迷子(2/2)
黒狼の遠吠えが不気味な森にこだまする。
ゼンは太刀の柄に手をかける。
すると、堅く閉ざされていたはずの小屋の扉が開いた。
黒髪の女が慌てて出てきてゼンの前に立ちはだかる。
黒狼が間近に迫ってくる。
呪い殺すような形相で女に手首をつかまれたゼンは太刀を抜くどころか逃げることすらかなわない。
藪から黒狼の群れがついに現れた。
「おかえりなさい、あなたたち」
黒髪の女は黒狼たちを抱擁で迎えた。
黒狼たちも黒髪の女を囲んで身体を擦り付けて甘えだした。
ゼンは黒髪の女が暮らす小屋に案内された。
「森で暮らすうちに、この子たちと心を通わせられるようになったの。あなたが思いとどまってくれてよかった。カタナを抜いていたら私、あなたをこの拳銃で撃ち殺すところだったわ」
小屋の中は外観のわりには清潔であるものの、簡素なベッドとかまどがあるだけで殺風景を極めている。枕元に読み古した本が一冊あり、文明を感じさせるものは拳銃とそれくらいであった。
「この小説、物語の初めから終わりまでソラで言えるわ」
「マーガレット・ノキアの『花の香』ですか」
「ご存知なのね!」
「帝都の人間で彼女の名を知らない者はいないでしょう。僕も彼女の小説は好きですよ。青臭い、失笑モノの描写が――」
「そう! 素敵な青春物語なのよね!」
ノキアに心酔する彼女は同類を見つけたのだと早合点し、彼女の書く小説の魅力を早口で語りだした。伸ばし放題の黒髪と、痙攣したように笑う顔色の悪い表情が合わさって。いっそうタチの悪い悪霊になっていた。
「ノキア談義は森を出てからにしましょう。必要な荷物をまとめてください」
「どうして出る必要があるのかしら?」
「森に迷って救助を待っていたのではないのですか?」
黒髪の女は「私はこの森に住んでるのよ。迷子じゃないわ」と苦笑した。
「帝都で暮らしていた頃は何もかもが窮屈だった。人間関係のしがらみ、不自由という名の力で抑えつけてくる法律、心無い者たちの悪意、騙し合いと腹の探りあいに心を磨り減らす日々、即物的な現代人の価値観……。そんなものばかりで社会は成り立ってた」
黒髪の女の声に再び熱が入り、まくしたててくる。
「人間は欲張りなのよ。生活の利便性を過剰に追求して進歩に明け暮れる。それが至上とばかりに、それ以外の価値観を蹴散らしてまい進する」
いくらか落ち着いてきて、悟ったように薄く笑む。
「森は静かでいいわ。他人の声なんて聞こえないし、車や工場の汚い煙だって吸わずに済む。煮炊きはちょっと骨を折るけど、近くにきれいな水場はあるし、食べられる草やキノコも生えてる。それにあの子たち、私に分け前をくれるの。おいしいお肉を。狩りが得意な子たちがさっきはいなかったから、もうそろそろしたら獲物を取って帰ってくるはずよ。あなたにもごちそうするわね」
ゼンは晩餐を丁重に断った。
この森で『お肉』を食べる気分にはなれなかったし、そもそも『狩りが得意な子たち』が永久に帰ってこないのを知っている。
手渡された本を戯れでめくっていく。文字のかすれた黄ばんだページは今にも背表紙から千切れそうである。
「森の奥でひとりきりの生活だなんて退屈そうですね」
「文明のまばゆさに目をくらまされた人間にはそう映るのよ、悲しくも。考えてごらんなさい。かつての私たちは自然と融和して暮らしていたのよ。文明を捨てた生活こそ人の本質的な生き方なの」
ノキアと拳銃は、本質を追求した彼女が最後に残した文明であった。
「そういえば『花の香』が今度、舞台で演じられるとのことです。帝都劇場の改装工事が来月に終わり、そのこけら落としとして上演される予定です。主演男優はかの若手――」
「やめて! 私をまやかさないで!」
一瞬、目の色を変えた女は耳をふさいで髪を振り乱して未練を振り払った。
「家族があなたをさがしているかもしれません」
「もともと家族とは縁を切るつもりで書置きを残してきたの。友達だってしょせん、うわべだけの付き合いだった。別れの言葉を送る義理なんあるかしら。あなたも人付き合い苦手そうな雰囲気してるわね」
