よくばり(2/2)
暴食がたたって体調を崩したディアは、ホテルの空室を借りて寝込んでいた。
残りの900年、二度と縁がないであろう高級ホテルのスイートルーム。天蓋つきのベッドの寝心地も、目も眩む帝都の夜景も、吐き気にうなされながらでは台無しであった。
「くるしい。おなかさすってくれ」
ベッドに腰かけたゼンがぽっこりふくれたディアの腹をさすると、心なし顔色が和らぐ。
「身体が重い。きもち悪い」
「はりきりすぎましたね」
「ゼンもやたらめったら食べてたのに、どうして涼しげなんだ」
「そう見えますか。僕も腹八分目を超して少々胃もたれしています」
ゼンはずるいぞ。
と不平をこぼす。
「痛かったりつらかったり苦しかったりしても、いっつも平気なフリできて」
ゼンは無言で彼女のおなかをさすりつづける。
生地の薄いドレス越しに、肌のやわらかさや温度がはっきりと感じ取れる。
悪夢にうなされる子供のようにディアは「くるしい」と訴えつづけている。そうしながら、汗ばむ手でゼンの腕をいじらしく掴んでいた。「おえっ」と吐き気を催したのに反応して腕を引っ込めようとしても、なおさら強く抱きしめてきてそれを許さなかった。
「ゲロぶっかけたらゴメンな」
「でしたら手を離していただけると大変助かります」
「そ、それもムリだ。離したらホントに吐くかもしれん。大変なのはわたしのほうなんだよ」
「……爆弾を抱える心持ちです」
弱気になった彼女の唯一のよりどころがゼンなのであった。
横たわっていたディアが仰向けになる。
胃袋の中身が波打つのをゼンは手のひらで感じ取った。
「おいしいものを食べるのも、おなかいっぱい食べるのもしあわせなはずなのに、どうしてくるしいんだ」
「持て余したしあわせは、こぼれた分だけ災いに転じるのでしょう」
教訓めいた物言いに「よくわからんぞ」と顔をしかめてから「ゼンは答えに困ると、難しいこと言ってはぐらかすよな。口下手め」と八つ当たりしてくる。
苦しみを解消する手段を持たないディアは、胃袋が中身を消化してくれるまでひたすら耐えるしかない。
額に張り付いた前髪を剥がし、濡れたタオルで汗を拭くゼン。心地よい冷たさを感じたのか、ディアはしおらしく「ゼンはやさしいな」とはにかんだ。
「ゼンと会えてよかったぞ」
「大げさですね。今生の別れですか」
「わたしと出会った人たちのほとんどは、わたしより先に死んでった。仕方ないってわかってる。でも、でも……ゼン。お願いだから、ゼンは先に死んじゃだめだからな」
この言葉に対する返事は端から期待していなかったらしい。ゼンが黙りこくってもディアは言葉を続けなかった。
静寂を破るノック。
部屋に入ってきたカタリナが水差しとグラスをサイドテーブルに置いた。
容態の安定したディアが寝静まったのを見届け、ゼンとカタリナは部屋を出る。
「恩に着る。高級ホテルのスイートルームか。高くついたな」
「んーん。お安いご用だよ」
「宿泊料は必ず返済する。店の掃除でも仕入れの使いでも好きに使ってくれ」
「ゼンくん変なところで律儀だよね。私こそ助かったんだよ。堅苦しいあいさつばっかりでちょっと疲れちゃってたんだ。だからこれでおあいこ」
夜中の廊下はしんと静まり返っている。
ロビーもひとけがなく、コーヒーを楽しみながら談話する彼らを妨げる音はひとつとしてなかった。
金持ちを集めた華やかなる立食パーティーはもはや遠い世界。
お姫さまは王子さまと二人きりになれる時間を手に入れたのであった。
「お眼鏡にかなう男子はいたか」
カタリナは「やだもー」とくすくすと笑う。
ひとしきりそうした後、目じりの涙を拭う。
あけすけな笑みは、涙を拭う手を下ろしたときには物憂げさを帯びていた。
