
ディアが興味を示したのはべいごまだった。回してぶつけ合う遊びだとノノに教えられると竜の本能的闘争心が燃え上がったのか、回しかたもロクにわからないうちからゼンに勝負を挑んできた。
よほど人恋しかったらしい。ノノは上機嫌でべいごまの回しかたをディアに手ほどきした。それこそ、愛しい孫に昔の遊びを教える老人のように。
裏返したクッキー缶の戦場で、ふたつのべいごまが火花散らして競り合う。
ラジオが鳴らすノイズ交じりのビッグバンドに紛れて、ノノは旅人二人に身の上を語って聞かせていた。ラジオのつまみを回して周波数をいじったり、マントルピースのそばに寄って模様の溝を指でなぞったり、口といっしょに手と足も動かしながら。
ノノが年齢的に若かった当時は竜をも巻き添えにした世界規模の大戦の最中であった。彼女とゼンの故郷は狭い国土のうえに資源にも乏しい小国。帝国や共和国の植民地となって切り分けられたり反乱軍が蜂起したりと激動の渦中にあった。
命からがら帝国に亡命したことや、それからの困窮極まる日々から一戸建てに住めるようになるまでの苦労をノノは語っていたが、ディアはこま回しに熱中しており、ゼンも最低限の礼儀で目線をよこして耳を傾けるだけで頷きもしなかった。
「――とまぁ、そんな感じでワシは旦那と知り合ったのじゃ」
本人は別段嫌な顔はしていなかった。
己が道程を言葉にしながら独り懐かしがっていた。
「こんなちっこいナリじゃからの、ずいぶんと猫っかわいがりされたわい。あの人からすればワシは本当に猫か何かに見えたのかもしれんの。嬉しいやらもどかしいやら」
昔語りする彼女はほとんど独白であっても充分満足げであった。
「思い返せばワシにもなんだかんだあったぞい。この100年で」
夕刻。
ノノは食事の仕込みのためキッチンにこもりきりになった。
暇を持て余したゼンとディアは引き続きこま回しに興じていた。
ゼンに完敗を喫したディアは、気晴らしに部屋を眺めていたときにマントルピースの写真立てに気がついた。
丘陵を背景に仲良く寄り添う二人。
一人はノノ。
もう一人は白髪の老女。車椅子に腰かけ、膝の上で両手を重ねている。
白い歯をさらすノノと上品な微笑をたたえる老女は対照的でありながら、どことなく似通った部分がある。
「これってノノの――」
「ノノの母親か祖母でしょうか」
「娘じゃよ」
キッチンから腕まくりをしたノノが戻ってきた。