迷子(1/2)
喉首めがけておどりかかってきた黒狼を、ゼンは太刀で斬り払った。
柄頭から鍔、刀身を経て、切っ先までことごとく黒い太刀『善』は、同じく黒にまみれた獣を切り裂いた。跳躍のさなかに薙ぎ払われた黒狼は短い悲鳴を上げて中空を跳ね、木に激突し、ずるりと地面に落ちるころには絶命していた。
残りの一匹がゼンの脇を抜け、ディアへと襲いかかる。
ディアは果敢にも腰を深く落とし、身の丈ほどある異形のバイオリンケースを脇で抱えて迎撃の態勢をとった。
取っ手のスイッチを押す。
ケース内部に押し込まれていた極太の刃がバネの力で突出する。
バネ式大剣『サナトス』は、質量と速度を重ねた瞬間的破壊力で獣を肉片と散らした。
群れをなして襲ってきた黒狼を退けると、森に陰鬱な静寂が舞い戻った。
ゼンは散乱する死体を見渡す。
死体は三匹分ある。逃げる途中で二匹倒したから、これで敵は全滅させた。
今回の群れは妙に統率の取れた立ち回りで二人を手こずらせた。
黒狼の体毛は異様に硬いうえ、手触りもとにかく不快で服飾に不向き。肉は臭くて食えたものではない。爪や牙でかすり傷を負おうものなら破傷風の危険を伴う。つまるところこの害獣との戦闘はひたすら無益で、狩りの依頼と無関係ならば避けるべきもの。
骨折り損のくたびれもうけをさせられてしまった。
ゼンは嘆息する。
「行きましょうか」
ポケットから出した方位磁石に目をやる。
その格好のままゼンは硬直した。
南北を示すのが正常なはずの方位磁針が、カジノのルーレットのごとく景気よく回転している。
「どっ、どどどどどういうことなんだゼン」
動揺をあらわにディアが肩を揺さぶってきた。
「コンパスが狂ってます」
「見ればわかるわ! 壊れたのか? ぶっ壊れたのか?」
「ご覧のとおり、ぶっ壊れたんです」
「とっ、とととととにかく戻るぞ。今来た道を」
「その『今来た道』とやはらどちらで?」
黒狼との戦いで無闇に森を駆け、地図を辿るなどとっくに放棄していたため、そもそも方位磁石が生きていようと二人は既に迷子であった。
陽光を奪い合うように背比べをする木々は森の中を薄暗闇に閉ざし、光と風を奪い、空気をカビ臭くしている。コケまみれの痩せた木々が乱立して形成された生気のない森は、右を向いても左を向いても似たような光景があるばかり。文明の利器による道しるべを失えば、もはや東西南北の手がかりなど皆無。
十歩くらいは後戻りできる。
十一歩目から先は本当に戻り道なのか定かではない。
「わたしたち、もしや迷子になったのか」
「紛れもなく明白に一目瞭然で確定的な迷子です」
ディアの顔からさっと血の気が引いていく。
「師匠。その翼で空を飛んで出口を見つけてください」
「ゼンお前、知ってて言ってるだろ。イスにもまともに座れんこんな不便なモン、飾り未満だぞ」
「がんばれば五つ数える間くらいは飛べると言ってませんでしたっけ」
「地面から親指一本分浮くのを『飛ぶ』と言い張るか」
「とはいえ、藁にもすがらねばならない状況です。師匠だけが頼りなんです」
「頼り? ゼンがわたしを……まあ、仕方ない。子分のお願いだからな。まったくゼンときたら、わたしばかり頼っていたら立派な大人になれないんだぞ。本当に手のかかる子分だな、まったく。ほんとうにまったく仕方ないやつだ」
頬を紅潮させたディアが渾身の力で背中のちいさな竜翼を羽ばたかせるも、やはりゼンのポニーテールをなびかせるのでせいいっぱいであった。体力をいたずらに浪費して彼女のがんばりは徒労に終わった。
「フロレンツさえ車を貸してくれれば森を迂回できたのに。あのドケチめ」
「迂回したら自動車でも三日はかかりますよ。しかも、こんな僻地に給油所なんてありませんし。そもそもの話、前の竜狩りで師匠があの人の車で竜に体当たりをかました前科がありますから、貸し渋る原因は師匠にあるのでは」
ぺしゃんこに潰れた愛車を前に力なく膝をつき、白目を剥くフロレンツの姿は今もありありと思い出せる。あのときばかりはゼンも同情の言葉を彼にかけたのであった。
図星をつかれて口ごもっていたディアが悪あがきする。
「元はといえばゼンが悪いんだぞ。お前がフロレンツの竜狩りの依頼をやたらめったらと受けるから」
「やたらめったら竜狩りせざるを得ないのは師匠の借金が原因でしょう」
「わたしだって好きで金を借りてたわけじゃない」
