綾瀬 -終-
いつも其の気配と鋭い双眸に圧倒されて我を忘れる。
直感的にそう感じたとはいえ、そいつが果たして犯人かはわからない。
しかし、あの人間業とは思えぬ現場の話と、自分の見た夢。
それは、まるで人間の物ではない気配を放つあの男を指していると、そう思った。
探し出す事はできるだろうか。
気づけば、そこにいて、次の瞬間には消えている、まるで雲のように不確かな男を捕まえる事はできるのだろうか。
それが出来ねば、男が自分に接触してくるのを待つしかない。
どんな人物なのかは全く知らぬが、過去二回全くの他人である自分を呼び止めた事、これは偶然ではないと思う。
偶然ではないと確証があった。
あの男は自分に何かを訴えかけている。
過去の接触の状況から考えても、そうとしか考えられなかった。
――何を喋ったかは覚えていない。ただ、体の奥底から何かが膨れ上がる感覚を覚えていたから、そう思えた。
かといって…
ただただ接触してくるのを待つ気はさらさらない。
しかし、其の男を探し出すだけの手がかりも無い。
そんな時――
それは年が明けて間もない頃。
美里に連れられるがまま初詣に行った時だった。
そこは1年前にも啓祐と美里、そして亜津子と初詣に来た神社だった。
初詣の時期なのに人気はあまりなく、しかし静かな神社で啓祐は密かにそこを気に入っていた。
参拝を済ませて、帰りがけにおみくじを買った。
去年は神主が自ら御神籤の販売をしていたそこに、今年は一人の巫女がいた。
一瞬眼を奪われる美しさ、艶やかさ。
髪の色、肌の色、そしてそれを包む巫女の衣装。
全てが両極端で、今にも崩れそうな危うさをもって、その人は美しく、居た。
御籤を引いて、其の番号にあった札を引き出す。
その動作の一つ一つ、どれをとっても優雅で、上品で…
「今年一年の幸を貴方方に…」
巫女が札を渡す。
啓祐に札を渡す時、その巫女は一瞬彼の目を見た。
刹那――
啓祐は一瞬その巫女の目が赤く光ったような気がした。
そしてとある感覚に襲われる。
それは、あの男に魅入られた時と良く似た感覚だった。
一点、違うのはそこに一瞬の母のような安らぎを感じた事だ。
それは本当に一瞬の事で、以前あの男に出会ってなければ、ただただこの巫女の
魅力に魅入られてしまっただけと考えただろう。
しかし、それは違った。
啓祐はこの巫女もあの男と同じ、只者ではないと感じた。
そして、この巫女があの男への手がかりとなる、そう思ってやまなかった。
美里を送って、その帰り道。
あの男だ。
あの男が以前のように、自分を呼び止めた――
-----------------------------------
電話が鳴った。
啓祐の母からだ。
まだ啓祐が帰ってないらしい。連絡も無い。
電話口のその声からさえ、啓祐の母親の顔色が青くなっているのがわかる。
高校生にもなって、そんなに気にする事でもないとそうは思ったが、何も連絡が無いと言うのは確かにおかしいと思った。
もしかしたら…
そう思い立って、彼女は電話を切るのもそこそこに家を飛び出した。
向かうのは、今日行ったあの神社。
御籤を引いてから啓祐の様子はどこかおかしかった。
夜の冷気は、肌を切り裂くような感覚を与えて、しかしそれにかまわず走った。
何か。何かとてもいやな予感がした。
兎に角、神社へと急がなければ。直感がそう告げた。
神社の境内、参道。
石畳の上に微かに積もった雪。
そこにはあの御神籤を渡してくれた見目麗しい巫女が居た。
闇に映える白い装束、そしてその赤い瞳。
それを見た美里は一瞬息を飲んだ。
心のどこかで危険を知らせる警鐘が鳴っている。
巫女のその美しさが、何よりも危険なものに感じた。
