逆鱗のアークトゥルス(8/8)
噴水広場のケヤキが茜色に染まり始めた時分、ノーラがゼンとディアの集合住宅を訪ねてきた。オートバイの爆音がカウガールもといジャーナリストのタマゴの来訪を告げたのであった。
「おじゃましまーす。ご無沙汰してましたね。心配かけちゃいました?」
「わたしは別にしてないぞ。やきもきしてたのはゼンだけだ」
「も、もしかしてディアさん、私を警戒してます? もう強引な取材はしませんって。アークトゥルスの件で懲りましたよ」
甘い香りのする菓子箱をノーラから受け取って容易く警戒を解いてしまったディア。菓子箱に高級菓子店の名前が印字されているのに気づくや、飼い猫みたいにノーラに懐いてしまった。そしてすぐさま紅茶を淹れるよう子分に命じた。
興奮するディアを尻目に、ゼンは戸棚を開けてティータイムの準備をする。紅茶を淹れるまで辛抱できなくなったディアは、菓子箱から出したベイクドチーズケーキに手づかみでかじりついた。
ほっぺたが落ちそう。
という表現がよく似合う、しあわせの絶頂といった満面の笑みで底のクラッカーをボリボリ噛み砕いている。味の薄いパンケーキと塩パスタの日々に嫌気がさしていたのであろう彼女は目じりに涙まで浮かべていた。ノーラは「どうぞどうぞ」と自分のケーキを彼女に差し出した。
「お二人にお会いしたかったのは山々だったのですが、あの後すぐ試験期間に入っちゃったんですよ。秀才のノーラといえど、学校の成績は進学から就職まで評価されるので気が抜けないのです」
「よく試験を受ける気になれたな。わたしは三日くらい食欲なかったぞ。ゼンや団長にルイーズ、それにカタリナとグスタフ警部にもすごく心配かけた」
「一日も早い快復を僕は祈りましたよ。何せよ連日、グスタフ警部が部屋に押しかけてくるものですから。家宅捜査か何かと近所の人に間違われて迷惑極まりなかったです」
その様子を想像したのか、ノーラはくすくすと笑う。
「落ち込んでいても私の人生は続いていきますから。むしろ他のことに打ち込めた分、早く立ち直れたのだと思います――とかなんとか言っておきながら成績は散々だったんですけどね。お父さんに大目玉くらっちゃいました。あわやオートバイ没収の憂き目に」
イスに腰かけたノーラは物珍しげに部屋を眺める。
「案外きれいな部屋ですねー。外はまるでお化け屋敷なのに。住所ちゃんと合ってるのか三回くらい確かめちゃいました」
「整理整頓には気を配ってるんだ」
ディアはさも自分の手柄であるかのようにふんぞり返っていた。
チーズケーキはゼンが紅茶を淹れるよりも先にディアの胃袋に収まってしまった。口周りをクラッカーのくずで汚したディアは、ティーカップを傾けて行儀悪く紅茶を喉に流し込んだ。甘味に飢えていた少女の手により、高級菓子店のチーズケーキはあっけない末路を辿ったのであった。
「なんとも気持ちのよい食い意地で」
「アークトゥルスはああ言ってたが、やっぱりわたしは苦いより甘いほうが好きだぞ」
「子供ですね、師匠は」
「子供なのはゼンだな。苦かったり渋かったりするのを好むのを大人だと思い込んでる。甘いのが好きな大人だっているんだぞ」
「大人と子供の境界ってあいまいですよね。って未成年のノーラが言うのもナンですが」
ゼンが言い淀んだのを勝利としたディアは、哀れな敗者の頬をつんつん指でつついてからかった。ご機嫌な彼女は無敵であった。
ティータイムを楽しみながらの取材。
竜狩りや黒狼駆除の話、貧乏暮らしの苦労話をノーラは真剣に聞き入り、手帳に必死にペンを走らせていた。今淹れた紅茶の葉が人間かぶれしたおかしな竜から分けてもらったものだと聞かされると、興味深げにティーカップの水面を覗き込んでいた。
取材の礼にノーラは、来月開催される学校祭の父兄参加用チケットを二人に譲った。名門学校の祭典に招かれるとは予想だにしなかったゼンは「これは」と驚嘆の声を上げたのであった。
「東グレイス校学校祭といえば音楽科が催すオーケストラか」
「そんなのよりも屋台はあるのか?」
