冬竜ヒモカガミ(8/12)
兄さまの容態が急変したと聞かされた僕とヘキラは、道場での稽古を切り上げて屋敷に舞い戻った。
むせぶほどの錆っぽい臭い。
床に染みたおびただしい量の赤黒い血が目の前に飛び込んできて、怯えたヘキラが僕にしがみついてきた。僕は色と臭いからくるめまいに耐えながらヘキラの手を引いて床の間へと急いだ。
床の間では布団に伏せる兄さまを親族の大人たちが囲っていた。
僕たちの気配を察すると、大人たちは囲みに隙間をつくって僕たちを招いた。
「言い残すことがないように」
おじいさまの忠告を無視して兄さまのそばに座った。
真上から兄さまの顔を覗きこむ。
兄さまは乾いてしおれた白菜だった。生気がなくなっているのがひと目でわかり、僕たちをからかって面白がる普段の兄さまは面影すら何処かへと失せていた。布団に臥しているのはもはや幾許もない、やせこけた病人だった。
ヘキラの硬く握るこぶしが膝の上で震えている。
「ゼンとヘキラじゃないか。なんか帰ってくるの早くねえか」
「兄さまの具合が悪くなったと聞きまして」
「またそんな言い訳を。どうせ稽古抜け出したかったんだろ?」
枯れた声のせいで、そんな冗談にも耳を澄まさなくてはならない。
桶で手ぬぐいを濡らし、乾いた肌を拭く。
兄さまの表情が心なし和らいだ。
「剣術の稽古は休まず続けろよ。ゼンには才能があるんだからな」
「今日は師範に褒められました。だいぶ上達したと」
「おっ、さすがだ」
「家庭教師の先生も僕の学力なら、いずれ帝都大学に入学できるとおっしゃっていました」
「えらいなゼンは。もっと頭近づけろよ。俺からのご褒美だ」
皮を一枚張っただけの骸骨めいた手が僕の髪を梳いた。
その手はすでに死者の手だった。
「ほら、次はヘキラだ。どうした遠慮するなよ」
嗚咽をあげるヘキラを兄さまはなでてあやす。
「これじゃどっちが看病されてんだか。いつものおてんばヘキラはどこいったのやら。……まいったな。俺を安心してくたばらせてくれよ」
兄さまは穏やに死に臨んでいた。
死にゆく兄さまを取り囲む大人たちも僕たちほど取り乱してはいなかった。父さまも母さまもおじいさまも――皆一様、死人を送る儀式の仮面をかぶっていた。兄さまの体調が回復してきたとまんまと騙され続けていた無防備な僕たちだけが、運命を受け入れる覚悟のないままこの場に放り込まれていた。
障子に映る黒い吹雪。
命の灯火を吹き消さんとごうごうと唸っている。
不意に兄さまが喀血する。
血飛沫を顔面から浴びた僕は『善』を手にして屋敷を飛び出した。