「親類は片っ端からカタナで斬り殺しました」
「世の中いろいろあるわよね」
帝都大学での人間関係が嫌になって隣町に引っ越そうとして、この森に迷い込んだのが今の暮らしのきっかけだったと黒髪の女は言う。大地に根差し、風を受けて光を浴びてありのままに生きている自然と共に生きていくうちに世捨て人になったという。官僚の娘でありながら、帝国の最高学府に進学できるほどの境遇でありながら、彼女は森での隠遁生活を望んだのであった。
窓の外では黒狼の群れが思い思いにくつろいでいる。
人間と対峙するときは牙を剥いて威嚇している漆黒の獣たちも、仲間と団らんする様子は犬と大差ない。切り株に止まる小鳥がちいさな歌を披露している。八足の丸い昆虫が体毛を這っている。害獣として駆除される黒狼も、ここでは自然の一部であった。
「帰りましょう。あなたが考えているより世界は過酷ではありません」
ゼンは言った。
「まっすぐで泣き虫で不器用極まりない、ある女の子だって、100年生きてこれたんですから」
「強い女の子だったのね」
黒髪の女はそっけなく言った。
「……わかりました。さようなら」
説得を諦めたゼンは扉の取っ手に手をかける。
「ちなみにその小説」
「何?」
「最近続編が刊行されましたよ。ベストセラーです。ヒロインは死にます」
「出てって!」
ぶん投げられた小説がゼンの背中にあたり、剥がれた無数のページが床に散った。『花の香』は花弁を散らすように無残にばらばらとなった。
陰鬱な森の進むべき道を、銅貨を道しるべにたどっていく。
そうしていると、泣きべそをかきながらとぼとぼ歩く少女と出くわした。
少女はゼンの姿を認めるや否や異形のバイオリンケースを放り捨てて猛然と走ってきて、彼の胸に飛び込んできた。
正面から少女を受け止める。
軽い体重が乗った小さな衝撃が胸に届く。
少女の体温がゼンに分けられる。
堰を切ったように少女は泣きじゃくり、感情の波が胸を打った。
少女はゼンの身体に腕をまわしてきつく抱きしめ、握ったこぶしで背中をぽかぽか叩いてくる。密着しているせいで直に響いてくる言葉は、泣きじゃくっているせいで大半が解読不能であった。
かわいらしい竜の翼がしきりに羽ばたいている。
涙やら鼻水やらよだれやらが垂れ流しで上着を汚す。
引きはがすことなど無理であると、これまでの共同生活で散々思い知らされてきたゼンは、ディアが満足して泣き止むまで待っていた。頭をなでてあやしてやるほどやさしくはなかったから、ずいぶんと長い間棒立ちを強いられた。
泣きはらしたディアの目元は真っ赤で、半竜特有の水晶に似た瞳をひときわ印象強くした。
森の外へはあっけなく出られた。
ゼンたちと小屋のあった位置は森の外周付近で、ディアの助けがなくたって、その気になって周囲を探索すれば半日で抜け出せる距離であった。
森から脱出したゼンとディアは堅い地面を踏みしめながら田舎道を行く。
町と町をつなぐ道は長く、退屈な風景が延々と続く。
帝都近郊であれば点在する戸建ての住宅とともに農地が広がっており、四季に応じてその様相を移ろわせ、目を楽しませる。だが、僻地へ赴けば人の営みはなりを潜めてくる。先ほど迷い込んだ未開の森、渇いた荒野、地平線を見渡せる丘陵など、文明の支配が及ばぬ地はまだまだ多い。
道中、通りがかりの馬車に二人は乗った。
塗装もしていない木材の、最低限の骨組みだけの乗合馬車。作物を運ぶ荷馬車と大差ない、運賃相応の馬車であった。車輪が小石に乗り上げるたびにゼンとディアの尻が浮いた。
乗り心地はどうあれ、あとは町へ到着するのを待つだけ。
くたびれた二人は馬車の中で存分に羽を伸ばした。
竜狩りの旅人を珍しがった相乗りの農夫がゼンたちに旅の話をせがんできた。
ゼンが森に潜む人食女の話をすると、涙目のディアに後頭部をひっぱたかれた。
〈『迷子』終わり〉