冬竜ヒモカガミ(12/12)
そこにいるはずのない者が現れて、これが夢だと確信した。
寒い日に見る悪夢の中に僕はいたのだと自覚した瞬間、四肢に結びつけられていた操り糸が切れて支配の呪縛から解放された。生霊めいた俯瞰視点から主観視点に戻され、演じられた動き以外の自由が許されるようになった。
僕の認知が影響したのか、猛吹雪の中でも前髪一本たりとも乱れなくなった。
寒さも感じなくなった。
まるで映画のスクリーンの前に立っているような感覚。
「10年前のあの日、僕はヘキラを見捨てました」
「当たり前だ。こんなところに飛び込んだらゼンまで死んじゃうぞ」
「あの日の僕は幼く、無知で未熟で、愚かでした。竜が季節を冬にしているだとか、万病を治す薬草だとか、ばかげた迷信を信じていたせいで兄さまの死に目に会えず、挙句にヘキラを殺し、村から出ていかざるを得ませんでした」
「でも、ヒモカガミの最期を見届けてやれた」
竜の死体に師匠は触れる。
起伏の激しい瘤だらけの表面を小さな手がなぞる。
「兄さまを荼毘に付し、ヘキラと連れ合いになって村で生涯を過ごす。そんな未来があったはずでした」
「そしたらわたしとゼンは他人同士だったんだな。わたしたちは交わることなんてなくて、それぞれ違った道を歩いてた。ゼンは医者になって、わたしは……どっかで行き倒れてたかもなっ」
師匠はさびしげに苦笑いした。
収納状態の『サナトス』を腰かけ代わりに雪の上に置いて、僕のそばに座る。
「お兄さんを助けるために最後まで諦めなかったから、あの娘を追って崖に飛び込まなかったから、10年後にわたしとゼンは出会えた――って感じで、世の中なにがどう転ぶかわかんないよな。正しいだとか間違ってるだとか、そんなのしょせん、都合のいい後付けの価値観なんだろ」
これが夢だとすれば、隣に腰かける彼女もまた自己暗示のまぼろし。
肘とひざにまとわりついていた雪を払い落とした僕は師匠と向かい合う。
「帰ります」
「気持ちの整理はついたか?」
「多少は」
「もしこれが夢じゃなかったら、ゼンはどうしてた?」
「別にどうもしません」
師匠の目じりに光る粒がにじんだ。
師匠とヘキラは似ているようで、よくよく見ると全然違っていた。
「早く起きてくれよ。とっくに朝だぞ。もうおなかぺこぺこだぞ」
「朝から食欲旺盛ですね」
「今日のパンケーキにはジャムを塗っていいだろ?」
「瓶に残ってましたっけ」
「まだちょっとだけあるぞ。昨夜わたしが確かめ――いや、なんでもない。とっ、とにかくだっ。さっさと起きろよゼン」
「わかっています。貴重なジャムをなめつくされてはたまりませんからね」
「起きろって言ってるだろ。とっとと起きろ」
「師匠?」
「おいこら、寝坊するな! 起きろ起きろ起きろ起きろ起きろ起きろーっ!」
どこからともなく出現した枕で師匠が僕を滅多打ちにしてくる。
綿の詰まった重い枕によって乱打された僕は、夢の世界から弾きだされた。
目を覚ますと、僕はじめじめしめったシーツに横たわっていた。すでに朝陽が昇っていて、やわらかな陽光が窓から差して部屋を温めていた。
身体の節々が痛くて気だるく、頭痛がする。
薄くまぶたを開けて寝ぼけまなこに光を慣らしていると、誰かが僕にのしかかってきてベッドを軋ませた。
「やっと起きたか。ねぼすけ」
師匠がいたずらっぽく笑いながら枕を抱いていた。
その日以来、僕がヘキラの夢を見ることはなかった。
〈『冬竜ヒモカガミ』終わり〉