善き人(2/3)
檻を破って逃げ出した小型の竜は傘に似た首周りの『ひだ』を広げ、鉄を引っかくような甲高い鳴き声を上げ、遠巻きから様子をうかがう人間たちを威嚇している。
トカゲというには大きすぎ、竜と呼ぶには小さすぎる。
大型犬ほどの大きさしかないその仔竜はつぶらな瞳がチャームポイントで、叡智や脅威を象徴する竜の威厳はかけらもない。水分をたたえて潤む瞳は、人間世界に突然放り出されて怯えているようにも見受けられる。
仔竜のせいいっぱいの威嚇をよそに、観衆たちは「かわいい」だの「トカゲみたい」だののんきにざわめいており、逃げ出すどころか逆にその愛玩動物を取り囲む輪は厚くなるばかり。カタリナまでもが「もうちょっと近づいてみようよ」とゼンの袖を引っ張っていた。
「ああいう竜もいるんだねー。子供の竜なのかなー。ひだひだのマフラーみたいなのがかわいいねー。いや、シャンプーハットかな」
カタリナを無視してゼンは人だかりに何往復も視線を走らせている。
一見すれば有象無象ののんきなやじ馬ども。
しかしその中に、間違いなく悪しき者がいる。
ゼンはそれを執拗に捜している。
そして、観衆の中に目的のものを発見した彼は背をかがめて低姿勢になり、つむじかぜのごとく疾駆した。置いてきぼりにされたカタリナの柔らかい髪が舞い上がった。
人だかりに紛れて逃げおおせようとする背広の男二人。
片方はスキンヘッドで、もう片方は丸いサングラス。カタギの人間だと偽れているのは首から下まで。
新鮮な空気を吸って安堵していたのもつかの間、追跡してくるポニーテールの青年に気付いた二人は一目散に逃げだした。
川を泳ぐ魚さながら、空気の流れに乗ったゼンは人ごみを縫うように抜け、石畳の街路を駆ける。前のめりの無様な格好で逃げるほうぼうのていの背広の男たちに追いつくのに5つ数える間もいらない。
もはや撒くのが不可能だと判断したらしいスキンヘッドの男が懐に手を入れる。
取り出した冷たく黒光りする物体は拳銃。
引かれる引き金。
落ちる撃鉄。
つんざく火薬の破裂音。
そして、金属音とガラスの割れる音。
男の射撃は正確であった。銃弾を受け流すゼンの太刀筋と動体視力はそれ以上に精確であった。弾丸はゼンの眼前で火花を散らして軌道を逸らし、背後のガス灯のガラスカバーをぶち破ったのであった。
停車していた辻馬車に男たちが逃げこうもとする寸前、ゼンの袖から放たれた鎖分銅がスキンヘッドの男に直撃する。そのままゼンは鎖をムチのように操って先端の分銅を振るい、隣にいたサングラスの男のこめかみにも強烈な一撃を見舞わせた。
背広の二人組が失神してからほどなくして、大勢の警察官たちが彼らを拘束した。
「犯人逮捕に協力感謝する」
制服姿の警官たちを指揮していた中年刑事がゼンの前に現れる。
刑事の肩越しに、膝に手をついて息たえだえといった汗だくのカタリナが遠くに小さく見える。
「こいつらは密猟者どもだ。近頃、金を持て余した連中が竜を飼いたがっていてな。仔竜は高く取引されているんだ。お前にはまた借りを作ってしまった」
手錠をかけられて警察車両に連行される男たちを見ていたゼンに刑事は説明した。淡々とした口調から次のセリフに続けるとき、刑事の声は咎めるような強さを帯びた。視線はゼンの抜き身の太刀に注がれていた。
「竜狩りも警察からは同類扱いされている」
「グスタフ警部もそうお思いで?」
「……野蛮な仕事ではあるだろうな」
中年刑事――グスタフ警部はためらいがちに首肯した。
「竜狩りから足を洗って警察官になれ。ゼン」
「それに足る正義感を僕は持ち合わせていません」
「正義感とは経験で芽生えるもの。善なる心は万人に宿っている。開花させるか腐らせるか――善人と悪人の境目はそこで決まるんだ。帝都警察採用試験が来年にも実施される話、この前しただろう? そのほうがディアのためにもなるぞ」
部下らしき警官がグスタフ警部に耳打ちする。相づちを打った警部は小声と手振りで指示を出し、部下を走らせた。
民間人に危害が及ぶ前に。
そんな言葉の端がゼンの耳に届いた。
「あの子にはしあわせな家庭を築く権利がある。それを成せるか否かはゼン、お前次第なんだ」
「つまるところ僕は師匠のしあわせを妨げる障害だと」
逆だ。
と警部は呆れ気味にかぶりを振る。
「まっとうな仕事に就け、と言っているのがわからないのか。竜狩りを生業にするだなんて命がいくつあっても足りやしない。人間に地上を譲って山岳で暮らす竜たちをいたずらに刺激するだけだ」
「グスタフ警部はやたらと師匠を気にかけますね」
「歳の近い娘がいる」
「101歳の娘が?」
「だからその屁理屈をやめろ」
思春期の気難しい息子とそれに手を焼く父親。
傍からすればそんなやりとりであった。やっとこさ追いついてきたカタリナが、無言で向き合う二人に首を傾げていた。
「僕は斬ります。竜を斬ります」
遠くの空から、乾いた銃声が風に乗って届いた。
事故現場に戻ると、大勢の警察官が拳銃を構えて仔竜を囲っていた。
うつ伏せに倒れた仔竜の首周りのひだは力なく萎れ、つぶらな瞳は半開きに。口からは赤くて薄い舌を出している。道端で干乾びて死んでいるトカゲと同じ死相であった。
