逆鱗のアークトゥルス(1/8)
要塞と呼ぶにふさわしき、くろがねの王城。
その円錐形の尖塔に立つ青年は太刀を片手に、ポニーテールをたなびかせる。
腰を深く落とし、吹きすさぶ風に耐える。
朝焼けに泳ぐ薄い雲が心を洗い、痛いほど冷たい風に凶兆を感じ取る。
帝都の華々しき街並みが足元の全方位に広がっている。
レンガとハーフティンバーの建物、石畳の路地、緑の地平、青き海原――目も眩むような高さから眺められるのは、ぞっとするほど美しい、人間が築きあげた文明の景色であった。
そんな眺望を楽しむのもそこそこに、ゼンは双眸を鋭く細め、至近距離に対峙する黒髪の乙女を固く見据えていた。
清廉さと勇ましさを兼ねたいでたちは救国の聖女。
長い黒髪をはためかす彼女は華奢な体躯に不釣合いな純白の矛槍を構えている。銃火器が主流となった現代では一線を退きながらも、その古風な武器は無骨で重量感のある風体でゼンを威圧している。
対となって建つもう一方の尖塔には竜が陣取っている。
大きな竜であった。
人食いの一角竜ゾスカよりひと回り大きい。
そして何より特徴的なのは、逆さまに生える全身の鱗であった。
人はその老竜をこう呼び畏れている。
逆鱗のアークトゥルス。
「ヒトよ聞け」
アークトゥルスが高らかに吠える。
「余は今をもって竜王国の樹立を宣言し、帝国への宣戦を布告する」
ディアと城の兵士たちは中庭に放たれたアークトゥルスの手下たちと死の物狂いの戦いを繰り広げており、とうてい上を見上げる余裕などない。
小型の竜。その数およそ20。
ディアは持ち前の怪力に任せてバネ式大剣『サナトス』を自在にぶん回し、群がる仔竜を豪快になぎ倒している。ひと振りするたびにしっぽがちぎれ、首が飛び、頭蓋骨が粉砕される。そんな彼女の勇ましさと比べ、竜との戦闘経験に乏しい帝国軍兵士たちは無秩序な襲撃にかき回されて阿鼻叫喚の大混乱に陥っていた。
ディアの顔が激痛に歪む。
足首に噛み付いてきた仔竜にディアは鋼の大剣を垂直に突き立てる。仔竜は上半身と下半身にきれいに千切れる。ディアが足を二、三度振るとアゴの拘束が緩くなり、噛み付いていた上半身がすっぽ抜けた。
バルコニーには臣下を護衛につけた皇帝がいる。皇帝は尖塔に立つゼンと黒髪の乙女、そしてアークトゥルスの成り行きを固唾を飲んで見守っていた。
黒雲で唸る雷鳴のごときアークトゥルスの声が重々しく響き渡る。
「武力行使は余も不本意である。しかし、まことに悪しきは皇帝の不実、不義理によるもの。余もいよいよ腹に据えかねた。これぞ因果応報の次第と心得よ」
黒髪の乙女が続きを引き継ぐ。
「アークトゥルス陛下は皇帝との会談を再三要求しました。竜と半竜が幸福に暮らせる竜王国の樹立。その国家承認をあくまで拒否するのであれば、我々も多少は手荒にならざるを得ません」
黒髪の乙女は身の丈を越える矛槍を頭上で振り回す。柄がしなり、風切る刃の鋭い音が鳴る。
「忠臣エリカよ。その竜狩りの首級を余への忠誠の証とせよ」
「御意。必ずや献上いたします」
翼を広げ、アークトゥルスが飛び経った。
エリカと呼ばれた黒髪の乙女が矛槍を振りかざし、ゼンに攻撃を仕掛けてきた。
遠心力を存分に乗せた矛槍の一撃がゼンの足元を粉砕する。回避が間に合っていなければ、彼も同じ結末を辿っていただろう。
エリカはその細身からは想像もつかぬ怪力で矛槍を起こし、再びゼンの脳天めがけて打ち下ろす。彼が飛び退いたところに大股の踏み込みから追撃の刺突を繰り出し、無茶な体勢で上半身を捻るのを強いらせる。当たれば即死の絶え間なき連続攻撃は、ゼンに反撃どころか間合いの内に入らせるのすら許さない。移動を制限される狭い円錐の足場も彼に不利に働いていた。
ゼンは袖に仕込んでいた鎖分銅を放つ。
放り投げられた鎖はエリカの矛槍に絡まり、攻撃を阻止した。
好機。