「私まだ15歳だよ。恋人だっていないのに。今日のパーティー、ホントは行きたくなかったんだ。おじいちゃんがゼンくんたちの同伴を許してくれたから仕方なく来ただけ」
「やはりあのとき、師匠が言ったとおり助けるべきだったか」
「そんなの、鳥かごのカギを開けるようなものだよ」
カタリナの言葉には棘が隠れていた。出血するほど傷つけはしないものの、指先に伝わった小さな刺激ではっとさせる程度の意地悪な。
ドレスを着た今夜の彼女はお姫さまになりきっていた。普段のおとぼけた性格はなりを潜め、王子さまをあえて困らせて楽しむいたずらっぽさや、運命に拘束された身の上を憂う儚さがいっそう表れていた。
「お店番を頼まれて、お客さんが来るのをドキドキ待って、ひなたがあったかくて、ときどきうっかり居眠りしちゃって、ひやかしにきたゼンくんたちをからかって――そんな、ゆっくり流れる時間がずっと続けばいいのに」
「未来永劫などありはしない」
「だよねー。えへへ。ちょっとよくばりだったかも」
透ける硝子。
溶けゆく氷。
儚きものに人が美を見出す理由を、彼女はゼンに教えた。
「あふれてくるしあわせ、限りある時間の中で受け止めきれたらいいな」
体調の快復したディアはゼンの制止を振り切って立食会場へと再び身を投じた。
パーティーはとうに終わっており、もぬけの殻。広いホールにいるのは後片付けに追われるボーイとコックのみ。食い散らかされた料理もだいぶさびしい有様となっていた。
ディアはあらかじめ持参してきたランチボックスに料理を詰めていく。団長とルイーズに料理を持ち帰る約束をしていたとのこと。若いコックが「どうせ捨てるから」と喜んで許可してしまったのでゼンが口を挟む余地はなかった。
「これとこれはルイーズたちにあげる分。よしっ、こっちはウチに持ち帰って食べる分だ。ふふっ、明日もこんなおいしい料理が食べられるなんてしあわせだぞ……おい、ゼン。ぼけっとつっ立ってないで手伝ってくれよ」
己が師の100年生きる秘訣を目の当たりにしたのであった。
何の変哲もない平和なある日、バルシュミーデ古物商店にフロレンツが訪れた。
ていねいな所作で自動車のドアを開けて降りてきた背広の彼は、戸口でおしゃべりしていたゼンとカタリナのほうへ不審な挙動で近寄ってきた。
太刀の代わりにホウキを握るゼンに恨めしげな一瞥をくれてから、カタリナの前で「ご機嫌うるわしゅう。お嬢さま」と恭しくひざまずく。
「いらっしゃいませー。今日も掘り出し物をさがしにきたんですか?」
「めっそうもございません!」
首から上がもげる勢いでかぶりを振る。
不愉快に甲高い声を今日はさらに耳障りにかき鳴らし、演技派俳優を黙らせるほどの昂ぶりかつ早口でまくし立ててくる。
「このたびはお嬢さまのお目にかかりたく参上した次第であります。罪深くも私はバルシュミーデ会長のお孫と存ぜぬまま、これまでお嬢さまに度重なる無礼を働いておりました。どうか私に……罪の自覚に打ちひしがれ慟哭に暮れる私にどうか寛大なるお沙汰を」
「何言ってるんですか。フロレンツさんはウチのお得意さまじゃないですかー」
「ああっ、なんと慈愛に満ち溢れたお方! 地上に降臨した女神が御手を垂れ給うた!」
天の恵みに感謝するかのように諸手を挙げて天を仰ぐ。
「僭越ながら今後とも帝都銀行――いえ、このフロレンツめと末永きお付き合いを」
「はーい。こちらこそ今後ともバルシュミーデ古物商店をごひいきにー」
「貴重なお時間を割いていただき、まこと恐悦至極。それではこれにて失礼いたします」
打算に腰を低くしたフロレンツはそのまま、器用にもカタリナに背を向けまいと後ろ歩きで店を後にした。怒涛の展開に置いてきぼりにされたカタリナはきょとん、とあっけに取られていた。
「フロレンツさん、頭でも打ったのかな」
「雷にでも打たれたのだろう」
〈『よくばり』終わり〉