警察官たちが仔竜の死骸を縄で縛って貨物車両に運ぶ際、撃たれた腹から垂れた体液が街路の石畳を汚した。野次馬たちは怖いもの見たさで、貨物車両が走り去るまでその始終を見物していた。
「ちょっとかわいそうだったね」
カタリナが残念そうに言った。
見慣れた街並みが流れていく。
「剣の腕前を頼りに竜狩りの旅だなんて100年前のならず者がしてきたことだ。ゼン、お前と同年代の連中はみんな就職して会社員か公務員として働いている。今時帯刀しているヤツなんてどこにいる? おもちゃの剣で『ごっこ』遊びをしている子供くらいだぞ。警察官が嫌なら別の仕事を紹介してやろう。新聞社にツテがあるから、お前さえよければスーツを貸すし面接の日取りを相手方と調整してくる。おっと、その前に散髪して身なりを整えないとな。……焦らなくたって、お前たちは若いんだ。イチかバチかの博打より、地道にコツコツと借金を返していくのが懸命だと俺は思うぞ。ところで今度、ウチで食事でもしないか。家内がお前たちのことを気にかけていてな。娘もディアと――」
親父気取りのおせっかい甚だしい警部が警察車両を運転しながら長々とお説教を続ける間、助手席のゼンはわざとらしく耳に指で栓をしてそっぽを向き、流れゆく街並みを眺めていた。
発展のさなかにある帝都はあらゆるものがごちゃ混ぜで、多様で雑多で絢爛。都市計画が完遂された都心から離れるに従ってその傾向は顕著になる。
「カタリナ。店番はちゃんとしてるか」
「してるよー」
「そうか。困ったら遠慮せず俺やゼンを頼るんだぞ」
「はーい」
後部座席のカタリナは飴を口の中で転がしながら旅行雑誌を読みふけっている。
晴れた日の、午後の出来事であった。
あくる日の夜、バルシュミーデ古物商店にディアは招かれた。
店の奥は居住スペースになっており、カタリナ含めたバルシュミーデ一家が暮らしている。食卓には今日の主賓であるディア、それとゼン、団長とルイーズ、カタリナ、グスタフ一家三人が着いていた。
「どうしたどうした、みんな揃って。警部までいるじゃないか。そっちのおばさんと小さい女の子は、いつも鬱陶しいくらい自慢している奥さんと娘さんか? なーなー、これから何が始まるんだ? 隠し事だなんて趣味悪いぞ。おなかも減ったし」
「なら好都合ですね」
「へっ?」
目をしばたたかせるディアは、イチゴの乗ったホールケーキが運ばれてくるや更に仰天した。具体的には、イスごとひっくり返りそうになるほど。
自らの置かれている状況を把握してきれないディアは「なっ、なんなんだこれは! ごちそうが現れたぞ」とゼンの肩をしきりに揺すっている。貧乏ゆえ、突然の出来事に喜びを動揺が上回った。
「今日は師匠の誕生日です」
あっけに取られるディア。
「101歳のお誕生日おめでとうございます」
しばしぽかんとしていたディアは、目の前のケーキが自分のために用意されたものだと理解するや、水晶の瞳をきらめかせる。そして逆手に持って突き立てられたフォークがケーキを掻っ攫う……寸前、ゼンにそれを阻まれた。ケーキの乗った皿は危機一髪のところで救出され、フォークは木目調のテーブルに突き刺さった。
「物事には順序というものがあります」
電灯が消えて真っ暗闇になる。
それから刹那の火花が散った後、暗闇に小さな灯火が浮かびあがった。
ゼンの指先で赤々と燃える火は、呼吸の吐息に吹かれてか弱く揺らめく。白熱電球に比べて不思議な、生命が宿っているのを感じさせる。
マッチの小さな火は食卓を囲む皆をオレンジ色に照らす。
ケーキに立てられたロウソクに火が分け与えられていき、やがてその五本すべてに火が点った。
ロウソクの火を吹き消すようディアを促す。
「お前らずるいぞ。隠し事だなんて」
ロウソクの火はひと吹きで消え、闇が静かに舞い戻った。それから白熱電球の無機質な光が食卓を照らした。
ケーキは平等に切り分けられて皆で食べた。
たったひと口で平らげてしまったディアのために、ゼンは自分のケーキを差し出す。
ディアはそれを手で押し返す。
「い、いや、それはゼンが食べろ」
よだれを垂らして震えながら必死に欲求に抗っている。
「そうしないと、いつかこの日を思い出したとき『あのときのケーキおいしかったな』って懐かしめないからな」
「なら、代わりにこれを差し上げます」
「うわっ、ななななんだっ!? いきなりぴったりくっつくなって」
それは初めから誕生日の贈り物として用意したもので、我慢したご褒美というわけではなかったが、ちょうどよい頃合だったのでゼンは彼女の二つ結びの髪のひと房を手に取ってそれを結んでやった。
赤いチェック柄のリボン。
着古した服装に真新しいふたつのリボンだけやたらと映えていて、手鏡に映るディアの顔は恥じらいに赤らんでいた。
「おしゃれとかわたし、あんまりしたことないから」
「それはもったいないよー。私の持ってるアクセサリー貸してあげるからさー」
「見違えたぞ。年頃の女の子なんだから身だしなみを大事にしないとな」
「馬子にも衣装といったところでしょうか」
「そっ、その言い草は腹が立つぞ!」
半竜の少女がこの世界に生まれて落ちて101年目。
その日は多くの友人たちに祝福された。
賑やかな誕生会であった。