かと思いきや、視界をふさぐ閃光が視界を遮り、ゼンに致命的な隙を与えた。
エリカは右足を軸に半回転し、スカートの下から垂れる爬虫類の太い『しっぽ』をぶつけてきた。腕を叩かれたゼンは鎖分銅を落とし、エリカの拘束は解かれてしまった。
「竜狩りと半竜の対決。大大大スクープなのです!」
その声はちょうど光の発生源と同じ方向から聞こえてきた。
学生服の少女が皇帝たちを押しのけて、バルコニーから身を乗り出してカメラを構えている。
ファインダーにゼンとエリカを収めてシャッターを切るたび、ストロボが世界を刹那に白くする。
興奮した少女は我を忘れてひたすら撮影を続けている。
小太りの軍人が少女の肩を掴んで引き寄せる。
「なっ、なにをするんですか。離してください。人権侵害で訴えますよ!」
「東グレイス校の生徒がどうしてこんなところに。危ないから下がっていなさい」
「はーなーしーてーくださーい。裁判所に訴えますからー!」
頭上から仔竜が降ってきてバルコニーの手すりを破壊する。
大きなアゴから覗けるノコギリ状の牙。赤く薄い舌を半開きの口から神経質に出し入れしている。粘っこく垂れ落ちる唾液からは森林のカビ臭さに似た悪臭がする。トカゲを巨大化しただけの竜未満の外見であるとはいえ、人間を食い殺すくらいなら容易い。
ゼンと皇帝の目が合う。
心配無用、と首を振った皇帝は、かたわらに立つ小太りの軍人に目配せする。
「アウグスト」
「はっ」
小太りの軍人アウグスト大佐は少女を後ろに下がらせて銃剣を構えた。
発砲に反応にして仔竜が跳躍した。
その動きにあらかじめ備えていたアウグスト大佐は、飛びかかってきた仔竜に銃身を力いっぱい叩きつける。大理石の床に打ちつけられて無防備となった背中に銃剣を突き刺した大佐は、バルコニーから仔竜を蹴り落とした。
尻餅をついてあっけにとられていた学生服の少女は時間差で身体を小刻みに震えさせ、身をよじって肩を抱いた。
「よそ見とはなめられたものですね、竜狩り!」
ゼンに迫りくるエリカの矛槍。
ゼンは刀身に切っ先をかすらせて刺突の軌道を逸らす。
重心のずれたエリカは彼に倒れこむかたちでふらつく。そこに渾身の裏拳を見舞わせた。エリカも負けじと彼の顔面を殴りとばした。ゼンは彼女の身体能力を見誤っていた。鉄塊の矛槍であろうと、半竜にとっては片手で扱える棒切れ同然なのだ。
痛み分けに終わった肉弾戦。
エリカは後退しつつ、矛槍をめいっぱい振りかぶる。
昇る朝陽がその姿に重なり、半竜の乙女の神聖さをいっそう高める。
「罪無き竜の命を数多奪ってきた大罪人。刑の執行はもはや結審を待たずともよいでしょう。『聖槍アークロプス』の威光にひれ伏しなさい」
引導を渡す一撃をエリカが繰り出そうとしたのを見計らい、ゼンは足元に散らばる尖塔の残骸を蹴り上げた。
目潰しをくらったエリカに漆黒の太刀『善』を逆袈裟に払う。
偶然か聖槍の加護か。エリカが黒髪を振り乱して苦し紛れに振った『アークロプス』がゼンの太刀を弾き返した。
視力を奪われたエリカは尖塔から滑落する。
上空を旋回していた飛竜がすかさず急降下し、落下する彼女を背中で受け止めた。
半竜の乙女を乗せた飛竜は南の方角へ飛び去っていった。
太刀を鞘に納めたゼンは尖塔からバルコニーへ飛び移る。
「ご無事ですか陛下」
「うむ。そちの武勇、見事であった」
「恐れ入ります」
「下で戦っていた彼女のもとへ向かいたまえ。心配なのだろう?」
「お言葉に甘えて、失礼いたします」
学生服の少女がカメラを構えたが、アウグスト大佐に睨まれてその手を下ろした。
中庭での戦いも片付いていた。
荒れ放題と化した芝生に仔竜の死骸が散乱しており、それに混じって負傷した兵士たちがうめき声を上げながらもんどりを打っている。ディアは竜の体液を浴びて汚れたサナトスを地面に突き刺し、噴水の縁に背を預けてへたり込んでいた。