「コンサートホールは一番いい席を予約しちゃいますよ。屋台だって回りきれないくらいたくさんあるので覚悟してください。ちなみに私のオススメは鶏肉がどっさり入った豆スープです。楽しみにしてくださいねっ」
オートバイの故障により徒歩で帰らざるをえなくなったノーラを二人は駅まで送る。
肌寒い季節になっても繁華街はその華やかさを衰えさせはしない。変化らしい変化といえば、人々が厚着になりはじめたくらいである。
歩行者と自動車が危うい間隔でせわしなく行き交う雑踏を、野菜をどっさり載せた荷馬車が気ままな足取りで通っていく。帽子をかぶった郵便局員が自転車をせっせとこいで道路を横切る。ごった返す駅の前では馬車から降りた御者たちが退屈そうにタバコをふかしている。
白身魚のフライをかじっていたディアが納得いかないふうに肩をすくめる。
「アークトゥルスとの戦いが終わってからも代わり映えのない日が続いてるな。まあ、帝都の市民が竜に会う機会なんて博物館を見学するときくらいだもんな」
「ディアさんちゃんと新聞読んでます? 水面下では半竜や竜の保護団体が動き始めてますし、国民議会も半竜の待遇改善に本腰を入れだしたんですよ。私が撮影したアークトゥルスの写真も新聞に載せてもらったんですから」
「これを機に師匠も新聞を読むべきですね。毎月安くないお金を払っているのですから」
赤恥をかいたディアはゼンの背中に飛びついてポニーテールの根っこを引っつかみ、挙句の果てに八つ当たりの乱打を頭にポカポカかましだした。
仲むつまじい師弟のじゃれあいをノーラはカメラに収める。
二人の視線に気づいたノーラはもう一度ファインダーを覗き込んでウィンクと共に笑みを見せ、それが咎の枷ではないことを証明してみせた。
「一時期、死にたいくらい自分のことが大嫌いになって、いろいろ悩んで自暴自棄になって、カメラを壊そうともしました。早まらなくてよかったです。ただ、エリカさんの最期の写真は公表するべきか悩んでるのです」
押し倒されていたゼンは馬乗りのディアを引っぺがして起き上がる。
「私がシャッターの代わりにエリカさんに手を伸ばしていたら、助けられたのでしょうか。ずっとずっと悩んでます」
「僕らが思い描けるのは枝分かれする未来の、そのほんの少しだけだ――今のはアークトゥルスの受け売りだがな」
「えへへっ、いい人ですね、ゼンさんって」
カメラの底についた傷にノーラは指を這わせる。
駅舎の二階に上がると、ディアは通路の窓ガラスに寄って帝都を眺めだした。ゼンも彼女の隣に並んだ。
区分けされた建物の隙間を人の粒が流れていく。
学校に通うため、食事をするため、服を買うため、観光のため、仕事のため……。
そんな永久機関に等しき循環が帝都を生かしている。
大量印刷された新聞は読んだそばからゴミ箱に捨てられ、立派な石畳の下に隠された下水道は廃水で河川を汚し、工場地帯の煙突群は黒い煙を空に吐く。
代償を伴って、数え切れないほどのものが生まれては消えていく。
「楽園か」
ディアの吐息がガラスを白く曇らせる。
「どこにあるんだろうな」
ノーラが突如ゼンの肩に腕を回す。
間に挟まれたディアを巻き込んでぎゅっと抱き寄せてくる。
窮屈なくらい三人を密着させたノーラはカメラのレンズを正面の窓ガラスに向けた。
「記念写真を撮りましょう」
「なんの記念だ」
「私たちの親睦の――なのです」
「わたしたちって言うほど親睦深めたか?」
「これから深めるに決まってるじゃないですか。ささっ、ピースピース。おそろいのピースサインで撮りましょう」
帝都を背景に、三人の姿がうっすらガラスに鏡映し。
ポニーテールの青年は渋々と、蒼い瞳の女の子はまんざらでもなさそうに、学生服の少女はにこにことピースサインをそろえている。
「はい、チーズっ」
シャッターが押された。
〈『逆鱗のアークトゥルス』終わり〉
【あとがき】
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