竜は言った(1/2)
「ちいさなお嬢さん。あなたは何故ここまで来たのですか」
竜は問う。
問われたちいさなお嬢さん――ディアは口ごもっている。
身の丈ほどある異形のバイオリンケースを大事に抱きしめ、後ろめたげな上目遣いで竜を窺っている。
人と竜。
小柄な少女と、鱗に覆われた巨大なる有翼の爬虫類。
二者の姿かたちは全く異なっていながら、透き通る水晶を想起させる青い瞳は一致していた。目の前に立つ竜の大翼と比較すればちっぽけなものの、同種のものが彼女の背中にも備わっている。
竜は長い首を直立させたままディアを見下ろしている。空を翔るための大翼はたたまれており、見下ろす眼は穏やか。敵意は皆無。むしろ小さな迷子をあやす母性すら感じた。
「その大きな楽器はどんな旋律を奏でるのでしょうか」
もうひとつ問われるも、ディアはバイオリンケースを抱えてだんまりを決め込んでいる。
中身がバイオリンであってもそうでなくても、そのケースは少女が持ち歩くには相当不便な大きさをしている。竜に限らず、すれ違う者は一度は振り返って中身に興味を示す。
二者の様子を後ろで見守っていた青年は「埒が明かないな」とかぶりを振った。
女性と見紛う長いポニーテールが、山岳を駆け抜ける風に乗って揺れた。
「……ゼン」
振り返ったディアに助けを求められる。
青年はディアを背中にかばい、竜の前に立つ。
そして、腰に差した太刀に手を伸ばした。
「あなたの名は?」
「僕の名はゼン。師匠――後ろの彼女の名はディア」
「ゼン、ディア。あなたがたは何故この山岳の頂上に住む私に会いにきたのですか」
「お前を狩るためだ。このカタナで」
びくりとディアが身をもだえさせ、ゼンの服を握り締める。
竜が目を細くさせ、爬虫類に酷似した顔の皺が幾重にも重なる。その皺の深さや哀れみを帯びた表情から、老練の賢者の知性を感じとれる。
「『竜狩り』ですね。あながた人間社会では竜の鱗や牙は高値で取引されていると聞き及んでいます」
「とりわけ青い眼球はな」
人里離れた山岳に巣を作って孤高を貫く竜たちにとって、物欲に縛られる人間たちは哀れみの対象なのだろうとゼンは思いをめぐらす。まばゆい宝飾品を見せびらかして富を誇示する金持ちなど確かに、人間からしても嫌悪の対象である。
それでもゼンもディアは竜を狩る。
竜を狩って、牙を抜き、鱗を剥ぎ、眼球をくり貫いて、仲介業者に引き渡して日銭を得る。それを延々と続けて二人は食いつないでいる。
ゼンとディアは狩人。
竜を狩る竜狩り。
「無抵抗に狩られろとは言わん。せいぜい足掻いて僕を楽しませろ。竜との死闘は人を斬るより心が躍る」
「ゼン!」
抜刀しようとするゼンをディアが咎めた。
ゼンは眉根を寄せる。
ディアはバイオリンケースを抱きしめたまま弱音を吐く。
「やっぱりやめよう。帰ろう、ゼン」
「師匠。この期に及んで」
「だってこの竜、やさしい竜なんだぞ。ふもとの村人に薬の作り方教えたり、ヒツジを襲う黒狼を追い払ったりしてくれてるんだ。フロレンツのヤツ、嘘ついてたんだぞ」
「まさか師匠、あの詐欺師紛いの銀行員の話を真に受けてたんですか。僕らに斡旋される竜狩りの仕事なんて大抵汚れ仕事ですよ」
「だって」
「竜を狩ってお金を稼がないと、師匠の積もりに積もった借金は一生返せません。それ以前に、僕らの明日の食事だってままなりません」
痛いところをつかれたディアが口ごもる隙に畳み掛ける。
「他者を殺して食いつなぐ――弱肉強食は原初から続く、生きる者たちの正当な権利であって逃れられない宿命です。僕らは竜を殺して生き長らえている。その事実は後ろめたくなんてありません」
「よ、よくわからんっ。難しい言葉並べてわたしをからかってるだろ。竜なんて他にもいるんだし、そいつらを狩ればいい」
「次の竜もやさしい竜だったとしたら?」
「いいから帰るんだってば! わたしの言うこと聞けって! ゼンのくせに生意気だぞ!」
言い負かされかけたディアはついに声を荒らげた。
駄々をこねた彼女は頑として譲歩しない。
なんとなく予想はしていたものの、ゼンは困り果てて溜息をついた。100年生きていようが、この不老の少女の精神は外見相応、10代前半相当であるのだ。
残りの寿命の900年、彼女はつつがなく暮らしていけるのだろうか。
ゼンに限らず、ディアとかかわりのある者は皆『半竜』である彼女の将来を心底案じる。この世界を生きていくには純粋すぎてやさしすぎるから。
彼女の背中から生える小さな竜の翼がばたばた羽ばたいている。いくら羽ばたこうと、空を飛ぶほどの風は生まれはしない。半竜の退化した翼は文字どおりお飾りなのである。
「鱗に覆われた巨躯と大翼を持つ私たち頑強な竜と違い、半竜はか弱き人の身で1000の年を生きねばなりません」
子供の姿で成長が止まる半竜にとって、半永久の命など呪詛に他ならない。親しい者であっても生涯の半分すら付き添えない。人間社会で生活していく限り必然的に、ディアは未成熟な心のまま悲しい別れを繰り返す。それは哀れむべき現実であった。
「ゼン。出会ったばかりの私にこのようなことを言われたところで響くかどうかはわかりませんが、永遠の子供である彼女をどうか守ってあげてください」
それは異なる進化を遂げたか弱き同胞への親心であった。
ゼンがディアと出会った日は雨が振っていた。
しとしとと静かに降る雨音を聞きながら、前髪の先から垂れる雨粒を虚ろに眺めていた。水溜りに広がっては消えていく波紋に心を重ねていた。そんなふうに行くあてもなく古物店の軒下で雨宿りしていたとき、ちいさな少女がオンボロ傘を差し出してきたのだ。
見慣れない顔だなー。ずぶぬれじゃないか。わたしの家に来るか? 男のクセに髪長いなー。そのカタナ、カッコイイな! 本物か?