「仕事をしても長続きしなかった、と」
「何故わかった!?」
「郵便配達の途中、疲れてのんきにひなたぼっこ。パン屋ではパンをつまみ食いする。馬屋では馬とけんかして、挙句の果て路地裏での花売りでは――」
朗々とゼンが語るのに従ってディアの顔が耳まで赤くなる。ついには「ううううるさい!」と地団太を踏みだした。
「金金金……何をするにもあの鉄くずと紙切れが要る。不便すぎるぞ人間社会」
「そんな不便な人間社会でありながら、大半の人間が生活を続けていけてます。苦労と折り合いをつけながら。つまるところ師匠は」
「あーもううるさいっ。達者なのはカタナの腕前だけにしろって。大人げないぞ」
「その言葉、そっくりそのままお返しします」
20歳と100歳の大人げない口げんかであった。
幸いにも親切な先人たちが木や岩に目印をつけており、二人はそれを頼りに森を進んでいった。塗りたくられた矢印の赤色は何が原料なのか、あえてお互い口にしなかった。親切な先人たちの成れの果てを道中何度か見つけ、そのたびにディアは失意と絶望に追い詰められていき、ゼンに八つ当たりする頻度を増していった。赤い目印はやがて恨みつらみの文字に代わり、先人たちの精神状態がありありと想像できた。
森は深い。
深緑のフタのわずかな隙間から差す細い木漏れ日を頼りに、ゼンとディアは森を歩く。
「空は飛べなくても木なら登れるぞ」
突然ひらめいたディアが身近な木に手をかけて木登りを始めた。
細い幹の凹凸に指をかけて器用によじ登っていく。やがて彼女の姿は生い茂る枝葉の向こうに消えた。ディア自身が活発で天真爛漫なのもあるが、身体能力に秀でているのは半竜の特性である。
俊敏さはもちろん、腕力も痩身の少女からは想像できないほどの怪力である。
異形のバイオリンケースから刃を出して軽々と振り回すたび、ディアは人々に恐怖される。重いレバーを引いて刀身を収納するのも彼女なら補助器具なしに行える。
か弱い子供のちいさな心臓は、狂暴なる竜の血を身体にめぐらせている。
竜の祖先はかつて原初の大地の覇者であり、終焉の冬がもたらされるまで地上にはびこって暴政を振るっていた。
その贖いをさせられる子孫は、未成熟の10代で成長が止まる。
存在自体がアンバランス。
人間社会に窮屈さを覚えるのも、そのせいなのかもしれない。
ゼンは天井を見上げる。
生い茂る枝葉の揺れでディアの足跡がわかる。
「帰り道は見つかりましたかー」
うんともすんとも返事は聞こえてこない。
代わりに頭上から何かが降ってきた。
落ち葉を軽く鳴らして落ちたそれは、半球形の物体であった。
半球の断面には六角形の穴が規則正しく無数に空いている。
「粋な仕返しですね、師匠」
蜂の巣から無数の蜂が霧のように噴出してきた。
回れ右。
駆け足全力。
身も凍る重く低い羽音を背に、ゼンは無我夢中で森を逃げ回った。
放逐された故郷の差し金から逃れていた頃も逃げ回る日々が延々と続いてた。あの頃も常に命を狙われており、片時も心が休まらなかった。とはいえ口車に乗せて騙したり太刀で斬り殺したりできる分、今の状況よりかはいくらかマシであったといえる。
背後の羽音が途絶えた。
追っ手を撒いたゼンは肩で息をする。足を止めてから時間差で額から汗が吹き出てきた。
迷子になったばかりかディアとまではぐれてしまった。
今頃、師匠は泣きべそをかいていることだろう。
肉体と心の強さは別々。
「師匠はいつも僕を困らせる」
ひとりごちながら屈んで地面の銅貨を拾い上げる。
逃げながら撒いた銅貨をたどれば、少なくとも元の場所へは戻れる。ディアも銅貨を見つけて、ゼンの意図を理解していればうまい具合に鉢合わせるだろう。
その前に、ゼンには立ち寄らねばならない場所があった。
目の前には葛に覆われた小屋。明らかに廃屋である。
ここならばとりあえず一夜を明かせる。
ドアノブに触れかけたそのとき、扉がきしみながら勝手に開いた。
中から現れたのは黒髪の女であった。
長い前髪から不健康そうな顔色が窺える。
女は青ざめた顔のぎらついた目をまん丸にさせて「ひっ」と上ずった声を上げる。悪霊めいた形相の不意打ちに見舞われたゼンも「ぐっ」と喉から声を出して真後ろに飛び退いた。
黒髪の女は即座に扉を閉めた。
錠が下りる金属音。
木立からかすかに聞こえてきた複数の獣の足音。
黒狼の群れが近くにいる。