綾瀬 -壱-
其の知らせを聞いたときは半信半疑だった。
寧ろ、信じたくなかったと言った方が正しいかもしれない。
急な召集に、退屈な話を聞かせられるのかとうんざりした。
ふたを開けてみれば、決して信じたくは無い話を淡々とした口調でそいつは言ってのけた。
疑って、疑って、しかし、それは事実なのだと認識するしかない。
目の前が真っ暗になる感覚、感情すくなに発せられた衝撃の言葉が、
真っ暗な視界の中でぐるぐると回って、やがて歪んで消えた。
「大丈夫…?」
トントンと肩をたたかれて小声で窺う声が、我に返るきっかけとなった。
一瞬茫然自失となっていたが、気を取り直して自分を心配して声をかけてくれた人物に「大丈夫」と返すと、再び淡々とした声でカンニングペーパを読み上げる声の方を向いた。
それは一種異様な光景であろう。
壇上にたった一人の年老いた男の前には、数百人も同じような格好をした人間が所狭しと並んでいる。
其の一人一人の顔など見る事無く、壇上にたった男は淡々と手元の紙に書いてあることを読み上げていく。
話が終わると、様々な人間が入れ替わりに壇上に出てきては、何事か喋って、やがて列の端からこの場から出て行く許可が出ると、あっという間にがやがやと騒がしくなってのろのろと出て行く。
その少年は、わなわなと肩を震わせていたが、しかし誰にも話し掛ける事無く列に続いてのろのろと出て行く。
その間、様々な考えがめぐる。
やがて気が付いたときには自分の所定の位置へと座っていた。
そこは窓際、外の青々とした葉を茂らせる桜の木がこちらに向かってくるように張り出しているのを一望する事ができる、特等席。
外を何を考えるまでも無く眺める。
何も変わらない。
変化の無い見慣れた景色。
不意にその景色が歪む。景色の輪郭が歪んで滲む。
不可解、不条理、怒り、哀しみ、憎しみ。
そんな感情が入り混じっていくのがわかる。
そして、そんな感情が頬を伝う。思わず袖でごしごしと拭いた。
「……では、黙祷をささげましょう。」
「起立っ!」
ガラガラ、と多くの椅子が引きずられる音が響いて、我に帰る。
慌てて自分も立ち上がった。
「黙祷!」
机と椅子。
そして30人ほどだろうか?
男女がほぼ同数押し込められた狭い部屋で、皆が皆立ち上がり、顎を引いて目を閉じている。
少年もそれに習って目を閉じた。
また、さっきと同じ感情が自分を襲ってくる。
閉じた瞳から零れ落ちるように涙が溢れた。
「やめ、着席。」
さっきと同じ音を立てて、再び全員が着席する。
全員が座った事を確認して、一番前でそこにいる全員を見渡せる場所に居る人物――教師は、いくつかの注意事項などを話すと、其の部屋を出て行った。
刹那――
教室はあっという間ににぎやかになる。部屋、つまりそこは学校であり、その一教室であるが、そこから出てどこかへ行くもの、特定の人物の机の周りに集まって話をするもの、様々だった。
「啓祐君…」
一人の少女が自分の名を呼んだ。
レンズの分厚い眼鏡をかけていて、少し茶色がかった長い髪を右肩のところで結んでいる、色白で制服の着こなしもきっちりとしている真面目な雰囲気の少女が直ぐ側にいた。
その少女は悲しみにくれた顔でこちらをみて、がっくりと首をうなだれている。
やがて、机に大粒の涙が零れ落ちる。
少女のかけていた眼鏡は涙を溜め込んで、そこから机に零れ落ちていた。
「深海…」
少年は自分の机の側で涙をこぼす少女を見上げて、しかし何も出来ずにただただ少女を見ている事しか出来ずにいた。
「あっちゃん、日曜日にお買い物行こうね、って…やくそく…してたんだよ?」
「ああ…」