「まっていたわ…」
巫女を危険な人物と認めたときには、既に遅かった。
まるで金縛りでもかけられたかのように、体がぴくりとも動かせず、そして巫女の赤い瞳から目をそらす事さえ出来なかった。
敵意や殺意などと言うものは微塵もなく、だがしかし、人間ではない、そんな気がして、それが危険だと認識させる唯一の事柄だった。
「待って…いたわ…」
巫女はもう一度そう言った。
--------------------------------------
「俺に、何か?」
意識ははっきりして、支配される事が無かった。
そして、いつものように体の底から湧きあがる何かを、今までよりもはっきりと感じていた。
「……深綾に遭ったか。」
壁に寄りかかるようにして腕組みをしていた男はそれを崩して、啓祐の前に仁王立ちになる。
「あなたは…あなたに聞きたい事がある!」
男の鋭い双眸にまけじと男を睨む。
「……」
黙してただただ啓祐を見ている男。
「あなたが…あなたが亜津子を殺したのか?」
「亜津子?…誰だ?」
「半年前に何者かに殺された…俺の恋人だ。」
「知らぬ。」
男は嘘を言っているようには見えない。しかし、ここで食い下がってはあの事件の謎を解く手がかりがなくなってしまうような気がした。
「あなたは、人間なのか…?俺にはどうしてもそう思えない!」
ずっと感じていた疑問だった。自分を支配するあの眼、そしてあの感覚。
「……お前は…」
男が口を開く度に、体の底から湧きあがる、これは力。
何かが目覚めようとしていた。
「それはお前が一番知っている…いや、こちらから尋ねよう。お前は人間か?」
「何を、当たり前じゃないか。どこをどうみても俺は人間だ。」
「やはり…愚かな。綾瀬の力を埋めてしまった一族か…」
「綾瀬?」
何の事だ。
「俺は峰塚だ。綾瀬とかいうんじゃない。」
「聞いたよ。お前は峰塚だ。」
不思議な事を言う。まるで話が通じてない。
綾瀬だと言ったり、峰塚だと言ったり。
「呼び起こしてやろう。貴様等が埋めた力と、お前が自ら封じた記憶を。」
男がその言葉を放った瞬間、啓祐を明らかな異変が襲った。心臓の鼓動が早くなっていく。体中が熱くなって、まるで血液が沸騰しているようなそんな感覚が襲う。
目が充血していくのがわかる。視界が赤くなっていく。
赤い…そうあの時と、あの夢と同じだ。
赤くなっていく、目の前で亜津子が肉塊になっていく。
そしてそれを、下品な音を立てて貪った、あの夢と同じ。
目の前に居たあの男の姿がない。
いや、違う。あの男がいた所に異形のものがいる。
恐ろしい爪、そして角。
身の丈は人間を遥かに凌駕し、その筋肉は異常なほど発達しているのがわかる。
「これが、妖の理。そしてお前は、血の薄くなった峰塚の一族に於いて、妖の血が最も色濃く出たもの。我が接近によりお前の力は暴走した。」
気づく。目の前の異形の姿と、身の丈こそ違うものの同じ形をした自分に。
いや、まて。
目の前のこの異形の者の言い方ではまるで…
「そんな…まさか…まさかあああ!!」
「お前の言う、亜津子。それはおそらくおまえ自身が"喰った"。それに相違ないだろう。」
「そんなことが…あるわけがない!貴方だ…亜津子を殺したのは貴方だ!」
「我を責めるか。だが、事実は曲げられぬ。我は無差別に人間など食わぬ。」
「亜津子…亜津子を返せぇッ!」
目の前の異形に拳を振りかざす。それは風を呼び、嵐を起こすように目の前の
者へと向かっていく。
「……なるほど。この様子ならば、深綾はもう要らぬな…」
何の事を言っているのかはわからない。
兎に角も、啓祐は自分が亜津子を殺したなどと認めたくは無かった。