無邪気な笑顔であった。
手を差し伸べた理由をある日ゼンが尋ねたとき、パンケーキを頬張っていたディアは「んー、単なる好奇心だ」と答えたのであった。
お前、いいヤツそうだったからなっ。
そうあっけらかんと言ったのだ。
「師匠。僕を困らせるのも大概にしてください」
膝を抱いて座ってふてくされるディアに、ゼンは手を差し伸べる。
ディアはぽかんと口を開けてゼンを見上げている。
「帰りましょう」
「だからわたしは――って、え? 帰るのか?」
「師匠が散々駄々こねてたんでしょうに」
「でも、だって、竜を狩らないとわたしたち」
「泣きべそかく子供のおもりをしながら竜なんて狩れません。いくら僕でもね」
「あ、うん」
「当分は小麦粉の味しかしないパンケーキを覚悟してください」
「……うん。ありがと、ゼン」
涙を拭ったディアはゼンの手を借りて立ち上がった。
泣きはらした顔には笑顔。
太刀の鞘に伸ばしていたゼンの手には今、守るべき少女のやわらかい感触がある。
ディアは竜に苦笑いを見せる。
「いきなり押しかけて悪かったな。やっぱり帰るよ」
「いいえ、ディア。私を狩りなさい」
「バカ言え。お前はやさしい竜だ」
「隣の彼の言うとおり、他者を殺して食べることは生き物に等しく与えられた権利と義務です。私はもはや寿命を全うするのを待つ身。半竜のあなたがここに来たのは、同胞に命を託す時期を暗示していたのでしょう」
「お前が死んだらふもとの村人は悲しむぞ。悪い竜なら他にいっぱいいるんだから、わたしたちはそっちを狩る。それに」
ディアは照れくさそうに鼻の頭をこする。
「ゼンが焼くパンケーキ、結構おいしいんだ」
「ゼンはあなたの大切な人なのですね」
「ぶっきらぼうで無愛想で、ホントはいいヤツなんだってわたしは知ってる」
「よかったですね」
竜の返事は我が子の成長を喜ぶ声色であった。
「わたしたちは山を降りるから。達者でな」
ゼンとディアは共にきびすを返す。
怖気が走ったのはその瞬間であった。
長い影が地面で躍って振り返ると、牙をむいた竜が鎌首をもたげていた。
老練な知性と慈愛はなりをひそめ、かつて大地を蹂躙した竜の獰猛さをむき出しにしている。
竜がディアを喰らわんとアゴを限界まで開いて襲い掛かる。
振り向きざまの遠心力を加えてゼンが抜刀しようとする。
それよりも早く、ディアがバイオリンケースを手前に押し出していた。それは彼女の意思とは無関係に行われた、命を守るための本能的な動作であった。
取っ手のスイッチが押される。
ケース内部のバネが作動する。
そして、側面のスリットから巨大な刃が突出した。
バネの加速と鋼の質量を乗算した、突発的かつ暴力的な一撃であった。
バイオリンケースに見せかけた、バネ仕掛けのナイフと表現すべきその大剣『サナトス』は尋常ならぬ長さと幅の刀身をバネの勢いで飛び出させて竜の上アゴを貫通し、頭蓋骨を粉砕した。床に落としたタマゴのように弾け飛んだ竜の頭部は周囲に肉片を撒き散らした。
前のめりになっていた巨体が横倒しになり、砂埃を巻き上げて太陽を隠す。縦方向の震動が三半規管と内臓を震わせた。
砂埃が納まると、頭部を失った年老いた竜の死骸がそこに残されていた。
脈打っていた心臓と腹部もやがて停止した。
ゼンとディアはしばし呆然としていた。
静寂は延々と続いた。
バネ式大剣『サナトス』にこびりついた体液が刀身からケースに伝い、少女の手に垂れて汚した。