悲しさからか、涙をこらえているからか、ようやく声をひねりだしたようにたどたどしくその少女――深海 美里は言う。
少年は目をそらして短く答えた。
こ らえきれない感情が目頭を熱くして、美里から目をそらさなければ自分も涙を流してしまいそうだったからだ。
「今日は、数学で…あてられるかも、って、一緒に…予習してたんだよ?」
「…ああ。」
美里は、ぐっと少年の袖を強くつかんで涙を拭く事もせずに、途切れ途切れに語りかける。
短く答えることしか出来ない。
必死で、感情を抑えているから、それ以上喋ってしまえば感情に支配されてしまう。そう思ったからだ。
「凄く…昨日まで、元気に…う…ああぁぁっ!」
袖をつかむ力がより強くなったかと思うと、次の瞬間にはへたり込むように、少年の腕にすがるように泣き崩れてしまった。
「……ああ。」
それでも、少年――峰塚 啓祐は外の景色を見て、短く答える事しかしない。
腕にすがるようにして泣く美里の重みを感じて、その重みが感情をこらえるのを手伝ってくれるようで、幾分楽になったようだった。
「どうして…どうして、亜津子が…あぁぁぁぁっ!」
絶叫にも似た泣き声が教室に響いて、その一瞬で教室中の視線は二人に集まった。
「………」
啓祐は目をぐっと閉じて涙が零れようとするのを必死でこらえた。
出来るなら、自分の腕にすがって泣いている女の子に優しい言葉をかけてあげたい。
ぐっ、と手を握り締めてでも力づけてあげたい。
どうにかして落ち着かせてあげたい。
そう思っても、自分の零れ落ちそうになる感情の塊をこらえるのが精一杯でどうにもならなかった。
やがて、酷く泣き崩れた美里に、彼女の友人たちが諭すようにして何とか落ち着かせようとする。
いくらか落ち着いたところで、念のため、美里を保健室へと連れて行く、と、友人たちは彼女を伴って教室を出て行った。
見送ることもせず、いや、出来ずに啓祐は、外の景色を眺めるだけ。
退屈が支配していた日常。
其の日も何も変わらないはずだった。
そこに居るはずの人は、何故いないのか。
心にぽっかりと穴をあけたその知らせは、友人の訃報だった。
教師の話では、強盗による一家惨殺だったという。
詳しい事はわからない。教師にも知らされていないのかも知れない。
犯人は捕まっていないらしく、警察が学校へ告げた注意事項を教師が代弁し、今日の授業は午前中で終わる事になっている。
其の事に歓喜する人間もいただろうが、それは表に出る事はない。
自分の身に降りかからなければそれは他人事でしかない。
ましてや自分の身に降りかかる事などはない、普通はそうなのかもしれない。
しかし、啓祐は平然としている人間に嫌悪感を覚え、苛立つ。
「運が悪かったんだよな。」
その言葉が聞こえた時、啓祐はその人物へ殴りかかった。
完全に不意を突かれる形となったそいつと啓祐は、机を巻き込んで床へと倒れる。
「なにがっ!!」
啓祐はさらに倒れたそいつに圧し掛かって身動きを封じると、殴った。
「運が悪かったってなんだよっ!!」
涙が零れるのも、もう構わずに殴りつける。
一瞬教室の全員がそれに呆気に取られたが、直ぐに男子が止めに入る。
「おい!やめろ!血がでてる!」
数人掛かりでようやく啓祐は取り押さえられて、しかしもがき暴れる。
「わるかった…」
殴られていた方は、自分は被害者だというのにすまなさそうな顔をして啓祐に頭を下げる。
『1年の峰塚啓祐君、職員室まで来てください。』
殴っていた相手の謝罪と、学校中に響いたアナウンスの声に、はっと我に返って、啓祐は暴れるのをやめて目の前で自分に頭を下げた人間と取り押さえた皆に「ごめん」と一言呟いて教室を出て行った。
次回は17日を予定しております。よろしくお願いします。