例え、自分が殺したにせよ、それは目の前のこの異形の者の所為でだと、勝手に決め付けた。
そうしなければ、押しつぶされそうだった。そして、目の前のそいつを憎まなければいけない。
自分が目の前の異形と同じ姿をしている事も、亜津子を殺した事も、何もかも認めたくなかった。
だから、一心不乱に目の前の異形を倒そうとそう思った。
「ふふ…いいぞ…其の眼だ。憎しみと後悔に満ちた其の眼。そして深綾などに比べ物にならぬその力。精々我を楽しませよ。」
-----------------------------------------
大きな力同士がぶつかっているのを深綾は感じていた。
あの朝峰の強大な力と、それにぶつかるこれも強大な力。
それは深綾の力を凌駕していたが、しかし朝峰には及ばない。
「目覚めてしまったのか…」
呟く。悲しみとも諦めとも取れない呟きだった。
しかし、朝峰に憎しみをぶつけているのであれば、それは好機と言えよう。
そう思い立った時、深綾はそこへと急いだ。
しかし――
朝峰に向かっていく力が急速に衰えているのを感じ始めていた。
「まずい…!」
ようやく、深綾が到着した時、そこに朝峰の姿は既に無かった。
人間の子供の骸が一つ
いや、骸ではない、まだ生きている。
しかし、ピクリとも動かない。
足が砕かれ、手を潰されて、何度も血を吐き、血溜まりを作る。
もはや虫の息だった。
「お前、峰塚のものだな!?」
かけよりもはや言葉を発するのもやっとの少年を抱きかかえる。
「………ぁ…」
何か言いかけてまた血を吐く。それは深綾の巫女装束の白を赤黒く汚す。
そして、何も言えぬまま、少年は息絶えた。
「くっ……まただ…またか…!」
既に息絶えた少年の頭をぐっと抱きしめると、涙が頬を伝って物言わぬ少年の額へと落ちた。
「綾芽に誓ったのに…綾芽に…誓ったのに!」
朝峰にぶつかる力が急速に衰えるのを感じた時、深綾は好機を狙うという考えから、朝峰に憎しみをぶつけるその人物を助けたいというように考えを変えていた。
それはかつて、自分に課した、一つの信念であった。
しかし、間に合わなかった。
それが悔しくて仕方がなかった。
もう動く事が出来ぬ少年を暫く抱きしめたまま、深綾は声を上げて、泣いた。
「待っていたわ…」
目の前には、先程峰塚の者と行動を共にしていた少女。
伝えねばならぬ。少年の死を。
それは、まだ子供と言えるこの少女にとっては残酷な告白と言えよう。
しかし、言わねばならぬ。
「啓祐は…いないの…?」
啓祐。それがあの少年の名か。
妖の血を色濃く持って生まれたがために、死んだあの少年。
少女は自分の気配に圧倒されていたが、その想いは強く、だがようやく言葉を
発せたのだろう。上ずって、かすれ声で、それは嘗ての自分を見ているような気がしてならなかった。
「……峰塚の…お前の言う啓祐は、死んだ。」
一瞬、目を見開いて、それは段々にほそまっていき、そしてその目尻には涙が溜まっていく。
「啓祐は、死んだ。」
もう一度だけいうと、冷静を装って、しかし、苦しくて、深綾は少女に背を向けて歩き出した。
少女の叫びと嗚咽。その声はしばらく神社の境内へ響いて、止む事は無かった。
雪が降る。何事も無かったかの様に降る雪は、どこか物悲しく、そして儚い。
無感情な雪は少女に優しく、しかし冷たく降って、そして消える。
微かな光に照らされた雪は、それはまるで灰が虚空を舞うように降りつづけ、
それはやがて地を黒く染めていく。
ただ、地を黒く染めていく…
これにて一端終幕とさせていただきます。
こちらの話は余裕があれば、シリーズとして徐々に乗せていこうと思っています。
構成としては三部構成を予定しております。